第39章「卒業式」
朝の空気は、少し冷たかった。
三月の終わり。
冬の名残をまだ少しだけ抱えた風が、校門前の桜並木を通り抜けていく。
枝先には、淡い花びらがいくつも開き始めていた。
満開にはまだ少し早い。
けれど、今日という日には、それくらいがちょうど良かった。
全部が終わるわけではない。
でも、確かにひとつの季節が終わる。
そんな空気だった。
校門の前には、いつもより早い時間から生徒たちが集まっていた。
制服の擦れる音。
ローファーの足音。
「写真撮ろうぜ」という声。
「泣くなよ」と笑う声。
「もう無理、朝から泣きそう」と言う声。
そのすべてが、今日で最後になる日特有の色を帯びていた。
⸻
廣瀬琉偉は、校門の少し手前で足を止めた。
いつもの校門。
いつもの校舎。
いつもの通学路。
けれど今日は、全部が少し違って見えた。
三年間。
毎日のように通った場所。
嫌だった日もある。
面倒だった朝もある。
眠くて仕方なかった授業もある。
友人と笑いながら帰った夕方もある。
何も特別ではないと思っていた日々が、今日になって急に特別なものへ変わっていく。
「……卒業か」
小さく呟く。
その言葉は、白い息になって朝の空気へ溶けた。
⸻
校舎に入ると、すでに教室は騒がしかった。
黒板には大きく、
『卒業おめでとう』
と書かれている。
その周りには、誰かが描いた花。
誰かが書いた似顔絵。
誰かが貼った小さなメッセージ。
『三年間ありがとう』
『また会おう』
『絶対同窓会しよう』
『先生泣かせるぞ』
そんな言葉が並んでいた。
教室の空気は、いつもの朝とはまるで違った。
普段なら席に座ってスマホを見ている者。
眠そうに机へ突っ伏している者。
友人とふざけている者。
それぞれが自由に過ごしているだけの教室だった。
けれど今日は、みんながどこか落ち着かない。
笑っているのに、目が少し赤い。
ふざけているのに、声が少しだけ震えている。
半分は祝福。
半分は別れ。
そんな教室だった。
⸻
クラスには、四十人がいた。
男子二十人。
仲嶋颯汰。
森下優斗。
佐伯悠真。
黒崎蓮。
如月晴斗。
九条蒼。
高瀬陸。
真田隼人。
桐生翔。
浅野亮。
神崎航。
中川蓮斗。
藤堂海斗。
宮城蒼真。
日高涼。
三枝凛太郎。
北条蓮司。
白河悠人。
天城翔真。
久遠蓮。
女子二十人。
一ノ瀬陽菜。
天野琴葉。
白石彩音。
西園寺玲奈。
藤堂紗希。
神谷美月。
桐谷奈緒。
雨宮詩織。
星野結衣。
三浦玲奈。
橘さくら。
宮本葵。
早川凛。
小泉美咲。
高橋凪。
遠山莉子。
片桐ひより。
日向杏。
水瀬玲。
望月咲良。
四十人。
それぞれが、今日を最後に別々の道へ進んでいく。
大学へ行く者。
専門学校へ行く者。
就職する者。
浪人する者。
地元に残る者。
県外へ出る者。
もう毎朝、この教室で全員が顔を合わせることはない。
その事実が、まだ現実感のないまま、教室の中へ静かに広がっていた。
⸻
「なあ、琉偉」
九条蒼が、笑いながら近付いてきた。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけ柔らかかった。
「ほんとに今日で終わりなんだな」
琉偉は窓際の席に鞄を置きながら、短く答えた。
「そうだな」
「なんかさ、実感ないよな」
蒼は教室を見回す。
「昨日まで普通に授業受けてた気がするのに」
「昨日はもう授業なかったけどな」
「そういう正論いらないんだよ」
琉偉は少し笑った。
その横から、白石彩音が近付いてくる。
彩音は、いつもより静かな表情をしていた。
「なんか、あっという間だったね」
琉偉は少し考える。
「あっという間だった気もするし」
「長かった気もする」
彩音は頷いた。
「分かる」
「一年生の頃のこととか、すごく昔に感じるのに」
「三年間って言われると短いんだよね」
蒼が椅子へ腰掛けながら言う。
「俺、一年の時の自己紹介、今でも覚えてるわ」
「蒼、いきなり噛んでたよね」
彩音が笑う。
「やめろ」
「卒業の日に掘り返すな」
琉偉も少しだけ笑った。
教室のあちこちで、同じような会話が起きていた。
「写真撮ろ!」
「卒アルに寄せ書きして!」
「大学行っても連絡してね」
「お前絶対忘れるだろ」
「泣いてないし!」
「もう泣いてるじゃん」
そんな声が重なっていく。
⸻
その時。
チャイムが鳴った。
いつものチャイム。
けれど今日だけは、どこか違って聞こえた。
担任が教室へ入ってくる。
教室のざわめきが少しずつ静まっていく。
「全員いるな」
担任は出席簿を閉じ、教室を見渡した。
そして、少しだけ間を置いた。
「今日で、君たちはこの学校を卒業する」
その一言で、教室の空気が変わった。
「式では、最後まで胸を張っていなさい」
「泣いてもいい」
「笑ってもいい」
「ただ、三年間をちゃんと受け取って、ここを出ていきなさい」
誰も茶化さなかった。
いつもなら誰かが小さく笑ったり、冗談を言ったりする場面だった。
でも今日は違った。
みんな静かに聞いていた。
「それじゃあ、体育館へ移動するぞ」
椅子を引く音。
立ち上がる音。
制服の音。
教室の四十人が、ゆっくりと廊下へ出ていく。
⸻
体育館。
紅白の幕。
整然と並べられた椅子。
壇上の校章。
保護者席。
在校生席。
卒業生席。
体育館全体が、静かな緊張に包まれていた。
琉偉は席に着き、前を見た。
壇上。
校長。
教員。
来賓。
いつもなら退屈に感じる式の空気も、今日は不思議と重く感じなかった。
むしろ、一つ一つの動作が胸に残る。
開式の言葉。
国歌。
校歌。
校長式辞。
来賓挨拶。
祝電披露。
どれも淡々と進んでいく。
しかし、その淡々とした時間の中で、卒業という現実だけが少しずつ深くなっていった。
⸻
「卒業証書授与」
体育館全体が静まり返る。
一人ずつ名前が呼ばれていく。
「仲嶋颯汰」
「はい」
颯汰が立ち上がる。
歩く。
証書を受け取る。
拍手。
「森下優斗」
「はい」
「佐伯悠真」
「はい」
「黒崎蓮」
「はい」
名前が呼ばれるたびに、三年間の記憶が少しずつ形を変えていく。
「九条蒼」
「はい」
蒼がいつもより真面目な顔で壇上へ向かう。
その後ろ姿を見て、琉偉は少しだけ笑いそうになった。
「白石彩音」
「はい」
彩音は静かに立ち上がった。
背筋を伸ばし、しっかりと歩いていく。
証書を受け取る時、少しだけ目元が赤くなっていた。
そして――。
「廣瀬琉偉」
琉偉は立ち上がった。
椅子の音が、やけに大きく聞こえた。
壇上へ向かって歩く。
一歩。
また一歩。
体育館の空気。
床の感触。
視線。
拍手。
すべてが遠く感じる。
校長の前で止まる。
一礼。
卒業証書を受け取る。
その瞬間だけ、時間が少し止まった気がした。
三年間。
本当に終わるのだと。
琉偉は証書を胸に抱え、席へ戻った。
⸻
式は進んだ。
在校生送辞。
卒業生答辞。
生徒代表の言葉が体育館に響く。
「私たちは今日、この学校を卒業します」
その声は少し震えていた。
「楽しかった日も」
「苦しかった日も」
「迷った日も」
「すべてが、今の私たちを作ってくれました」
何人かの女子が涙を拭った。
男子の中にも、顔を伏せる者がいた。
「先生方」
「保護者の皆様」
「友人たち」
「本当にありがとうございました」
体育館全体に、長い拍手が広がった。
それは、ただの拍手ではなかった。
三年間への拍手。
別れへの拍手。
次へ進むための拍手。
琉偉はその音の中で、静かに目を閉じた。
⸻
卒業式が終わった。
体育館を出ると、外の空気は朝より少し暖かくなっていた。
校庭では、卒業生たちが次々と写真を撮っている。
保護者と並ぶ者。
友人同士で肩を組む者。
先生に花束を渡す者。
泣きながら抱き合う者。
卒業証書を掲げる者。
すべてが、最後の日の風景だった。
⸻
保護者席の近く。
そこに、彼女はいた。
東雲巳波。
髪を下ろし、落ち着いた眼鏡姿。
派手な服ではない。
むしろ、かなり控えめな装いだった。
淡い色のロングコート。
清楚なワンピース。
小さなバッグ。
目立たないようにしているはずだった。
けれど――。
目立たないはずがなかった。
空気が違う。
立っているだけで、周囲の視線を引く。
芸能人特有の雰囲気を、完全には消しきれていなかった。
その隣には、琉偉の母・聖樹。
そして姉・美紗都。
三人は、あくまで“親戚として”そこにいる。
巳波と琉偉の本当の関係を知る者は、ごくわずか。
この場所では、巳波は琉偉の妻ではない。
親戚。
それが外向きの設定だった。
⸻
美紗都が小声で言う。
「……すごい目立ってるんだけど」
聖樹も苦笑する。
「そりゃそうよね」
巳波は落ち着いた声で答えた。
「今日はそういう日ですから」
美紗都は横目で見る。
「そういう日って?」
巳波は少しだけ微笑んだ。
「琉偉くんの卒業式の日です」
その一言に、美紗都は黙った。
巳波の声は静かだった。
けれど、そこには確かな想いがあった。
ただ見に来たわけではない。
夫の人生の節目を、どうしてもこの目で見届けたかった。
たとえ“親戚”という立場でも。
たとえ声を掛けられなくても。
たとえ隣に堂々と立てなくても。
この日だけは、近くで見守りたかった。
⸻
少し離れた場所で、琉偉は聖樹と美紗都と話していた。
「……無事終わったわね」
聖樹が言う。
「はい」
琉偉は短く答える。
「卒業証書、ちゃんともらえた?」
美紗都がからかうように聞く。
「もらえました」
「落とさなかった?」
「落としてません」
「泣かなかった?」
「泣いてません」
美紗都は笑う。
「なんか変な感じだね、こういうの」
「琉偉が卒業って」
聖樹も頷く。
「本当に大きくなったわね」
琉偉は少しだけ照れたように視線を逸らす。
「そういうの、やめてください」
「親として言わせて」
「卒業おめでとう」
聖樹の声は優しかった。
琉偉は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
その少し向こうで、巳波はそのやり取りを見つめていた。
声を掛けたい。
「卒業おめでとう」と言いたい。
抱きしめたい。
本当なら、妻として隣に立ちたい。
けれど今はできない。
だから、ただ静かに微笑む。
その表情を見て、美紗都が小さく言った。
「巳波さん、ちゃんと我慢してるんだね」
聖樹は頷く。
「ええ」
「ちゃんと守ってる」
何を守っているのか。
それは、関係。
秘密。
琉偉の学校生活。
巳波の立場。
そして、二人の未来。
琉偉はその言葉を少し離れた場所で聞き、胸の奥が温かくなった。
⸻
その時だった。
一人の男子生徒が、少し緊張した顔で近付いてきた。
クラスメイトではない。
別の組の男子だった。
手には卒業証書。
視線は、まっすぐ巳波へ向いている。
「すみません」
その声に、巳波が振り返る。
男子生徒は一瞬言葉に詰まった。
本物だ。
そう確信した顔だった。
「東雲さん……ですよね?」
一瞬。
空気が止まった。
聖樹の表情がわずかに硬くなる。
美紗都も目を細める。
琉偉は少し離れた場所で、その光景を見ていた。
心臓が、少しだけ強く鳴る。
だが、巳波は動じなかった。
微笑みを崩さず、落ち着いた声で答える。
「はい」
「東雲巳波です」
男子生徒の顔が一気に明るくなる。
「やっぱり!」
「え、すごい……」
「本物だ……」
その声が周囲へ広がる。
近くにいた生徒たちが振り返る。
保護者も視線を向ける。
「東雲巳波?」
「え?」
「本物?」
「なんで卒業式に?」
男子生徒は緊張したまま、さらに聞いた。
「あの……」
「誰かの卒業式ですか?」
巳波は少しだけ間を置いた。
その一瞬で、答えを整える。
そして、静かに言った。
「親戚が、この学校の卒業生なので」
「見に来ました」
完璧な外側の答え。
嘘ではない。
けれど、真実のすべてではない。
男子生徒は納得したように頷いた。
「そうなんですね!」
「すみません、突然声掛けて」
「卒業おめでとうございます」
巳波は柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
「あなたも、ご卒業おめでとうございます」
男子生徒は顔を赤くして頭を下げた。
「ありがとうございます!」
そのやり取りを見ていた周囲が、一気にざわつき始めた。
「え、今の東雲巳波じゃない?」
「本物だよね?」
「親戚がいるって言ってた」
「誰?」
「この学校に東雲巳波の親戚いるの?」
「同じ学年?」
「三年?」
「まさかクラスにいた?」
保護者席にも波紋が広がる。
「あの方、芸能人よね?」
「東雲巳波さん?」
「どうしてここに?」
「親戚って誰かしら」
「この学校に芸能人の親戚がいたの?」
一気に空気が変わった。
卒業式後の穏やかな校庭に、小さな騒ぎが生まれる。
⸻
琉偉は少し離れた位置で、その光景を見ていた。
(……まあ、こうなるよな)
想定していなかったわけではない。
巳波が来れば、どれだけ変装していても、気付く人はいる。
ファンならなおさら。
テレビやグラビアや配信で見慣れた人間が、卒業式の保護者席にいたら気付く。
それでも巳波は来た。
琉偉の卒業式を見届けるために。
その事実だけで、胸がいっぱいになる。
⸻
しかし、騒ぎは少しずつ大きくなっていく。
「写真撮ってもらえるかな」
「いや、卒業式だし駄目じゃない?」
「親戚って誰なんだろ」
「あの辺にいた男子じゃない?」
「もしかして廣瀬?」
「え、なんで?」
「さっき近くにいたじゃん」
琉偉の名前が、小さく聞こえた。
琉偉は表情を変えない。
蒼が横から近付いてくる。
「琉偉」
「……あれ」
蒼は巳波の方を見る。
「東雲巳波さんだよな?」
琉偉は短く答える。
「そうだな」
彩音も近付いてきた。
「親戚って言ってたけど……」
少しだけ探るような目。
けれど、問い詰めるような強さはなかった。
琉偉は静かに言う。
「親戚だよ」
それだけ。
蒼はしばらく琉偉の顔を見る。
そして、小さく笑った。
「そっか」
「すごい親戚だな」
彩音も微笑む。
「びっくりしたけど」
「でも、琉偉の卒業を見に来てくれたんでしょ?」
琉偉は一瞬だけ巳波を見る。
巳波は、周囲の視線の中でも静かに立っていた。
「……そうだな」
彩音は優しく言った。
「大事にされてるね」
その言葉に、琉偉は何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を下げた。
⸻
一方、巳波の周囲には、少しずつ生徒が集まり始めていた。
「東雲さん、卒業式に来るなんてすごいですね」
「親戚の方、ご卒業おめでとうございます」
「握手だけお願いしてもいいですか?」
「写真は……駄目ですか?」
聖樹が一歩前に出ようとする。
しかし、巳波が小さく手で制した。
大丈夫です。
そんな合図だった。
巳波は落ち着いた声で言う。
「今日は学校の卒業式なので」
「写真は控えさせてください」
「でも、皆さん」
「ご卒業おめでとうございます」
その言葉に、周囲の生徒たちは少し静かになった。
「ありがとうございます」
「すみません、急に」
「いえ」
巳波は微笑んだ。
「今日の主役は、卒業生の皆さんですから」
「素敵な一日になりますように」
その一言で、空気が少し変わった。
ただの芸能人としてではなく、卒業式に来た一人の大人として、巳波はそこに立っていた。
騒ぎを大きくしないように。
自分の存在で式の余韻を壊さないように。
そして、琉偉の名前が不用意に出ないように。
すべてを守りながら。
⸻
美紗都が小さく息を吐く。
「すごいね」
聖樹も静かに頷く。
「ええ」
「あの子、本当に強いわ」
巳波は二人の方へ少しだけ振り返る。
「大丈夫です」
「これくらいなら」
美紗都が苦笑する。
「これくらいって言えるのがすごいんだけど」
巳波は少しだけ笑った。
「慣れてますから」
けれど、その笑顔の奥には少しだけ緊張があった。
芸能人として人前に立つことには慣れている。
しかし今日だけは違う。
ここは仕事の現場ではない。
琉偉の学校。
琉偉の人生の区切り。
だからこそ、絶対に失敗できなかった。
⸻
しばらくして、担任や教員たちが生徒の誘導を始めた。
「写真撮る人はクラスごとに集まってください」
「通路を塞がないように」
「保護者の皆さん、こちらへお願いします」
少しずつ人の流れが変わる。
巳波の周囲のざわめきも、完全には消えないまま、ゆっくりと薄れていった。
それでも、噂は確実に校舎へ広がっていた。
“東雲巳波が卒業式に来ていた”
“親戚がいるらしい”
“誰の親戚なのか”
“廣瀬琉偉と一緒にいた気がする”
“いや、母親たちと話してただけ”
“本当に親戚?”
そんな言葉が、校庭のあちこちで飛び交っていた。
⸻
クラス写真を撮る時間になった。
琉偉たちは校庭の端に集まる。
男子二十人。
女子二十人。
担任を囲んで並ぶ。
「もっと詰めて!」
「後ろ見えない!」
「蒼、変な顔するな!」
「してねえよ!」
「絶対した!」
笑い声。
カメラマンの声。
「はい、撮ります!」
「三、二、一」
シャッターが切られる。
その瞬間、琉偉は少しだけ遠くを見た。
巳波が、少し離れた場所から見守っていた。
目が合った。
ほんの一瞬。
誰にも気付かれないくらい短い時間。
巳波は小さく微笑んだ。
琉偉も、ほんの少しだけ頷いた。
それだけで十分だった。
言葉は必要なかった。
⸻
写真撮影が終わると、教室へ戻る時間になった。
最後のホームルーム。
琉偉は校舎へ向かう途中、もう一度振り返った。
巳波は、聖樹と美紗都と一緒に保護者の流れへ混ざっている。
彼女は本当の立場を名乗れない。
妻として隣に立てない。
けれど、今日、確かにここに来てくれた。
それだけは、琉偉の胸に深く残った。
⸻
教室。
最後のホームルーム。
担任が一人ずつ名前を呼び、卒業証書や記念品を確認していく。
そして最後に、担任は教卓の前に立った。
「三年間」
「よく頑張ったな」
その一言で、教室が静かになる。
「正直、手のかかるクラスだった」
小さな笑いが起こる。
「でも、良いクラスだった」
「今日で担任として君たちと過ごす時間は終わる」
「でも、君たちの人生はここから続いていく」
担任はゆっくりと教室を見渡した。
「困ったら、学校に来い」
「嬉しいことがあったら、報告しに来い」
「失敗してもいい」
「迷ってもいい」
「ただ、自分の人生をちゃんと歩きなさい」
女子の何人かが泣き出す。
男子も、いつものように茶化せなかった。
担任は少しだけ笑った。
「卒業おめでとう」
「以上」
その瞬間、教室全体から拍手が起きた。
長い拍手だった。
担任は少し照れたように頭を下げる。
そして、最後のホームルームが終わった。
⸻
その後は、教室の中で写真や寄せ書きが続いた。
「琉偉、卒アル貸して」
「俺にも書けよ」
「蒼、変なこと書くなよ」
「書かねえよ」
「絶対書くじゃん」
彩音が卒業アルバムを差し出す。
「琉偉、私にも書いて」
「何を書けばいい?」
「普通でいいよ」
琉偉は少し考え、短く書いた。
『三年間ありがとう。元気で。』
彩音はそれを見て笑う。
「琉偉らしい」
蒼が覗き込む。
「短っ!」
「お前は長すぎる」
「俺のは感情があるんだよ」
「俺にもある」
「どこに?」
琉偉は無表情で言う。
「行間」
彩音が笑った。
「最後まで琉偉だね」
そんな何気ないやり取りも、今日で一区切りだった。
⸻
放課後。
校舎の外。
生徒たちは少しずつ帰り始めていた。
けれど、校門前にはまだ多くの人が残っている。
名残惜しさ。
写真。
別れの言葉。
また会おうという約束。
琉偉は校舎を出る。
そこに、聖樹と美紗都がいた。
そして少し離れた場所に、巳波が立っていた。
人目を考え、距離を取っている。
完璧だった。
けれど、琉偉には分かる。
彼女が本当は近くへ来たいこと。
自分も、近くへ行きたいこと。
それでも二人は、今は距離を守る。
⸻
「琉偉」
聖樹が声を掛ける。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
美紗都も笑う。
「おめでとう」
「これで高校生じゃなくなるんだね」
「そうですね」
「変な感じ」
「僕もです」
聖樹は少しだけ目を潤ませていた。
「今日は本当に良かった」
「来られて良かったわ」
琉偉は頷く。
「はい」
そして、ほんの少しだけ視線を動かす。
巳波がこちらを見ていた。
その目が、優しく細められる。
声は出さない。
でも口元だけが動いた。
『卒業おめでとう』
琉偉は、ほんの少しだけ頭を下げた。
『ありがとうございます』
声に出せない会話。
でも、確かに届いていた。
⸻
その直後。
また数人の生徒が巳波の方を見てざわめいた。
「やっぱり東雲巳波だよ」
「親戚って誰なんだろ」
「廣瀬と関係あるのかな」
「いや、たまたま近くにいただけじゃない?」
「でもさっき見てなかった?」
噂は消えない。
卒業式は終わった。
しかし、騒ぎはまだ終わっていなかった。
“誰が親戚なのか”
その疑問だけが、校舎と校庭に残り続けていた。
けれど――。
誰も答えには辿り着けない。
辿り着かせない。
巳波は静かに守り。
聖樹と美紗都も自然に隠し。
琉偉も表情を変えなかった。
それぞれが、同じ秘密を守っていた。
⸻
校門を出る時。
琉偉はもう一度、学校を振り返った。
三年間過ごした校舎。
友人たちの声。
卒業証書。
そして、遠くから見守ってくれた巳波。
全部が胸に残っていた。
高校生活は、今日で終わる。
だが、琉偉の人生はここから大きく変わっていく。
大学へ。
新しい日常へ。
そして、誰にも言えない夫婦生活へ。
その隣には、東雲巳波がいる。
今はまだ秘密でも。
外では親戚でも。
本当は、誰よりも近い人。
琉偉は静かに息を吸った。
そして、前を向いた。
卒業式は終わった。
けれど――。
二人の物語は、まだ始まったばかりだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
もしこの物語に少しでも「面白い!」と感じていただけたなら——
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その一つひとつが、次の章を書き進める力になります。
読者の皆さまの応援が、物語の未来を動かします。
「続きが気になる!」と思った方は、ぜひ、見逃さないようブックマークを!
皆さまの応援がある限り、次の物語はまだまだ紡がれていきます。




