第49章「入学式、そして新しい世界」
朝の光は、昨日より少しだけ強く感じた。
東戸塚の一軒家は、静かに新しい一日を迎えている。
窓から差し込む春の陽射し。
キッチンからは、淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。
リビングの時計は、午前七時四十分を少し過ぎている。
今日は――。
廣瀬琉偉にとって、人生の新しい扉が開く日だった。
横浜国立大学、入学式。
高校生だった日々は、もう昨日までのもの。
今日から琉偉は、大学生になる。
⸻
玄関の前。
琉偉はネクタイを整えながら、軽く息を吐いた。
慣れないスーツ。
少し硬い革靴。
手に持った書類。
大学から届いた案内。
全部が新鮮で、少しだけ重かった。
「……よし」
小さく呟く。
その背後から、巳波が近づく。
髪は軽くまとめられ、落ち着いた表情。
けれど、その瞳には、少しだけ寂しさと、たくさんの誇らしさが混ざっていた。
「いよいよだね」
琉偉は頷く。
「はい」
「大学生、ですね」
「うん」
巳波は琉偉の姿を上から下まで見つめた。
「似合ってる」
「本当ですか?」
「本当」
「すごく格好いい」
琉偉は少し照れたように目を伏せる。
「ありがとうございます」
巳波は小さく笑った。
「でも、無理しないでね」
「大学って、最初は知らない人ばっかりだし」
「授業も高校とは全然違うし」
「友達作りも、履修登録も、全部初めてだから」
「焦らなくていいからね」
琉偉は静かに頷いた。
「はい」
「少しずつ慣れていきます」
「うん」
「それでいい」
次の瞬間。
巳波は一歩近づき、琉偉の胸元を軽く掴むようにして引き寄せる。
そして――。
唇が重なる。
長く、静かで、確かめるようなキス。
言葉よりも深く。
送り出す気持ちと、離れる寂しさと、応援する想いが混ざった時間。
「……ん」
琉偉の呼吸が一瞬だけ乱れる。
巳波はゆっくり離れると、小さく笑った。
「いってらっしゃい」
琉偉は少しだけ目を伏せる。
「行ってきます」
「ちゃんと楽しんできて」
「はい」
「友達できたら教えてね」
「できたら、ですね」
「絶対できるよ」
「そうでしょうか」
「できる」
巳波は迷わず言った。
「琉偉くんは優しいから」
「ちゃんと人を見て話せるから」
「きっと、自然に人が集まるよ」
琉偉はその言葉を胸にしまうように、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
玄関の扉が開く。
朝の空気が流れ込む。
琉偉はもう一度だけ振り返った。
そこには、巳波がいた。
家で待ってくれる人。
秘密の妻。
誰よりも大切な人。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
扉が閉まる。
その音を聞いたあとも、巳波はしばらく玄関に立っていた。
「……頑張ってね」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
⸻
横浜国立大学・入学式会場。
広い講堂には、新入生がぎっしりと並んでいた。
スーツ、スーツ、スーツ。
黒、紺、グレー。
慣れない革靴の音。
緊張した笑い声。
配られた式次第を確認する手。
スマートフォンで時間を確認する学生。
親にメッセージを送る学生。
それぞれの緊張が、空気に混ざっている。
琉偉はその中に座り、会場を見渡す。
(ここが大学……)
高校とは違う空気。
誰もが“少し大人”に見える場所。
自分もその中の一人になったのだと思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
司会の声が響く。
「これより、横浜国立大学 入学式を執り行います」
拍手。
静かな緊張。
全員が前を向く。
学長の式辞。
来賓の挨拶。
新入生代表の言葉。
未来への期待。
社会へ羽ばたく準備。
学びとは何か。
挑戦とは何か。
琉偉はその言葉を、一つ一つ受け止めながら座っていた。
(ここから全部が始まる)
(大学)
(勉強)
(友人)
(新しい生活)
(そして――)
脳裏に浮かぶのは、朝の巳波の笑顔だった。
(帰る場所は、ちゃんとある)
そう思うと、不思議と落ち着いた。
⸻
そして学部ごとの呼名。
周囲に座る新しい顔ぶれが目に入る。
まだ名前も知らない学生たち。
けれど、これから同じ授業を受け、同じ課題に悩み、同じキャンパスを歩くことになるかもしれない相手たち。
琉偉は静かに視線を動かした。
近くの席では、緊張を隠せず背筋を伸ばしている男子。
少し離れた席では、既に小さな声で話し始めている女子たち。
後方には、式が終わったらすぐ友達を作ろうとしているような明るい雰囲気の学生もいた。
ざわつきはあるが、まだ誰も“距離”を知らない。
誰と近くなるのか。
誰と友人になるのか。
誰と何年も続く関係になるのか。
この時点では、まだ誰にも分からない。
⸻
式は進む。
学長の言葉。
未来への期待。
静かな決意。
新入生たちは、時々メモを取ったり、真剣に前を見たりしていた。
琉偉も姿勢を正す。
大学生になるという実感が、少しずつ身体に染み込んでいく。
そして――。
式終了。
大きな拍手が講堂に広がる。
⸻
講堂から出た瞬間、空気が少し変わる。
さっきまで整然と座っていた新入生たちが、一気に“個人”へ戻る。
「お前、どこの学部?」
「経済じゃね?」
「やば、友達できる気しない」
「履修登録っていつから?」
「サークルどうする?」
「誰か同じクラスいない?」
そんな声があちこちで飛び交う。
琉偉も立ち上がる。
書類を鞄へ入れ、講堂の出口へ向かう。
その時――。
「ねえ、同じ学部?」
声がかかる。
振り向くと、廉斗が立っている。
明るい表情。
人懐っこい笑顔。
「俺、高橋廉斗。よろしく」
さらに横から斗真。
「俺も同じ。藤堂斗真。よろしくな」
少し遅れて冬馬。
「神谷冬馬」
「人多いな、ここ」
琉偉は少しだけ頷く。
「廣瀬です。廣瀬琉偉」
「よろしくお願いします」
その一言で、自然と輪ができていく。
廉斗はすぐに笑った。
「廣瀬って落ち着いてるな」
「そうですか?」
「うん」
「俺なんか朝から緊張しすぎて、ネクタイ三回結び直した」
斗真が笑う。
「お前、駅でも鏡見てたよな」
「言うなって」
冬馬は周囲を見ながら呟く。
「とりあえず、知り合いゼロよりは安心した」
廉斗が琉偉の肩を軽く叩く。
「じゃあ今日から知り合い一号な」
琉偉は少し驚いたあと、微かに笑った。
「はい」
「ありがとうございます」
⸻
さらに女子グループも近づく。
白河結衣が軽く笑う。
「みんな同じ授業取るのかな?」
北条紗良が頷く。
「たぶん被ってるよね」
中村詩織が少し緊張しながら言う。
「友達できるかな……」
桜庭ひよりが明るく言う。
「今できかけてるじゃん」
水瀬りんも笑った。
「たしかに」
結衣は琉偉たちを見る。
「同じ学部だよね?」
廉斗が答える。
「たぶんそう」
「俺、高橋廉斗」
斗真も手を上げる。
「藤堂斗真」
冬馬は短く言う。
「神谷冬馬」
琉偉も軽く頭を下げた。
「廣瀬琉偉です」
結衣はにこっと笑った。
「私は白河結衣」
「よろしくね」
紗良。
「北条紗良です」
詩織。
「中村詩織です」
ひより。
「桜庭ひより!」
りん。
「水瀬りんです」
ぎこちない挨拶。
でも、そのぎこちなさが新入生らしかった。
誰もまだ、自分の立ち位置を知らない。
誰もまだ、相手との距離感を掴めていない。
だからこそ、一つ一つの言葉が慎重になる。
「このあと、学部ガイダンスだよね?」
「うん」
「教室どこ?」
「この紙に書いてある」
「え、広すぎない?」
「迷いそう」
「一緒に行く?」
その一言で、自然と小さなグループができた。
琉偉もその中に入る。
少し不思議だった。
高校までの自分なら、こうしてすぐ輪に入ることはなかったかもしれない。
けれど今は違う。
巳波が朝に言ってくれた。
“琉偉くんは優しいから、きっと自然に人が集まるよ”
その言葉が、背中を押してくれていた。
⸻
キャンパスの道を歩く。
春の風。
新入生の群れ。
サークル勧誘のチラシを配る先輩たち。
「軽音どうですかー!」
「テニスサークルでーす!」
「ボランティア興味ありませんか!」
「映画研究会です!」
廉斗はチラシを何枚も受け取って、すぐに困った顔をする。
「やばい」
「もう鞄パンパンになりそう」
斗真が笑う。
「全部もらうからだろ」
冬馬はチラシを見ながら言う。
「サークルか……」
「入る?」
結衣が聞く。
「私は何か入ってみたいかも」
紗良も頷く。
「友達できそうだし」
詩織は少し不安そうに言う。
「でも、忙しくなりすぎるのも怖いな」
琉偉は静かに聞いていた。
サークル。
授業。
課題。
友人。
新しい世界は、一気に広がっていく。
けれど琉偉には、もう一つ守るものがある。
巳波との生活。
夫婦である秘密。
学業との両立。
誰にも言えない現実。
その全部を抱えながら、この大学生活を送ることになる。
(ここから全部が変わる)
でも、不安だけではなかった。
期待もあった。
この場所で、自分はどんな人と出会うのか。
何を学ぶのか。
どう成長するのか。
巳波の夫としてだけではなく、廣瀬琉偉として、どんな未来を作るのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど、歩き出すことはできる。
⸻
その頃。
会場の外。
少し離れた場所で、巳波が車の中からその建物を見ていた。
帽子を深く被り、サングラスをかけている。
今日は表立って付き添うことはできなかった。
人気アイドルであり、グラビアでも配信でも注目される東雲巳波が、大学の入学式会場に現れれば、騒ぎになる可能性がある。
だから巳波は、少し離れた場所から見守るだけにした。
それでも、来たかった。
琉偉が新しい一歩を踏み出す日を、同じ空の下で見届けたかった。
車の窓越しに、講堂の出口から出てくる新入生たちを眺める。
その中に、琉偉がいた。
廉斗、斗真、冬馬たちと歩いている。
少し緊張しながらも、ちゃんと会話をしている。
女子たちとも自然に挨拶している。
巳波は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「ちゃんと始まったね」
そして小さく微笑む。
「大学生の琉偉くんかぁ……」
少し寂しくて。
でも、それ以上に嬉しかった。
自分が知らない時間が、これから増えていく。
自分が隣にいない場所で、琉偉は人と出会い、学び、悩み、笑う。
それは少しだけ寂しい。
けれど、夫婦だからといって、全部を一緒に歩く必要はない。
それぞれの場所で頑張って。
夜、同じ家に帰る。
それが二人の生活になる。
「頑張ってね」
巳波は窓の外を見つめながら呟いた。
その声は、琉偉には届かない。
けれど、きっと届いている気がした。
⸻
学部ガイダンス。
大きな教室。
新入生たちは、配られた資料を見ながら説明を受けていた。
履修登録。
単位。
必修科目。
選択科目。
ゼミ。
教養科目。
大学生活の注意事項。
一気に説明される内容に、廉斗は早くも頭を抱えていた。
「やばい」
「もう分からん」
斗真が資料を見ながら言う。
「履修登録、これミスったら終わりじゃない?」
冬馬は淡々と言う。
「終わりではないけど、面倒なことにはなりそう」
結衣も不安そうに言う。
「誰か詳しい人いないかな」
琉偉は資料に目を通しながら、静かに言った。
「必修を先に固定して、そのあと選択を空いている時間に入れる形だと思います」
「抽選科目は締切が早いので、そこだけ注意した方が良さそうです」
周囲の視線が一斉に琉偉へ向いた。
廉斗が目を丸くする。
「え、もう理解したの?」
「全部ではありません」
「でも、流れはなんとなく」
斗真が身を乗り出す。
「廣瀬、頼む」
「俺たちを救ってくれ」
琉偉は少し困ったように笑う。
「救うほどでは……」
結衣も笑った。
「でも助かる」
紗良が頷く。
「廣瀬くん、説明上手そう」
詩織も小さく言う。
「あとで一緒に確認してもいい?」
琉偉は静かに頷いた。
「はい」
「分かる範囲でなら」
その瞬間、琉偉の周りに、また少し人が集まった。
本人は気付いていない。
けれど、巳波が言った通りだった。
琉偉は無理に人を集めようとはしない。
目立とうともしない。
ただ、困っている人に自然に手を差し伸べる。
だから人が寄ってくる。
大学生活の最初の日。
琉偉は、少しずつ自分の場所を作り始めていた。
⸻
夕方。
ガイダンスを終え、キャンパスを出る頃には、空が少しだけ茜色に染まっていた。
廉斗が伸びをする。
「疲れたー!」
斗真も頷く。
「入学式だけでこんな疲れるとは思わなかった」
冬馬は静かに言う。
「情報量が多すぎた」
結衣が笑う。
「でも、ちょっと楽しかった」
紗良も頷く。
「友達できそうで安心した」
詩織は琉偉を見る。
「廣瀬くん、また履修のこと聞いてもいい?」
「はい」
「僕で分かる範囲なら」
廉斗がすぐに言う。
「じゃあ連絡先交換しようぜ」
その一言で、自然とスマートフォンが取り出される。
廉斗。
斗真。
冬馬。
結衣。
紗良。
詩織。
ひより。
りん。
そして琉偉。
小さな連絡先交換。
それは、大学生活の最初の繋がりだった。
廉斗が笑う。
「よし」
「これで迷子になっても誰かに聞ける」
斗真が突っ込む。
「最初から迷子前提かよ」
冬馬が静かに言う。
「まあ、キャンパス広いしな」
琉偉はそのやり取りを見ながら、少しだけ笑った。
大学生活。
思っていたよりも、悪くないかもしれない。
そう思えた。
⸻
帰り道。
電車の中。
琉偉は座席に座り、スマートフォンを取り出した。
巳波へメッセージを送る。
⸻
廣瀬琉偉
『入学式とガイダンスが終わりました』
『何人か同じ学部の人と話しました』
『連絡先も交換しました』
『少し疲れましたが、楽しかったです』
⸻
送信。
すぐに既読がつく。
そして返信。
⸻
東雲巳波
『お疲れ様!』
『ちゃんと始まったね』
『友達できそう?』
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琉偉は少し考えてから返信する。
⸻
廣瀬琉偉
『まだ友達と言えるかは分かりません』
『でも、話せる人はできました』
⸻
巳波からすぐに返事が来る。
⸻
東雲巳波
『それで十分だよ』
『最初の一歩だね』
『帰ったら話聞かせて』
⸻
琉偉は小さく笑った。
⸻
廣瀬琉偉
『はい』
『帰ります』
⸻
電車の窓に映る自分の顔。
少し疲れている。
でも、どこか晴れている。
新しい世界は、もう動き始めていた。
そしてその先には、帰る家がある。
待っていてくれる人がいる。
琉偉はスマートフォンを胸元に近づけ、静かに目を閉じた。
大学生活一日目。
それは、廣瀬琉偉にとって――。
そして、東雲巳波にとっても。
新しい日常の始まりだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
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