第7章「疑念と境界線」
火曜日、朝。
玄関。
靴を履く琉偉の背中に、視線が刺さる。
「……今日も学校?」
「……はい」
振り返ると、東雲巳波が壁にもたれて立っていた。
昨日とは違う。
少しだけ、距離がある。
「スマホ」
「……え?」
「通知、消してる?」
「……一応」
「“一応”じゃダメ」
淡々とした声。
感情ではなく、“管理”のトーン。
「昨日みたいなの、もう一回あったら終わる」
「……はい」
分かっている。
でも。
「……全部消すのも、不自然じゃないですか」
「だったら、見られないようにする」
即答。
逃げ道はない。
「あと」
巳波は少しだけ近づく。
「名前、変えて」
「……え」
「“東雲巳波”のままは論外」
「……」
確かにそうだ。
「……なんて登録すれば」
少し考える。
巳波は、ほんの一瞬だけ悩んでから。
「……“M”でいいんじゃない?」
「雑すぎません?」
「バレるよりマシ」
正論。
「……分かりました」
スマホを取り出し、その場で変更する。
【M】
それだけの表示。
一気に現実味が薄れる。
でも。
(これでいいのか……?)
妙な違和感が残る。
「よし」
巳波は軽く頷く。
そして――
「行ってらっしゃい」
今日も、軽くキス。
だが。
昨日より短い。
ほんの一瞬で離れる。
「……今日は短いですね」
「昨日長かったから」
軽く笑う。
その軽さが、逆に緊張を和らげる。
「……行ってきます」
ドアを開ける。
その一歩が、また“外の世界”へ繋がる。
⸻
教室。
朝のざわめき。
だが。
空気が少し違う。
「……なあ」
席に着いた瞬間、声をかけられる。
九条蒼。
「昨日の話」
「……なんだよ」
「“東雲”」
(来た)
心臓が跳ねる。
「気になってさ」
「……たまたまだろ」
「そうかな」
視線が逸れない。
完全に“確かめに来てる”。
「……何が言いたいんだよ」
少しだけ強く返す。
すると蒼は、少しだけ肩をすくめた。
「別に」
だが。
その目は笑っていない。
「ただ、有名人と同じ名前って珍しいなって」
「……」
“有名人”。
そこまで出ている。
(やばいな……)
一歩手前。
ギリギリのライン。
「それだけ?」
「今はね」
“今は”。
その一言が重い。
⸻
昼休み。
「琉偉、購買行こーぜ!」
如月晴斗が声をかける。
「……ああ」
ついていく。
その間も、背後から視線を感じる。
(完全に疑われてる……)
購買前。
人混み。
その中で。
「ね、琉偉」
藤堂紗希が横に来る。
「ほんとに彼女いないの?」
「……いないって」
「嘘くさーい」
「なんでだよ」
「最近、雰囲気変わったもん」
(全員かよ……)
心の中で崩れる。
「なんかさ」
紗希は少しだけ顔を近づけて。
「大人っぽくなった」
「……は?」
「いい意味でね」
にこっと笑う。
その一言が、妙に刺さる。
(……大人っぽく)
原因は明確だ。
“38歳の妻”。
それ以外にない。
⸻
放課後。
「今日さ、寄ってかね?」
晴斗の誘い。
「……いや、帰る」
即答。
「またかよ」
「用事」
「彼女?」
「違うって」
少し強めに否定する。
その瞬間。
空気が、わずかに止まる。
(……やば)
強すぎた。
「……ふーん」
晴斗はそれ以上は言わなかった。
だが。
横で見ていた蒼が、小さく呟く。
「……隠してるな」
(……終わったかもな)
背中に冷たいものが走る。
⸻
帰り道。
スマホが震える。
【M】
『今日は少し遅くなる』
『先にご飯食べてて』
(……普通すぎる)
でも、その“普通”が救いだった。
(帰る場所がある)
それだけで、少しだけ気が楽になる。
⸻
家。
ドアを開ける。
静か。
「……いないか」
少しだけ、寂しさを感じる。
(……慣れてきてるな)
危ない感覚。
だが、その時。
玄関のドアが開く音。
「ただいま」
巳波だった。
「……おかえり」
自然に言葉が出る。
「早かったね」
「……ちょっと」
靴を脱ぎながら、ため息をつく。
「学校、どうだった?」
「……疑われてます」
「……どのくらい?」
「ほぼ黒一歩手前」
「……はぁ」
完全に呆れた声。
「だから言ったでしょ」
「……すみません」
頭を下げる。
「誰?」
「九条蒼ってやつです」
「男?」
「はい」
「……厄介そう」
「めちゃくちゃ鋭いです」
少し考える。
「……一回、距離置く?」
「……え」
予想外の提案。
「会う回数減らすとか」
「……」
言葉が出ない。
「バレるくらいなら、その方が安全」
完全に正論。
でも。
「……嫌です」
気づけば、そう言っていた。
巳波が、少しだけ目を細める。
「……即答だね」
「……」
「理由は?」
「……それは」
言葉に詰まる。
でも。
「……会いたいからです」
それしかなかった。
沈黙。
数秒。
そして。
「……ほんと、危ないね」
小さく笑う。
でも。
その声は、少しだけ柔らかかった。
「じゃあ」
一歩近づく。
「絶対にバレないようにして」
「……はい」
「約束ね」
「……はい」
その距離で。
軽く唇が重なる。
短く。
でも。
強く。
⸻
疑念は、すでに広がっている。
境界線は、もう曖昧だ。
そして。
それを越えるのは、ほんの些細なきっかけでいい。
崩壊は――近い。
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