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第92章「帰宅後の静寂――“本気”だけが残る夜」


握手会の会場を出たあと、外の空気はやけに薄く感じられた。


さっきまで3000人の熱気が渦を巻いていたとは思えないほど、街はいつも通りの夜に戻っている。


車の窓越しに流れる光も、誰もその“異常な一日”を知らないまま通り過ぎていく。



巳波と琉偉は、ほとんど会話をしないまま自宅へ戻った。


疲れている、というよりも――


言葉にする必要がない空気だった。



玄関のドアが閉まる。


カチリ、と鍵が回る音。


その瞬間だけ、外と内が完全に切り離される。



「……ただいま」


巳波が小さく言う。


琉偉も続く。


「ただいま」



部屋の中は静かだった。


照明は柔らかく、昼間とは違う“戻ってきた場所”の空気がある。



靴を脱ぎながら、巳波は少しだけ肩の力を抜く。


「今日……長かったね」



琉偉は頷く。


「長かったです。でも、終わりました」



その言葉に、巳波は軽く笑う。


「うん、終わったね」



一瞬だけ沈黙。


テレビも音楽もない空間。


ただ、二人の呼吸だけが重なる。



琉偉はゆっくりと巳波の方を見る。


そして、少しだけ間を置いてから言った。



「さっきの話は、本気ですからね」



巳波の動きが止まる。



空気が一瞬だけ変わる。



「……さっきの話?」


巳波が確認するように言う。



琉偉は目を逸らさない。


「子供の話です」



沈黙。



巳波は一度だけ瞬きをする。


それから、少しだけ困ったように笑う。


「ほんと、急に真面目なこと言うよね」



琉偉は一歩近づく。


「急じゃないです」


「ずっと考えてました」



その言葉には迷いがない。


握手会の喧騒の中で生まれたものではなく、


もっと前から積み重なっていた“本音”の形だった。



巳波はその顔を見つめる。


冗談に逃げることもできる距離なのに、


琉偉は一歩も引かない。



「……そういうこと、簡単に言うものじゃないよ」


巳波が静かに言う。



琉偉は即答する。


「簡単じゃないです」


「だから、ちゃんと考えて言ってます」



その言葉で、部屋の空気が少しだけ変わる。



巳波は視線を少し落とす。


そして、小さく息を吐く。


「……ほんとに、真面目なんだね」



琉偉はそのまま距離を詰める。


そして、逃がさないようにではなく、


確かめるように。



唇が重なる。



濃いキスだった。


さっきの会場の喧騒とは違う、


誰にも見られていない場所での“答え”のようなキス。



離れたあと、琉偉は静かに言う。


「本気です」



もう一度。


今度は言葉として。



「巳波さんのことが、本当に好きです」



巳波はすぐに返事をしない。


少しだけ目を伏せて、


それからゆっくりと琉偉を見る。



その表情には、驚きもある。


でも、それ以上に――


逃げないまっすぐさを受け止めている静けさがあった。



「……重いね」


巳波が小さく言う。



琉偉は頷く。


「重くていいと思ってます」



その返事に、巳波はほんの少しだけ笑う。


「ほんとにブレないね」



琉偉は一歩も引かない。


「ブレたら、言えないので」



沈黙。



外では夜の音がかすかに流れている。


でもこの部屋だけは、完全に別の時間になっていた。



巳波はゆっくりと息を吐く。


そして、小さく言う。


「……急に全部決めるのは無理だよ」



琉偉は頷く。


「分かってます」



「でも、言うのはやめません」



その言葉に、巳波は少しだけ目を細める。



そして、ほんの少しだけ笑う。


「……ほんと、困る人だね」



琉偉は静かに答える。


「でも、離れません」



その瞬間、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。



巳波は琉偉の胸元に軽く手を置く。


「今日はもう疲れた」



琉偉は頷く。


「休みましょう」



でも、その手は離れない。



静かな夜の中で、


3000人の熱とは別の、


もっと小さくて、もっと逃げられない“本気”だけが残っていた。 



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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