第40章「卒業式後の…… 余韻の中で」
卒業式が終わったあとも、体育館の外はすぐには静かにならなかった。
写真を撮る生徒。
泣いている女子。
笑いながら抱き合う友達。
先生に最後の挨拶をする者。
校庭のあちこちから聞こえるシャッター音と、名前を呼び合う声。
その全部が混ざって、校庭は“最後の喧騒”に包まれていた。
⸻
その中で――。
東雲巳波は、少し離れた場所に立っていた。
髪を下ろし、眼鏡姿のまま。
いつものステージ衣装でも、テレビ用の完璧なメイクでもない。
落ち着いた服装。
柔らかい表情。
それでも、彼女がそこにいるだけで、周囲の空気は少しだけ変わっていた。
気付いた卒業生たちが、自然と彼女の周りに集まっている。
九条蒼。
白石彩音。
森下優斗。
西園寺玲奈。
藤堂紗希。
神谷美月。
桐谷奈緒。
一ノ瀬陽菜。
天野琴葉。
九人の卒業生たちは、緊張と好奇心が混ざったような表情で巳波を見ていた。
⸻
蒼が少し緊張しながら話す。
「いや……普通に本物なんですね、テレビの人って」
巳波は軽く笑う。
「テレビの人って言い方、ちょっと雑ですね」
「す、すみません」
蒼が慌てると、彩音が横から小さく笑った。
「でも分かる。なんか……画面の中の人って感じだったから」
「目の前にいると、雰囲気全然違う……」
巳波は少しだけ首を傾ける。
「仕事の時と、今は違いますから」
玲奈が興味深そうに聞く。
「今日は誰の卒業式なんですか?」
その問いに、周囲の空気がほんの少しだけ止まる。
巳波は一瞬だけ間を置いた。
ほんの一秒にも満たない沈黙。
けれど、その一秒の中で、彼女は言葉を選んだ。
そして落ち着いて答える。
「親戚の子です」
「この学校の」
その言い方は自然だった。
嘘ではない。
けれど、全部は言っていない。
それは、琉偉との関係を守るための、優しい線引きだった。
神谷美月が目を丸くする。
「え、この学校に親戚いるんですか?」
巳波は静かに頷く。
「はい」
「今日、卒業だったので」
桐谷奈緒が感心したように言う。
「忙しいのに来るなんて、優しいですね」
巳波は微笑む。
「大切な日ですから」
「できるだけ見届けたかったんです」
その言葉に、彩音が少しだけ目を伏せた。
「なんか……いいですね」
「卒業式って、家族とか親戚が来てくれるだけで、ちょっと嬉しいし」
巳波は穏やかに頷く。
「そうですね」
「こういう日は、あとから思い出すことが多いですから」
⸻
その頃。
少し離れた場所で、琉偉のスマホが震えた。
メッセージ。
『そろそろ抜けましょう』
巳波からだった。
琉偉は一瞬だけ周囲を見る。
蒼たちはまだ話している。
彩音も、優斗も、玲奈も。
誰も“終わり”を意識していない。
まだ写真を撮り、まだ笑い、まだ別れを先延ばしにしている。
琉偉は短く返信する。
『分かりました』
そして、ゆっくり立ち上がった。
「ごめん、俺そろそろ行く」
蒼が振り返る。
「え、もう?」
彩音も驚いた顔をする。
「早くない?」
琉偉は軽く頭を下げる。
「ちょっと用事ある」
蒼が笑う。
「まあ、卒業だしな。自由だわ」
「また連絡しろよ」
「うん」
彩音も小さく手を振る。
「またね」
「またな」
クラスの数人も声をかける。
「お疲れ!」
「また会おうな!」
「大学行っても忘れんなよ!」
琉偉は一人一人に頷く。
「忘れないよ」
その声の中を、琉偉はゆっくり歩いた。
校舎の出口。
光が差し込む場所。
そこに向かいながら、琉偉は一度だけ振り返る。
体育館。
校庭。
友人たち。
制服姿の自分。
三年間の全部が、そこに残っている気がした。
(終わったんだな)
そう思った瞬間、少しだけ胸が詰まった。
けれど、足は止めなかった。
終わった場所から、次の場所へ向かう。
その先に、巳波がいる。
そう思うだけで、不思議と前へ進めた。
⸻
その頃。
巳波はまだ卒業生たちと話していた。
「仕事ってやっぱり大変ですか?」
誰かが聞くと、巳波は少しだけ笑う。
「大変じゃない仕事はないですよ」
「でも楽しい時もあります」
一ノ瀬陽菜が言う。
「テレビとか配信って、緊張しないんですか?」
「しますよ」
「え、するんですか?」
「もちろん」
巳波は柔らかく笑った。
「緊張しなくなったら、たぶんそれは慣れすぎている証拠かもしれません」
「緊張するから、ちゃんと準備するんです」
天野琴葉が感心したように呟く。
「すごい……」
藤堂紗希が少し身を乗り出す。
「YouTube見てます!」
「ありがとうございます」
「動画、めっちゃ参考になります」
「嬉しいです」
森下優斗が少し照れながら言う。
「ゲーム配信も見ました」
巳波は少しだけ目を丸くする。
「本当ですか?」
「はい。普通に上手かったです」
「普通に、ですか?」
「いや、かなり上手かったです」
その場に小さな笑いが起きる。
芸能人と学生。
本来なら遠いはずの距離。
けれど、その時間だけは違っていた。
そこにいたのは、テレビの中のスターではなく。
少し年上の、落ち着いた大人。
卒業する彼らに、静かに言葉を渡してくれる人だった。
⸻
その時。
巳波の携帯が震える。
琉偉から。
『出ました』
巳波は画面を見て、短く返す。
『了解』
そして、一歩動いた。
「そろそろ行きますね」
卒業生たちが少しざわつく。
「え、もう?」
「もう帰るんですか?」
「写真、最後に一枚だけ……は、だめですか?」
巳波は少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい」
「今日は“親戚として”来ただけなので」
「仕事ではないんです」
その言葉に、玲奈がすぐ頷いた。
「そっか」
「そうですよね」
彩音も言う。
「すみません、無理言って」
巳波は首を横に振る。
「いえ」
「声を掛けてくれて嬉しかったです」
そして、九人をゆっくり見渡した。
「卒業、おめでとうございます」
「これから先、楽しいことばかりではないと思います」
「でも、今日みたいに笑って別れられる人たちがいるなら、きっと大丈夫です」
「皆さんのこれからが、良い時間になりますように」
その言葉に、九人は一瞬黙った。
そして、彩音が小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
蒼も、少し照れたように笑った。
「なんか……本当に卒業したって感じしました」
「そうですか」
「はい」
巳波は最後に軽く会釈し、静かに歩き出した。
⸻
校門の外。
琉偉が待っている。
少し離れた場所。
でも、ちゃんと見える距離。
巳波は周囲を確認しながら、自然な足取りで近付いた。
琉偉も、すぐに彼女に気付く。
「お待たせしました」
「いえ」
「大丈夫です」
二人は並んで歩き始める。
学校から少し離れるまでは、距離を保ったまま。
他人より近く。
恋人より少し遠く。
それは、二人が選んだ距離だった。
秘密を隠すためだけではない。
今日という日を、誰にも壊されないようにするための距離。
⸻
しばらく歩いて、校門が見えなくなった頃。
巳波が小さく息を吐いた。
「卒業、おめでとうございます」
琉偉は横を見る。
「ありがとうございます」
巳波は微笑む。
「ちゃんと言いたかったんです」
「式の中では言えませんでしたから」
「聞けて嬉しいです」
琉偉は少しだけ照れたように笑った。
巳波はゆっくり言う。
「今日の琉偉くん、すごく立派でした」
「制服姿も、最後だと思うと少し寂しいですね」
「そうですね」
「僕も、まだ実感がありません」
「高校生じゃなくなるんですね」
「はい」
「でも、これからは大学生です」
「少し大人になります」
巳波はくすっと笑った。
「今でも十分しっかりしていますよ」
「そうでしょうか」
「はい」
「でも、無理に大人にならなくてもいいです」
「琉偉くんは琉偉くんのままで」
その言葉に、琉偉は静かに頷いた。
⸻
人通りの少ない路地に入る。
春の風が、二人の間を通り抜けた。
巳波は足を止める。
琉偉も止まる。
数秒。
二人は何も言わずに向き合った。
巳波が少しだけ目を伏せる。
「本当は」
「はい」
「卒業式のあと、すぐに抱きしめたかったです」
琉偉の胸が、静かに熱くなる。
「僕もです」
「でも、できませんでしたね」
「はい」
「秘密なので」
「はい」
巳波は苦笑する。
「こういう時だけ、少し寂しいですね」
琉偉は一歩近付いた。
「でも」
「ん?」
「今は、誰も見ていません」
巳波が顔を上げる。
琉偉は少しだけ緊張した表情で、けれど真っ直ぐに言った。
「卒業しました」
「これからも、よろしくお願いします」
その言葉に、巳波の瞳が揺れた。
「……はい」
「こちらこそ」
「これからも、よろしくお願いします」
そして巳波は、そっと琉偉に近付いた。
派手ではない。
長くもない。
けれど、確かめ合うような抱擁。
卒業の喧騒から離れた路地で、二人は静かに抱き合った。
巳波の手が、琉偉の背中に回る。
琉偉の手が、そっと巳波の肩を包む。
言葉はいらなかった。
校庭では言えなかった祝福。
体育館では見せられなかった想い。
その全部が、短い抱擁に込められていた。
巳波は琉偉の肩に額を寄せる。
「卒業、おめでとう」
今度は、耳元で。
琉偉は目を閉じる。
「ありがとうございます」
少しだけ腕に力が入る。
巳波は柔らかく笑った。
「泣きそう?」
「少し」
「泣いてもいいですよ」
「今日は、卒業式ですから」
琉偉は小さく首を横に振る。
「まだ大丈夫です」
「そうですか」
「でも、家に帰ったら分かりません」
巳波は笑った。
「その時は、私が隣にいます」
⸻
二人は再び歩き出す。
駅へ向かう道。
春の陽射し。
制服の琉偉。
眼鏡姿の巳波。
誰も、二人の本当の関係を知らない。
けれど、それでよかった。
二人は、隠しているのではなく。
守っている。
この関係を。
この時間を。
この未来を。
⸻
校門の向こうでは、まだ卒業生たちの声が聞こえていた。
けれど琉偉はもう振り返らなかった。
隣に巳波がいる。
それだけで、前を向ける。
巳波もまた、隣を歩く琉偉を見ていた。
高校生だった彼が、今日卒業した。
これから、また新しい日々が始まる。
秘密のまま。
それでも確かに、夫婦として。
二人の間にあるのは、もう“秘密”ではなく――。
“選んだ距離”だった。
その距離を大切にしながら。
二人は春の道を、ゆっくり歩いていった。
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