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第95章「夜の境界――“選ばれる言葉”」


二人の距離は、もうほとんど存在していなかった。


それでも、不思議と焦りはない。


ただ、時間だけがゆっくりと沈んでいくような夜だった。



琉偉は巳波を見つめたまま、動かない。


触れられる距離なのに、まだ触れない。


その一歩の意味を、慎重に確かめているようだった。



巳波はその視線を受け止めている。


逃げない。


でも、先に進めるかどうかを試しているわけでもない。


ただ、“どうするか”を待っている。



「……静かだね」


巳波が小さく言う。



琉偉は頷く。


「はい。今だけは」



その返事に、巳波は少しだけ息を吐く。


「今だけ?」



琉偉は一瞬だけ目を伏せる。


そして、静かに言う。


「今だけじゃなくしたいです」



その言葉で、空気がわずかに揺れる。



巳波は琉偉を見上げる。


「……欲張りだね」



琉偉は否定しない。


「そうかもしれません」



沈黙。



外の世界は普通に動いているはずなのに、


この部屋だけ時間が遅れているようだった。



巳波はゆっくりと視線を落とす。


そして、少しだけ微笑む。


「ねえ」



琉偉が反応する。


「はい」



巳波は小さく首を傾ける。


「今日、ずっと真面目すぎない?」



琉偉は少しだけ考えてから答える。


「真面目じゃないと、言えないことなので」



その返事に、巳波は一瞬だけ目を細める。


そして、ふっと笑う。



「……それ、ずるい」



琉偉は少しだけ近づく。


もう一歩ではなく、“自然にそこにいる”距離。



「巳波さん」



呼びかける声が、少しだけ変わる。



巳波は目を上げる。


「なに?」



琉偉はゆっくりと言う。


「今日、ここにいていいですか」



それは許可を求める言葉だった。


でも同時に、もう答えが見えている問いでもあった。



巳波は少しだけ沈黙する。


その沈黙の中で、何かを決めている。



そして――


小さく頷く。


「……いいよ」



その一言で、部屋の空気が完全に変わる。



緊張でもなく、緩みでもない。


“受け入れた静けさ”に変わる。



琉偉はその言葉を聞いても、すぐには動かない。


ただ、確認するようにもう一度聞く。


「本当に、いいですか」



巳波は少しだけ笑う。


「さっきから真面目すぎ」



そして、一歩だけ近づく。



「いいって言ってるでしょ」



その距離はもう、言葉が必要ない。



琉偉は小さく息を吐く。


そして、ようやく微かに頷く。


「……ありがとうございます」



巳波はその返事に少しだけ肩の力を抜く。


「お礼言うことじゃない」



琉偉は静かに言う。


「でも、ちゃんと大事なことなので」



その言葉で、巳波はもう一度笑う。


今度は少しだけ柔らかい笑いだった。



「ほんとに変な人」



琉偉はそのまま、視線を逸らさない。


「でも、離れません」



その一言が落ちた瞬間、


部屋の空気はさらに静かになる。



そして、次にどちらが動くのか。


その答えだけが、まだ夜の中に残されていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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