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第93章「静かな夜の続き――“日常に戻れない二人”」


握手会の翌日でも、その翌朝でもない。


ただ、すべてが終わったあとの“夜”。


時間の感覚だけが少し曖昧になっていた。



部屋の明かりは落ち着いていて、テレビもついていない。


冷蔵庫の小さな作動音だけが、やけに生活感を主張している。


それなのに、この家の空気はまだ昨日の延長線にあるようだった。



巳波はソファに座り、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。


カップを持つ手は落ち着いているのに、どこか思考だけが少し遠くにある。


「……ほんとに終わったんだよね」



琉偉はその隣ではなく、少し離れた位置に立っていた。


すぐ近くに行けるのに、あえて距離を取っているような立ち方だった。



「終わりました」


琉偉は短く答える。


その言葉に迷いはない。



巳波は少しだけ笑う。


「3000人って、今考えても変だよね」



琉偉は頷く。


「変です。でも、現実でした」



その言葉で、少しだけ沈黙が落ちる。



巳波はカップをテーブルに置く。


「……今日、静かすぎる」



琉偉は窓の外を見る。


外は普通の夜。


車の音も、人の気配もある。


でもこの部屋だけが、別の世界みたいに静かだった。



「戻ってきてる途中なんだと思います」


琉偉が言う。



巳波はその言葉を聞いて、小さく息を吐く。


「戻る、か……」



その瞬間だった。


琉偉が一歩だけ近づく。


さっきまでの距離が、ほんの少しだけ縮まる。



「巳波さん」



呼び方が少しだけ変わる。



巳波が顔を上げる。


「なに?」



琉偉は一瞬だけ間を置く。


そして、はっきりと言う。



「……もう、離れたくないです」



その言葉は静かだった。


でも、さっきまでの“本気”よりもさらに一段深い場所から出ている。



巳波はすぐに返せない。


ただ、琉偉を見つめる。



ソファの上の空気が少しだけ重くなる。



「それ、ずっと言ってるよね」


巳波が小さく言う。



琉偉は頷く。


「でも、今が一番そう思ってます」



沈黙。



巳波は視線を少し落とす。


そして、ゆっくりと息を吐く。


「……ほんと、真っすぐすぎる」



琉偉はそのまま動かない。


逃げ道を作らないまま、そこに立っている。



巳波は少しだけ笑う。


「そういうの、普通は途中で怖くなるんだけどね」



琉偉は即答する。


「怖くならないです」



その一言で、空気がまた少し変わる。



巳波はゆっくり立ち上がる。


ソファから一歩。


琉偉との距離が完全に消える。



「じゃあさ」


巳波は小さく言う。


「今日はどうするの?」



その問いは軽いようで、軽くない。



琉偉は一瞬だけ目を伏せる。


そして、静かに言う。


「一緒にいたいです」



それだけ。


余計な説明はない。



巳波はその言葉を聞いて、少しだけ息を止める。


そして、ほんの少しだけ微笑む。


「……ほんとに、それだけ?」



琉偉は頷く。


「それだけで十分です」



その返事に、巳波はゆっくりと目を閉じる。


そして――


小さく、ため息のように笑う。



「……ずるいね」



その声は、拒絶ではなかった。



外の夜は普通に流れているのに、


この部屋だけは少しずつ“二人の温度”に変わっていく。



そして、


次の言葉が、この夜をさらに動かしていくことになる。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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