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第90章「“東雲巳波の握手会”終了後――3000人の熱が消えたあとに残るもの」


拍手が、少しずつ遠のいていく。


歓声はまだ会場のどこかに残っているのに、中心だけが静かに空洞になっていくようだった。


3000人。


その数字をやり切った直後の空気は、想像よりずっと“静か”だった。



巳波は握手台の裏へ戻ると、その場で一度だけ深く息を吐いた。


「……終わった」


声は小さいのに、やけに重い。


達成感というより、身体の奥に溜まっていたものが一気に抜けたような感覚だった。



スタッフが次々と動き出す。


机の撤収。


導線の解除。


ライトの一部が落とされていく。


さっきまで“異常な秩序”で動いていた空間が、急にただの会場へ戻っていく。



「お疲れさまでした!」


「本当にすごかったです……!」


スタッフの声が飛ぶたびに、巳波は軽く頭を下げる。


「ありがとうございます」


その言葉が、何百回も繰り返される。


だが今はもう、“機械的な反応”ではなかった。


本当に終わったからこその言葉だった。



そのとき――


会場の外側から人の気配が一つだけ近づいてくる。



琉偉。



控室の入口で止まり、少しだけ深呼吸をする。


そして中へ入る。



そこには、少しだけ疲れた巳波が立っていた。


メイクはまだ崩れていない。


でも、目の奥だけがさっきまでとは違う“静かな揺れ”を持っている。



琉偉は何も言わずに近づく。


巳波もそれを見て、小さく笑う。


「……来たんだ」



琉偉は頷く。


「終わりましたね」



その一言で、空気が完全に変わる。



巳波は少しだけ肩の力を抜く。


「うん……終わった」



短い沈黙。


でも、その沈黙は重くない。


むしろ、ようやく戻ってきた“日常の空気”に近かった。



琉偉はゆっくり言う。


「3000人、ちゃんと見届けました」


巳波は少しだけ目を細める。


「途中からいなくなったと思ってた」



琉偉は軽く首を振る。


「いましたよ。ずっと」



その言葉に、巳波は小さく笑う。


「変なの」



でも、その笑いは安心している。



外では、まだ片付けの音が続いている。


けれど、もう“戦場の音”ではない。


ただの撤収作業の音になっている。



蒼と彩音はいない。


完全に裏方も解散し始めている。



巳波は控室の椅子にゆっくり座る。


「……思ったより、あっという間だったかも」



琉偉は少し間を置いて答える。


「見る側とやる側で、時間の流れ違いますからね」



巳波は軽く笑う。


「それ言うと、ちょっとカッコつけてない?」



「事実です」



そのやり取りで、ようやく完全に“いつもの二人”に戻る。



しばらくして、スタッフが控室の扉をノックする。


「終了処理、問題なしです」


「メディア対応は明日からになります」



巳波は頷く。


「今日はもういいです」


その声は静かだが、はっきりしていた。



スタッフが去ると、部屋は一気に静かになる。



琉偉は立ったまま、少しだけ天井を見る。


「……本当に終わったんですね」



巳波はその言葉に少しだけ間を置いてから答える。


「うん。でも、終わったっていうより……通り過ぎた感じ」



琉偉はその言葉を噛みしめるように聞く。



巳波は立ち上がる。


ゆっくりと歩いて、琉偉の前に立つ。



そして、小さく言う。


「来てくれて、ありがとう」



琉偉は少しだけ目を伏せてから、短く答える。


「当たり前です」



その瞬間だけ、会場の外の騒音が完全に消える。



巳波は一歩近づく。


そして――


静かに、短く、確かに。


キスをする。



熱ではなく、確認のようなキス。


終わったことを、二人で共有するための時間。



唇が離れる。



巳波は小さく笑う。


「……終わったね」



琉偉は頷く。


「終わりました」



外では、3000人の余韻がまだ残っている。


SNSはまだ騒がしい。


世界はまだ追いついていない。



でもこの部屋だけは、すでに“日常の速度”に戻り始めていた。



そしてこの夜は、確かに終わった。


――3000人の熱を残したまま。   



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