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第98章「夜明け前の静寂――“変わってしまった朝”」


窓の外は、まだ完全な夜明けには届いていなかった。


薄い青と黒がゆっくりと混ざり合い、世界が少しずつ輪郭を取り戻していく時間。


その光はまだ弱く、部屋の奥までは踏み込んでこない。



シーツのわずかな乱れと、静かな呼吸だけが、夜の終わりを証明していた。


そこにあったはずの熱や騒がしさは、すでに形を失っている。


まるで最初から、この静けさの中に組み込まれていたかのように。



巳波は天井を見ている。


呼吸は整っているが、まだ言葉は追いついてこない。


ただ、現実へ戻るための“間”の中にいるような時間だった。



琉偉は横向きのまま、天井か巳波か分からない視線を向けている。


そこに焦りはない。


後悔もない。


あるのは、ただ一つの確かさだけだった。



しばらくして、巳波が小さく息を吐く。


「……静かだね」


その声は、いつもの彼女より少しだけ柔らかい。



琉偉は少し間を置いてから答える。


「はい。静かです」



それ以上の言葉は必要なかった。


この静けさを説明する言葉は、もうどこにも残っていない。



外では、朝が完全に始まろうとしている。


遠くの車の音。


鳥の声。


日常が戻る気配。


だがこの部屋だけは、まだ時間の外側に取り残されているようだった。



巳波はゆっくりと横を向き、琉偉を見る。


その距離は、昨夜までとはまるで違う。


近いのに、深く重なっているような不思議な距離。



「ねえ」


巳波が小さく言う。



琉偉はすぐに返す。


「はい」



巳波は少しだけ視線を外してから続ける。


「後悔してる?」



静かな問いだった。


責めでも試しでもない。


ただ“今”を確かめるための言葉。



琉偉は一瞬だけ目を閉じる。


そして、はっきりと答える。


「してないです」



少し間を置いて、続ける。


「むしろ、ちゃんと進んだ気がします」



巳波はその言葉を受けて、わずかに目を細める。


そして、小さく笑う。


「進むって、何?」



琉偉は少し考えてから言う。


「昨日までとは違う場所です」



巳波は天井に視線を戻す。


その言葉をゆっくりと飲み込むように息を吐いた。



「……そっか」



それだけ。


否定も肯定もない、ただの受け入れ。



沈黙。


その沈黙は気まずさではなく、“理解のあとに残る静けさ”だった。



やがて巳波はゆっくりと起き上がる。


髪を軽く整える動きは、いつもの日常そのものに見える。


琉偉も同じように体を起こし、服を整える。


二人とも、もう“戻る側の動き”をしていた。



琉偉は立ち上がると、扉へ向かう。


一度だけ振り返る。



「行ってきます」



巳波は少しだけ間を置いてから、小さく頷く。


「うん。行ってきて」



その声は、いつもよりわずかに遅い。


でも確かに届いている。



琉偉は一歩戻る。


巳波も、自然に立ち上がる。



言葉はいらない距離。



短いキス。


静かで、軽くて、でも確かに“行ってらっしゃい”の代わりになっているもの。



離れたあと、巳波は小さく笑う。


「……ほんと真面目」


琉偉も少しだけ表情を緩める。


「普通です」



それだけ言って、今度こそ扉へ向かう。



扉が閉まる。


小さな音。



静けさが戻る。



巳波は一人、窓の外を見る。


朝の光が少しずつ部屋の中に入り込んでくる。


それは昨日までとは違う光に見えた。



「……ほんとに、変わっちゃったね」



誰に向けたわけでもない言葉。


でも、その事実だけは確かにそこに残っていた。



夜は終わった。


そして朝はもう、


“昨日と同じ朝”ではなかった。 



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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