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第97章「静かな熱――“言葉が要らなくなる瞬間”」


部屋の明かりは落ちているのに、完全な暗闇ではなかった。


カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、床と壁の境界をぼんやりと浮かび上がらせている。


その曖昧な光の中で、二人だけが静かに立っていた。



巳波は琉偉のすぐ前にいる。


さっきまであった会話の残響はもう消えている。


「いいのか」「本当にいいのか」


そういう言葉は、もう部屋のどこにも残っていない。


代わりにあるのは、呼吸の間隔だけだった。



一呼吸。


少し近づく。


また一呼吸。


さらに近づく。



距離が縮まっているのに、誰も急いでいない。


むしろ、その“ゆっくり近づく過程”そのものが意味を持っているようだった。



琉偉は一瞬だけ視線を落とす。


巳波の手元、肩、そして顔へと戻す。


何かを確認するような視線。


それでも、答えはすでに決まっている。



「……巳波さん」



名前を呼ぶ声は、さっきよりさらに低い。


でも、その名前は空気の中で少しだけ重たく響いた。



巳波は小さく息を吐く。


そして、ほんのわずかに笑う。


「それ、まだ言うんだ」



琉偉は少しだけ間を置く。


「……確認です」



その言葉に、巳波は視線を逸らさないまま答える。


「もう、確認いらないってば」



一歩。


巳波が動く。



その一歩で、残っていた距離が完全に消える。


もう“近い”という概念すら意味を失う位置。



琉偉は動かない。


逃げるでもなく、引くでもなく。


ただ、その場に立ったまま受け止めている。



巳波は琉偉の顔を見上げる。


距離が近すぎて、言葉を挟む余地がない。


それでも、最後に一つだけ残っていたものがあった。



「怖い?」


巳波の声は静かだった。


試すようでもなく、責めるようでもない。


ただの確認。



琉偉はすぐに首を横に振る。


「怖くないです」



間を置いて、もう一言。


「むしろ、落ち着いてます」



その返答に、巳波はほんの少しだけ目を細める。



「変なの」



でも、その声には拒絶がない。


むしろ安心に近い。



沈黙。



二人の間にあった最後の“言い訳”が消えていく。



琉偉はゆっくりと息を吐く。


そして、小さく言う。


「……もう戻れないですね」



巳波は即答しない。


一拍だけ置いてから、静かに答える。


「最初から戻る気、なかったでしょ」



その言葉で、空気が完全にほどける。



責任でも、覚悟でもない。


ただ“選んだ結果”としての静けさ。



琉偉は目を閉じかけて、開く。


もう一度だけ確かめるように巳波を見る。



そして、低く言う。


「行きます」



それは宣言ではなく、合図に近かった。



巳波は何も言わない。


ただ、静かに目を閉じる。



その瞬間、


言葉は完全に消える。



残るのは、


夜の静けさと、


近すぎる呼吸だけ。



そして二人は、


“境界の向こう側”へと、ゆっくり沈んでいった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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