第94章「ほどける距離――“静かな夜の選択”」
部屋の空気は、さっきより少しだけ柔らかくなっていた。
言葉の数は多くないのに、沈黙が重く感じない。
むしろ、何かを待っているような静けさだった。
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巳波は琉偉の目を見ている。
逃げるような視線じゃない。
確かめるような、でも試すような、そんな距離。
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「……ほんとに、それだけ?」
巳波がもう一度聞く。
さっきより少しだけ声が低い。
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琉偉は一瞬だけ間を置く。
そして、はっきり言う。
「それだけじゃないです」
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空気がわずかに動く。
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巳波は小さく息を吸う。
「じゃあ、なに?」
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琉偉は視線を逸らさない。
「一緒に、ちゃんと前に進みたいです」
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その言葉は、握手会の喧騒でも、配信の数字でもない。
ただ一人の人間としての言葉だった。
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巳波は少しだけ目を細める。
「前に進むって、どこに?」
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琉偉は即答しない。
ほんの少しだけ考える。
そして――
「巳波さんがいる場所です」
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その一言で、部屋の温度が少しだけ変わる。
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巳波は視線を落とす。
カップのないテーブル。
整いすぎた夜。
その全部が、少しだけ遠く感じる。
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「……そういうこと、簡単に言うのやめてほしい」
巳波の声は小さい。
でも、突き放すものではない。
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琉偉は一歩近づく。
「簡単じゃないです」
「ずっと考えてます」
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その距離はもう、ほとんど意味を失っている。
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巳波はゆっくりと息を吐く。
「考えすぎ」
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琉偉は少しだけ首を振る。
「でも、やめる理由がないです」
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沈黙。
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外では車の音が遠くを通り過ぎる。
それだけで、世界が一瞬だけ現実に戻る。
でもすぐに、また二人だけの静けさに戻る。
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巳波は琉偉を見つめたまま、少しだけ笑う。
「ほんとに、逃げないね」
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琉偉は答える。
「逃げる必要がないので」
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その言葉で、巳波の表情が少しだけ変わる。
ほんのわずかに、緊張がほどける。
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「……じゃあさ」
巳波が言う。
少しだけ声のトーンが変わる。
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「今日は、どうしたいの?」
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その問いは、軽いようで軽くない。
選択を委ねるようで、すでに答えを見ているような問い。
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琉偉は息を吸う。
そして、静かに言う。
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「巳波さんと、ちゃんと向き合いたいです」
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一拍。
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巳波はその言葉を反芻するように目を伏せる。
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そして、小さく笑う。
「……もう十分向き合ってると思うけど」
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琉偉は首を横に振る。
「まだ足りないです」
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その瞬間、巳波は少しだけ目を見開く。
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次の言葉を探すように、ほんの少しだけ間が空く。
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そして――
巳波は一歩だけ近づく。
もう距離はほとんどない。
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「じゃあ」
巳波は静かに言う。
「ちゃんと向き合いなよ」
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その声は、命令でも拒絶でもない。
受け入れる準備の声だった。
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琉偉は小さく頷く。
「はい」
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その瞬間、
二人の間の最後の“余白”が消える。
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どちらからともなく、視線が絡む。
呼吸が近くなる。
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そして――
夜は、まだ終わらないまま次の段階へ進んでいく。
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