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第72章「日常の中の非日常――“行ってきますのキスと仕事の朝”」


朝の空気は、どこか落ち着いていた。


ラーメン12杯配信の余韻は、もう騒ぎという形では残っていない。


けれど完全に消えたわけでもなく、静かに“生活の輪郭”として染みついていた。



巳波は玄関の鏡の前に立っている。


今日の仕事は、グラビア誌の表紙撮影。


髪はすでに軽く整えられ、メイクも自然に仕上がっている。


いつもの巳波より少しだけ“仕事の顔”だった。



後ろでは琉偉がスマホを確認している。


スケジュールと撮影場所の確認。


淡々とした動き。


その落ち着きが、この家の“日常の基準”になっていた。



巳波は振り返る。


「じゃあ、行ってくるね」


軽い声。


でもその一言の後に、少しだけ間があった。



琉偉が顔を上げる。


「気をつけてください」



その言葉に、巳波は小さく笑う。


そして――


迷いなく一歩近づく。



唇が触れる。



“濃厚なキス”


長くはない。


けれど、確かに深い呼吸を共有するような距離。



琉偉の手が一瞬だけ止まる。


だがすぐに、自然に受け止める。



巳波は小さく息を漏らす。


「……行ってきます」



離れる時の声は、いつもの“仕事前の合図”だった。



蒼(AQUOS)はその光景を見ながら、無言でパンをかじっている。


彩音あやねんはコーヒーを持ったまま固まっている。


数秒後。


蒼がぼそっと言う。


「……これ、普通なんだよな?」



彩音も少しだけ考えてから答える。


「昨日のラーメンよりは普通」



蒼がすぐに反応する。


「基準がおかしいんだよ」



だが二人とも、それ以上は言わなかった。


もう“そういうもの”として受け入れ始めていた。



琉偉は何事もなかったようにスマホをポケットにしまう。


「準備できてます」


その一言で、朝の流れが完全に仕事モードに切り替わる。



巳波はバッグを肩にかける。


玄関のドアを開ける前に、振り返る。


「今日と明日、ここ使っていいからね」



蒼が顔を上げる。


「え、いいの?」



彩音も驚く。


「休み扱い?」



巳波は軽く笑う。


「うん。せっかく来てるんだし、ゆっくりしていって」



琉偉も小さく頷く。


「問題ありません」



蒼は少しだけ安心したようにソファを見る。


「じゃあ遠慮なくゴロゴロするわ」


彩音も笑う。


「私も普通にくつろぐ」



巳波は玄関で靴を履く。


その動作は、昨日の非現実とは違う“生活そのもの”だった。



ドアの前。


一瞬だけ振り返る。



「じゃあ、行ってきます」



その声は、さっきのキスと同じ温度だった。



ドアが閉まる。



静寂。



蒼がぽつりと呟く。


「なんかさ……ほんとに一緒に住んでる感あるよな」



彩音も頷く。


「うん。普通に家族っぽい」



琉偉は窓の外を見ながら言う。


「生活が安定してきてる証拠です」




外では、巳波がタクシーに乗り込む。


窓の向こうに朝の街。


撮影現場へ向かう道。



スマホには仕事の連絡が入る。


・到着時間

・衣装確認

・表紙カット構成



そのどれもが“昨日の配信”とは別世界のはずなのに――


どこか地続きに感じてしまう。



巳波は小さく息を吐く。


「ほんとに、切り替わってるんだよね」



タクシーは静かに進む。



その背中にはもう、“配信者”でも“普通の生活”でもない、


新しい形の存在が乗っていた。



そして家の中では――


何も変わらない朝が、ゆっくり続いていた。   



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