第4章「変装デート、みなとみらい」
日曜日、午後。
鎌倉の住宅街。
「……本当に行くんですか」
玄関で靴を履きながら、廣瀬琉偉は何度目かの確認をした。
その視線の先。
鏡の前に立つ東雲巳波。
「うん」
即答だった。
「だって外出てないし」
「いやそういう問題じゃなくて……」
琉偉は言葉を詰まらせる。
“外で会わない”
雷斗が決めたルール。
それを、数日で破ろうとしている。
「大丈夫だって」
巳波は軽く振り返る。
その姿は、普段とは完全に違っていた。
ゆるいパーカーにロングスカート。
髪は低めの位置でまとめ、帽子を深く被る。
さらに大きめの黒縁眼鏡とマスク。
「これで分かる人いないでしょ」
「……いや」
“分かる人はいない”かもしれない。
でも。
(存在が目立つんだよな……)
雰囲気が違う。
ただ立っているだけで、人の目を引く。
それが“東雲巳波”という人間だった。
「ほら、行こ」
「……」
腕を引かれる。
自然すぎる動き。
抵抗する間もなく、玄関のドアが閉まる。
⸻
電車内。
日曜の午後ということもあり、人は多い。
(近い……)
隣に立つ巳波との距離。
つり革を掴む手が、時々触れそうになる。
それだけで妙に意識してしまう。
「緊張してる?」
小さな声で、巳波が聞いてくる。
「……してます」
「顔に出てる」
「出さないでください」
「無理」
くすっと笑う。
(余裕すぎるだろ……)
対照的だった。
琉偉は周囲を何度も確認する。
知り合いはいないか。
誰かに見られていないか。
そのたびに、巳波は呆れたように言う。
「そんなキョロキョロしてる方が怪しいよ」
「……」
正論すぎる。
⸻
みなとみらい。
観覧車が見える場所に降り立つ。
あの日と同じ景色。
だが、立場は全く違う。
「……ここ」
琉偉が小さく呟く。
「うん」
巳波も同じ方向を見る。
「プロポーズされた場所だね」
「……やめてください」
一気に顔が熱くなる。
「なんで?」
「恥ずかしいんで」
「今さら?」
その一言で、何も言えなくなる。
確かに今さらだ。
結婚している時点で。
「で、どこ行く?」
巳波は軽く周囲を見渡す。
まるで普通のデートのように。
「……特に決めてないです」
「じゃあ適当に歩こ」
そのまま自然に歩き出す。
琉偉も隣に並ぶ。
(……普通だ)
あまりにも普通すぎる。
カップルがやるように、並んで歩いている。
会話して、同じ景色を見て。
(これでバレたら終わりなのに)
現実とのギャップが、頭を揺らす。
⸻
ショッピングモール内。
「これ可愛い」
巳波が手に取ったのは、シンプルなヘアアクセサリー。
「似合いますよ」
反射的に答える。
「適当じゃない?」
「いや本当に」
「ふーん」
少しだけ嬉しそうにする。
その表情が、不意に“年相応”に見えた。
(……38歳なんだよな)
改めて思う。
でも。
今隣にいるのは、ただの女性に見える。
「つけてみていい?」
「どうぞ」
鏡の前で、軽く髪に合わせる。
帽子を少しだけ上げる仕草。
その一瞬。
通りがかった女性が、足を止めた。
(……っ)
空気が変わる。
「あれ……?」
小さな声。
視線が、巳波に向く。
(やばい)
直感だった。
「――行きましょう」
琉偉はすぐに巳波の手を引く。
「え?」
「いいから」
早足でその場を離れる。
背後から、何か言いかける気配。
だが、振り返らない。
エスカレーターを降り、人混みに紛れる。
しばらくして。
人気の少ない場所で、ようやく足を止めた。
「……はぁ……」
息が荒くなる。
「……今の」
巳波が小さく呟く。
「気づかれたかも」
「……ですよね」
心臓がまだ速い。
しばらく沈黙。
そして。
「……ごめん」
巳波が言った。
「私が行きたいって言ったから」
「いや……」
琉偉は首を振る。
「俺も……来たかったです」
それは本音だった。
怖いけど。
それ以上に。
「……一緒に出かけるの、普通に楽しいんで」
言いながら、少しだけ視線を逸らす。
巳波は、その言葉を数秒受け止めてから。
「……そっか」
小さく笑った。
「じゃあもう少しだけ、いい?」
「……はい」
短い了承。
でも、それは大きな意味を持っていた。
⸻
夕方。
海沿いのベンチ。
オレンジ色の光が、街を包んでいる。
観覧車も、ゆっくりと光り始める。
「……綺麗」
巳波がぽつりと呟く。
その横顔は、どこか静かだった。
「……あの」
琉偉が声をかける。
「なに?」
「なんで……俺なんですか」
また同じ質問。
でも、今は少し違う意味を持つ。
巳波は少しだけ考えた。
「……まだ分かんない」
正直な答え。
「でも」
視線を琉偉に向ける。
「一緒にいて、嫌じゃない」
「……」
「むしろ、楽」
その言葉は、思っていたよりも重かった。
「だから、とりあえず続けてる」
曖昧で。
でも、確かな理由。
「……俺も」
琉偉は小さく言う。
「嫌じゃないです」
むしろ。
それ以上だ。
でも、それはまだ言えない。
⸻
帰り道。
人の少ない場所で。
巳波が、ふと立ち止まる。
「ね」
「はい?」
「ちょっとだけ」
そう言って。
軽く背伸びをして。
唇を重ねた。
短く。
でも、確かに。
「……っ」
「外だから軽め」
小さく笑う。
「……十分です」
顔が熱い。
でも。
逃げたいとは思わなかった。
⸻
“秘密の夫婦”は、外の世界に踏み出した。
その一歩は。
確実に、危険に近づく一歩でもあった。
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