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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第25話 妹のドレスには、毒と同じ香りがしました

 香りというものは、厄介だ。


 目に見えない。

 手で掴めない。

 紙に記録しづらい。


 それなのに、人の記憶には妙に残る。


 白い花の香り。


 セレーネの袖口。

 王妃宮の控え廊下。

 私の控室。

 毒瓶の口。


 その香りが、少しずつ私の周りを囲んでいる。


 甘くて、可憐で、柔らかい。


 けれど今の私には、その香りが薄い刃物のように思えた。


「こちらが、法務卿から届いた鑑定の中間報告です」


 オスカーが机の上に書類を置いた。


 クラウゼル公爵家の小応接室。

 午前の光が窓から入り、机の上の紙を白く照らしている。


 私は長椅子に座り、膝の上には薄い膝掛けをかけられていた。

 マルタの判断である。


 今日の私は、体調としては悪くない。

 けれど、マルタ曰く「悪くない時ほど油断して余計なことをするので危険」らしい。


 反論できないのが悔しい。


 レオンハルト公爵は向かいに座っている。

 いつも通り無表情だが、視線は書類から少しも離れない。


「鑑定といっても、正式な結論ではありません」


 オスカーはそう前置きした。


「毒瓶の口に残っていた香油の痕跡。セレーネ嬢が茶会当日に身につけていたとされる白い花の香油。モルガン商会の新作香油。この三つについて、香りの構成がかなり近いようです」


 かなり近い。


 胸の奥が、静かに冷える。


「一致、ではないのですね」


 私が尋ねると、オスカーは頷いた。


「はい。香りは毒物と違い、成分の完全一致を断言するのが難しいそうです。特に香油は保管状態や使用量で変化する。ただし、使われている花精油、甘味のある樹脂、保存用の酒精の比率が似ている」


「つまり」


 レオンハルト公爵が低く言った。


「同じ製法、同じ商会、同じ系統の品である可能性が高い」


「はい」


 オスカーが頷く。


「さらに、モルガン商会の記録では、その新作香油はまだ一般販売前です。限られた相手にしか渡っていません」


「誰に」


「王妃宮。アルヴィナ公爵家。リディア子爵令嬢。あと二名ほど貴族夫人に試供品として」


「リディア嬢にも」


 私は呟いた。


 噂を流した令嬢。


 彼女も同じ香りを身につけていた。


 花の香りで、令嬢たちを繋ぐ。

 可憐な贈り物のように見せて。


 その下で、毒と噂と金が動いている。


「セレーネは……」


 私は言いかけて、止まった。


 セレーネは、その香油を王妃殿下からもらったと言っていた。

 けれど記録上は、モルガン商会からアルヴィナ家へも届いている。


 王妃宮から渡されたのか。

 アルヴィナ家で受け取ったのか。

 それとも、その両方に記録を作っただけなのか。


「エリシア」


 レオンハルト公爵が呼んだ。


「はい」


「顔色が落ちた」


「香りの話は、少し……気持ちが悪くなります」


「止めるか」


「いいえ。聞きます」


 即答した後、マルタを見る。


 彼女が静かにこちらを見ていたので、私は言い直した。


「怖いです。でも、聞けます」


「よろしいです」


 確認を通った。


 最近、自分の状態を正確に言い直すことが増えた。

 面倒だが、少しずつ必要性は分かってきた。


 オスカーは机に小瓶を三つ並べた。


 私は思わず身体を強張らせた。


 マルタがすぐに一歩前へ出る。


「オスカー」


「中身はすべて極薄に希釈した試料です。毒性はありません。香りも弱くしてあります」


「最初に言いなさい」


「失礼しました」


 オスカーは素直に頭を下げた。


 レオンハルト公爵の視線が鋭い。


「次に同じことをしたら、退室させる」


「肝に銘じます」


 私は息を整えた。


 小瓶は透明で、どれもごくわずかな液体が入っている。

 封蝋の色が違う。


 白。青。灰。


「白が毒瓶の口に残っていた香油の痕跡を再現したもの。青がモルガン商会の新作香油。灰が王妃宮から提出された、セレーネ嬢使用品とされる残りです」


「セレーネの香油が提出されたのですか」


「はい。ただし、王妃宮経由です」


 王妃宮経由。


 それだけで、信用が揺らぐ。


「本人の部屋から直接ではないのですね」


「ええ。王妃宮の侍女が『保管していた同品』として提出したものです」


「ミレイユですか」


「提出者名は、ミレイユ」


 やはり。


 私は小瓶を見た。


 セレーネ本人のものではない。

 王妃宮が出してきた同品。


 それはつまり、差し替えられる可能性がある。


「これは証拠として弱いですね」


 私が言うと、オスカーが少し目を細めた。


「その通りです。ですが、王妃宮側は逆にこれを使い、毒瓶の香油とセレーネ嬢の香油は違うと主張する準備をしている可能性があります」


「違う?」


「灰の瓶だけ、花精油の比率が少し違うそうです。つまり、毒瓶の口に残っていた香りとは似ているが完全には同じではない、と言える」


 私は眉を寄せた。


「でも、それは王妃宮から提出されたものです」


「はい」


「本当に茶会当日にセレーネが使ったものとは限らない」


「その通り」


 レオンハルト公爵が低く言った。


「本物の香油を探す必要がある」


「はい」


 オスカーが頷いた。


「セレーネ嬢の部屋、もしくはアルヴィナ家へ届いた贈答品の残り。リタという侍女が片づけた可能性もあります」


「リタ……」


 セレーネ付きの侍女。


 茶会当日、毒瓶押収時の立会人でもあった。


 そして、セレーネのそばにいつもいた。


「リタは、セレーネを守ろうとしているのでしょうか」


 私が尋ねると、オスカーは肩をすくめた。


「守っているのか、誘導しているのか、両方か。まだ分かりません」


「両方」


 その言葉が、胸に残った。


 人は、誰かを守りながら傷つけることがある。


 父も、王太子殿下も、きっと自分では何かを守っているつもりだった。

 家を。王宮を。セレーネを。自分の立場を。


 その結果、私が処刑されかけた。


 リタも同じなのだろうか。


 セレーネを守るつもりで、私を差し出したのか。

 あるいは、もっと上の誰かの指示でセレーネを動かしているのか。


 マルタが静かに尋ねた。


「エリシア様。この香りを確認されますか」


 私は小瓶を見た。


 怖い。


 あの香りを嗅げば、茶会の日が戻ってきそうだ。


 セレーネの涙。

 王太子殿下の苦しげな顔。

 私へ向けられた視線。

 毒瓶。

 地下牢。


 でも、確認したい。


「確認します」


 レオンハルト公爵がすぐに言った。


「無理はするな」


「無理ではありません」


 言ってから、少し考える。


「怖いですが、必要です」


「分かった」


 マルタが私の前に白湯を置いた。


「気分が悪くなったら、すぐ止めます」


「はい」


 オスカーは白の小瓶の蓋を開けた。


 部屋に、薄い香りが広がる。


 白い花。


 甘くて、柔らかくて、少し湿ったような香り。


 瞬間、喉が詰まった。


 あの日の控室が、目の前に浮かぶ。


 鏡台。

 セレーネの白い袖。

 小棚の取っ手。

 泣きそうな声。


『お姉様、少しだけよろしいですか?』


 私は膝掛けを握った。


「エリシア」


 レオンハルト公爵の声。


 私は目を開けた。


「大丈夫……ではありません。でも、まだ聞けます」


「今は香りを嗅いでいるだけだ」


「そうでした」


 少しだけ笑えた。


 笑いは浅かったけれど、それで呼吸が戻る。


「この香りです」


 私は言った。


「毒瓶の口の香りは分かりません。でも、私の控室で感じたものと近いです」


「セレーネ嬢の袖から?」


 オスカーが尋ねる。


「はい。茶会の日、セレーネが私の控室へ来た時、この香りがしました」


 青の小瓶。


 モルガン商会の新作香油。


 蓋が開くと、よく似た香りが漂った。

 ただし、少しだけ華やかさが強い。若い令嬢が好みそうな、甘く可憐な印象。


「これも近いです」


 私は答えた。


 灰の小瓶。


 王妃宮から提出された、セレーネ使用品とされる香油。


 こちらは、花の香りが少し軽い。甘さも薄い。


「……違います」


 思わず言った。


 オスカーの目が鋭くなる。


「違う?」


「似ています。でも、茶会の日の香りはもっと濃かった。甘さが残るというか、袖が動くたびに香るような強さがありました。これは薄いです」


「使用量の違いでは?」


「その可能性はあります」


 私は慎重に答えた。


「でも、セレーネは香油をたっぷりつける子ではありません。強い香りで目立つより、近づいた時だけふわりと香る程度を好みます。あの日は、いつもより強かった。だから私も気になりました」


 言ってから、胸が少し痛んだ。


 私は、セレーネの好みを知っている。


 あの子が何を好み、何を怖がり、どんな時に袖を握り、どんな香りを選ぶのか。


 憎みたいのに、知っている。


 それがつらい。


「エリシア様」


 マルタが声をかける。


「はい」


「ご自分を責めかけていますか」


「……少し」


「では、止めましょう」


「はい」


 私は息を吐いた。


 すぐ自分のせいにする癖は、本当に厄介だ。


 セレーネの好みを知っていることと、彼女に罪を着せられかけたことは別。

 彼女が利用された可能性と、私が傷ついた事実も別。


 頭では分かっている。


 心は、まだ少し遅い。


「重要なのは」


 レオンハルト公爵が言った。


「王妃宮から提出された香油が、君の記憶と違うことだ」


「はい」


「法務卿に伝える」


「お願いします」


 オスカーが書き留める。


「エリシア様の証言としては、『茶会当日のセレーネ嬢の香りは、王妃宮提出品より強く、モルガン商会新作香油に近い印象』。ただし香りの記憶であり、断定ではない」


「はい。それでお願いします」


 断定しない。


 けれど、曖昧にもしない。


 私は覚えている。


 そのこと自体は、記録に残していい。


 その時、オスカーがもう一枚の紙を取り出した。


「そして、こちらが少し面倒な情報です」


「面倒ではない情報が最近ありませんね」


 私が言うと、オスカーは真顔で頷いた。


「同感です」


「何だ」


 レオンハルト公爵が促す。


「アルヴィナ家の侍女リタが、昨日、セレーネ嬢の部屋から小瓶を一つ持ち出した可能性があります」


 私は息を止めた。


「香油ですか」


「まだ不明です。ただ、白い小瓶を布に包んでいたという証言があります。見たのは下働きの少年で、本人は香油とは断言できないそうです」


「どこへ?」


「王宮へ向かった馬車に乗せられました」


 王宮へ。


 つまり、王妃宮へ渡った可能性がある。


 私たちが本物を探そうとする前に、片づけられた。


「早いですね」


 私は呟いた。


 レオンハルト公爵が言う。


「こちらが香油を追っていると気づかれたか」


「可能性があります」


 オスカーが頷く。


「リディア嬢の周辺を観察していたことが、どこかで漏れたかもしれません。もしくは王妃宮が先に証拠を整理している」


「整理」


 私はその言葉に少し笑った。


「便利な言葉ですね。証拠を消すことも、整理になるのですか」


「王宮では、よくあります」


 オスカーが軽く言い、マルタに見られて肩をすくめた。


「失礼。ですが、事実です」


 レオンハルト公爵は指で机を軽く叩いた。


「リタを押さえる必要がある」


「直接ですか」


「逃げられる前に」


 私は胸の奥がざわついた。


 リタ。


 セレーネのそばにいる侍女。


 もし彼女が香油を持ち出したなら、セレーネは知っているのか。

 知らないのか。

 命じたのか。

 命じられたのか。


「セレーネは、その小瓶が持ち出されたことを知っているのでしょうか」


「不明です」


 オスカーは答える。


「ただ、アルヴィナ家の下働きによると、昨日のセレーネ嬢はかなり不安定だったようです。白い花の香油を片づけるようリタに命じた、という話もあります」


 私は顔を上げた。


「セレーネが、自分で?」


「はい。理由は分かりません」


 胸の奥が、また複雑に揺れた。


 セレーネが香油を片づけようとした。


 それは、罪を隠そうとしたのか。

 香りが怖くなったのか。

 自分でも何かに気づき始めたのか。


 分からない。


 分からないことばかりだ。


「妹君は、黒か白かで分けにくいですね」


 オスカーが言った。


「ええ」


 私は頷いた。


「それが、一番厄介です」


 セレーネが完全な悪人なら、楽だった。


 私を妬み、毒瓶を置き、涙で罪を着せた。

 そう決められれば、憎める。


 でも、あの子は怖がっていた。

 利用された可能性もある。

 それでも、私を傷つけた。


 全部が同時にある。


 人間だから。


 レオンハルト公爵が言った言葉が、頭に残る。


 私は、少し目を伏せた。


「セレーネが香油を片づけようとしたなら、あの子は少なくとも何かを怖がっています」


「罪か」


 レオンハルト公爵が言う。


「あるいは、罪にされることを」


 私が答えると、彼は頷いた。


「両方あり得る」


「はい」


 マルタが私の前に小さな皿を置いた。


 焼き林檎だった。


「マルタさん」


「はい」


「今ですか」


「今です」


「香油の話の途中ですが」


「香りで気分が悪くなった後は、覚えている味で戻るのがよろしいかと」


 私は皿を見た。


 焼き林檎に、蜂蜜が少しだけ。


 昨日、好きだと言った味。


 確かに、白い花の香りがまだ鼻の奥に残っている。

 それを上書きするように、温かい林檎の香りが立ち上った。


「……ありがとうございます」


「必要な礼ですので受け取ります」


 私は一口食べた。


 林檎の酸味。

 蜂蜜の甘さ。


 白い花の香りが、少し遠ざかる。


 レオンハルト公爵が私を見ている。


「食べられるか」


「はい」


「ならいい」


「公爵閣下は、こういう時に本当に食べることを重視しますね」


「生きている証拠だからな」


 その言葉に、胸が少し詰まった。


 生きている証拠。


 毒の香りを嗅いでも、私はここで焼き林檎を食べている。

 処刑台ではなく、小応接室で。


 それは確かに、生きている証拠だった。


 オスカーは、少しだけ表情を和らげてから続けた。


「リタの動きについては、こちらで追います。王宮へ渡った小瓶が本物なら、王妃宮に入った可能性が高い。入れば取り返すのは難しいですが、持ち込まれた記録を探します」


「お願いします」


「セレーネ嬢への接触は?」


 レオンハルト公爵が私を見る。


「まだしません」


 私は言った。


「今会えば、セレーネは泣くでしょう。あるいは、何も言えないかもしれません。こちらも、あの子を問い詰めるだけの材料が足りない」


「だが、遅れれば王妃宮に固められる」


「はい」


 そこが難しい。


 セレーネを放置すれば、王妃宮やリタに囲われる。

 でも、急いで会えば、また涙と感情で真実がぼやける。


「手紙はどうでしょう」


 私は言った。


 マルタが少し眉を上げる。


「セレーネ嬢へ?」


「はい。会うのではなく、短い手紙を」


「何を書く」


 レオンハルト公爵が問う。


 私は少し考えた。


 責める言葉は、まだ早い。

 許す言葉は、絶対に書けない。

 慰める言葉も違う。


「白い花の香油は、まだあなたの手元にありますか、と」


 部屋が静かになった。


「それだけですか」


 オスカーが尋ねる。


「はい。それだけ」


 私は続ける。


「セレーネが本当に何も知らないなら、驚くでしょう。隠そうとしているなら動揺する。怖がっているなら、こちらが香油に気づいていると分かる」


「罠だな」


 レオンハルト公爵が言う。


「罠というより、針です」


「針?」


「大きな網ではありません。少し刺して、どこが痛むか見るだけです」


 言ってから、自分で少し怖いことを言ったと思った。


 マルタが静かに呟く。


「悪女様らしくなってまいりましたね」


「マルタさん」


「褒めております」


「本当に?」


「半分ほど」


「半分」


 私は苦笑した。


 レオンハルト公爵は真面目に頷いた。


「いい案だ」


「本当に?」


「ああ。短い方がいい。余計な感情を混ぜない」


「はい」


「ただし、直接送るな」


「途中で握りつぶされますか」


「その可能性がある。ロザリンド侯爵夫人経由か、法務卿経由にする」


 オスカーが考える。


「法務卿経由だと正式性が強すぎます。セレーネ嬢が身構える。ロザリンド夫人経由なら、届いたこと自体が社交の小さな噂にもなり得る」


「夫人は喜びそうですね」


「退屈しないでしょう」


 私は少し息を吐いた。


「では、ロザリンド夫人に頼みます。手紙ではなく、夫人の茶会の席で伝言として」


「言葉は?」


 マルタがペンを取る。


 私は考えた。


「『白い花の香油は、まだあなたの手元にありますか』」


 少し間を置く。


「それから」


 胸が痛む。


 でも、言う。


「『もし怖いなら、怖い理由を間違えないで』」


 書き取るマルタの手が、一瞬止まった。


 レオンハルト公爵が私を見る。


「妹を助けたいのか」


 その問いに、私はすぐには答えられなかった。


 助けたい。


 それは、簡単には言えない。


 私はセレーネに傷つけられた。

 あの子の涙で殺されかけた。


 でも、もしあの子が今、誰かに利用されていて、怖がっているのなら。


 見捨てたいわけではない。


 それがまた腹立たしい。


「分かりません」


 私は正直に答えた。


「助けたいのか、真実を知りたいのか、責任を取らせたいのか。全部少しずつあります」


「それでいい」


 レオンハルト公爵が言った。


「今、ひとつに決めなくていい」


 その言葉に、胸の緊張が少しほどけた。


「はい」


 マルタが書き終えた紙を確認する。


「ロザリンド侯爵夫人には、こちらから適切な形で」


「お願いします」


 オスカーが小瓶を片づけ始めた。


 白。青。灰。


 それぞれ封をして、布で包む。


 私はその小瓶から目を離せなかった。


 妹のドレスには、毒と同じ香りがした。


 そう言い切るには、まだ早い。


 けれど、近づいている。


 セレーネの袖に残った香り。

 毒瓶に残った香り。

 モルガン商会の香り。

 王妃宮が提出した、少し違う香り。


 誰かが、香りを使っている。


 誰かが、可憐な花の匂いで、罪の形をぼかそうとしている。


 私は焼き林檎をもう一口食べた。


 白い花ではなく、林檎と蜂蜜の香りを覚えるために。


「私は、あの香りを忘れません」


 静かに言った。


 レオンハルト公爵が頷く。


「記録に残す」


「はい」


「だが、上書きも必要だ」


「上書き?」


「嫌な香りだけで記憶を埋めるな」


 彼は少しだけ考え、言葉を選ぶように続けた。


「焼き林檎も覚えておけ」


 不器用な慰めだった。


 でも、今の私には十分だった。


「はい」


 私は小さく笑った。


「覚えます」


 妹のドレスに残っていた、白い花の香り。

 毒瓶の口に残っていた、罪の香り。


 そして、クラウゼル公爵家の小応接室で食べた、焼き林檎と蜂蜜の香り。


 どれも私の記憶だ。


 奪わせない。


 都合よく書き換えさせない。


 私はもう、誰かの涙にも、誰かの香りにも、黙って罪を着せられる女ではない。


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