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第5章「夜、距離がゼロになる」


日曜日、夜。


鎌倉の住宅街は、すでに静まり返っていた。


玄関のドアが閉まる音。


「……ただいま」


小さな声。


「おかえり」


返す声も、同じくらい小さい。


外の緊張が、まだ残っている。


二人は靴を脱ぎながら、しばらく何も言わなかった。


(……さっきの)


琉偉の頭の中には、帰り際のキスが残っている。


短かった。


でも、はっきりとした“意味”を持っていた。


「……バレてないよね」


巳波がぽつりと呟く。


「多分……大丈夫だと思います」


断言はできない。


あの一瞬。


気づかれた可能性は、ゼロじゃない。


「……そっか」


それ以上は追及しなかった。


ただ、少しだけ肩の力が抜ける。



リビング。


電気をつける。


いつもと同じ部屋。


でも。


どこか違う空気。


「……疲れた」


巳波がソファに体を預ける。


その仕草は、完全に“素”だった。


「外出るの、久しぶりだった?」


「うん」


目を閉じたまま答える。


「仕事以外で、あんなふうに歩くの」


「……」


「普通の人みたいにさ」


少しだけ、苦笑する。


その言葉に、琉偉は何も返せなかった。


“普通”じゃないのは、自分も同じだから。


「……あの」


「ん?」


「さっきの……」


言いかけて、止まる。


「キス?」


あっさり言われる。


「……はい」


「嫌だった?」


「違います」


即答だった。


「……びっくりしただけです」


「そりゃそうか」


くすっと笑う。


「でも」


少しだけ真面目な顔になる。


「夫婦なんだから、普通でしょ」


「……」


言葉に詰まる。


確かにそうだ。


でも。


(普通じゃないだろ……)


状況が。


関係が。


全部。


「……慣れてないだけです」


やっとそれだけ言う。


巳波は、少しだけ琉偉を見てから。


「じゃあ」


立ち上がる。


「慣れよっか」


「……え」


一瞬、意味が分からない。


そのまま距離が縮まる。


すぐ目の前。


「逃げないでよ?」


小さな声。


逃げられるわけがない。


心臓の音が、うるさい。


そして――


今度は、ゆっくりと。


唇が重なる。


さっきより長く。


深く。


「……っ」


息が詰まる。


でも、離れない。


離したくない。


気づけば。


琉偉の手が、無意識に巳波の腕に触れていた。


そのまま引き寄せる。


「……へぇ」


少しだけ驚いたような声。


でも、拒まれない。


むしろ。


「ちゃんと来るんだ」


余裕のある言い方。


完全に主導権は向こう。


でも。


それでもいいと思ってしまう。


ソファに、ゆっくりと押し倒される形になる。


視線が絡む。


逃げ場はない。


「……怖い?」


「……少しだけ」


正直に言う。


「でも」


目を逸らさない。


「嫌じゃないです」


その一言で。


巳波の表情が、ほんの少し変わった。


「……そっか」


優しくなる。


ほんの少しだけ。


そして。


再び唇が重なる。


今度は、さらに深く。


指先が触れる。


距離が、完全に消えていく。


“ゼロ”になる。


時間の感覚が、曖昧になる。


どれくらい経ったのか分からない。


気づけば。


二人は、同じ布団の上にいた。


息が少し荒い。


「……大丈夫?」


巳波が小さく聞く。


「……はい」


声がかすれる。


「無理しなくていいよ」


その言葉は、意外だった。


「こういうの、急がなくてもいいし」


「……」


少しだけ、現実に引き戻される。


「……でも」


琉偉は、言う。


「……進みたいです」


言ってしまった後で、自分でも驚く。


でも。


嘘じゃない。


「……後悔しない?」


「……しません」


即答。


迷いはなかった。


数秒の沈黙。


そして。


「……分かった」


小さく頷く。


その夜。


二人の距離は、本当の意味で“ゼロ”になった。



深夜。


静かな部屋。


隣で眠る巳波。


穏やかな寝顔。


画面の中では見られない姿。


(……現実なんだよな)


天井を見ながら、思う。


結婚して。


キスして。


同じベッドで眠る。


全部が、一気に進みすぎている。


でも。


(……後悔は、ない)


むしろ。


少しだけ安心している自分がいる。


その時。


「……起きてる?」


小さな声。


「……はい」


「……ね」


巳波は目を開けないまま言う。


「明日、学校でしょ」


「……はい」


「ちゃんと行きなよ」


「……はい」


少しだけ間があって。


「……あと」


「はい?」


「無理しないで」


それだけ言って、また静かになる。


その言葉が。


妙に胸に残った。



“夫婦”になった実感は。


夜の中で、静かに形を持つ。


そして。


その関係は、もう後戻りできない場所まで来ていた。


⸻   


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