表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/79

第39章「卒業式」

朝の空気は、少し冷たかった。


三月の終わり。


冬の名残をまだ少しだけ抱えた風が、校門前の桜並木を通り抜けていく。


枝先には、淡い花びらがいくつも開き始めていた。


満開にはまだ少し早い。


けれど、今日という日には、それくらいがちょうど良かった。


全部が終わるわけではない。


でも、確かにひとつの季節が終わる。


そんな空気だった。


校門の前には、いつもより早い時間から生徒たちが集まっていた。


制服の擦れる音。


ローファーの足音。


「写真撮ろうぜ」という声。


「泣くなよ」と笑う声。


「もう無理、朝から泣きそう」と言う声。


そのすべてが、今日で最後になる日特有の色を帯びていた。



廣瀬琉偉は、校門の少し手前で足を止めた。


いつもの校門。


いつもの校舎。


いつもの通学路。


けれど今日は、全部が少し違って見えた。


三年間。


毎日のように通った場所。


嫌だった日もある。


面倒だった朝もある。


眠くて仕方なかった授業もある。


友人と笑いながら帰った夕方もある。


何も特別ではないと思っていた日々が、今日になって急に特別なものへ変わっていく。


「……卒業か」


小さく呟く。


その言葉は、白い息になって朝の空気へ溶けた。



校舎に入ると、すでに教室は騒がしかった。


黒板には大きく、


『卒業おめでとう』


と書かれている。


その周りには、誰かが描いた花。


誰かが書いた似顔絵。


誰かが貼った小さなメッセージ。


『三年間ありがとう』


『また会おう』


『絶対同窓会しよう』


『先生泣かせるぞ』


そんな言葉が並んでいた。


教室の空気は、いつもの朝とはまるで違った。


普段なら席に座ってスマホを見ている者。


眠そうに机へ突っ伏している者。


友人とふざけている者。


それぞれが自由に過ごしているだけの教室だった。


けれど今日は、みんながどこか落ち着かない。


笑っているのに、目が少し赤い。


ふざけているのに、声が少しだけ震えている。


半分は祝福。


半分は別れ。


そんな教室だった。



クラスには、四十人がいた。


男子二十人。


仲嶋颯汰。


森下優斗。


佐伯悠真。


黒崎蓮。


如月晴斗。


九条蒼。


高瀬陸。


真田隼人。


桐生翔。


浅野亮。


神崎航。


中川蓮斗。


藤堂海斗。


宮城蒼真。


日高涼。


三枝凛太郎。


北条蓮司。


白河悠人。


天城翔真。


久遠蓮。


女子二十人。


一ノ瀬陽菜。


天野琴葉。


白石彩音。


西園寺玲奈。


藤堂紗希。


神谷美月。


桐谷奈緒。


雨宮詩織。


星野結衣。


三浦玲奈。


橘さくら。


宮本葵。


早川凛。


小泉美咲。


高橋凪。


遠山莉子。


片桐ひより。


日向杏。


水瀬玲。


望月咲良。


四十人。


それぞれが、今日を最後に別々の道へ進んでいく。


大学へ行く者。


専門学校へ行く者。


就職する者。


浪人する者。


地元に残る者。


県外へ出る者。


もう毎朝、この教室で全員が顔を合わせることはない。


その事実が、まだ現実感のないまま、教室の中へ静かに広がっていた。



「なあ、琉偉」


九条蒼が、笑いながら近付いてきた。


けれど、その笑顔はいつもより少しだけ柔らかかった。


「ほんとに今日で終わりなんだな」


琉偉は窓際の席に鞄を置きながら、短く答えた。


「そうだな」


「なんかさ、実感ないよな」


蒼は教室を見回す。


「昨日まで普通に授業受けてた気がするのに」


「昨日はもう授業なかったけどな」


「そういう正論いらないんだよ」


琉偉は少し笑った。


その横から、白石彩音が近付いてくる。


彩音は、いつもより静かな表情をしていた。


「なんか、あっという間だったね」


琉偉は少し考える。


「あっという間だった気もするし」


「長かった気もする」


彩音は頷いた。


「分かる」


「一年生の頃のこととか、すごく昔に感じるのに」


「三年間って言われると短いんだよね」


蒼が椅子へ腰掛けながら言う。


「俺、一年の時の自己紹介、今でも覚えてるわ」


「蒼、いきなり噛んでたよね」


彩音が笑う。


「やめろ」


「卒業の日に掘り返すな」


琉偉も少しだけ笑った。


教室のあちこちで、同じような会話が起きていた。


「写真撮ろ!」


「卒アルに寄せ書きして!」


「大学行っても連絡してね」


「お前絶対忘れるだろ」


「泣いてないし!」


「もう泣いてるじゃん」


そんな声が重なっていく。



その時。


チャイムが鳴った。


いつものチャイム。


けれど今日だけは、どこか違って聞こえた。


担任が教室へ入ってくる。


教室のざわめきが少しずつ静まっていく。


「全員いるな」


担任は出席簿を閉じ、教室を見渡した。


そして、少しだけ間を置いた。


「今日で、君たちはこの学校を卒業する」


その一言で、教室の空気が変わった。


「式では、最後まで胸を張っていなさい」


「泣いてもいい」


「笑ってもいい」


「ただ、三年間をちゃんと受け取って、ここを出ていきなさい」


誰も茶化さなかった。


いつもなら誰かが小さく笑ったり、冗談を言ったりする場面だった。


でも今日は違った。


みんな静かに聞いていた。


「それじゃあ、体育館へ移動するぞ」


椅子を引く音。


立ち上がる音。


制服の音。


教室の四十人が、ゆっくりと廊下へ出ていく。



体育館。


紅白の幕。


整然と並べられた椅子。


壇上の校章。


保護者席。


在校生席。


卒業生席。


体育館全体が、静かな緊張に包まれていた。


琉偉は席に着き、前を見た。


壇上。


校長。


教員。


来賓。


いつもなら退屈に感じる式の空気も、今日は不思議と重く感じなかった。


むしろ、一つ一つの動作が胸に残る。


開式の言葉。


国歌。


校歌。


校長式辞。


来賓挨拶。


祝電披露。


どれも淡々と進んでいく。


しかし、その淡々とした時間の中で、卒業という現実だけが少しずつ深くなっていった。



「卒業証書授与」


体育館全体が静まり返る。


一人ずつ名前が呼ばれていく。


「仲嶋颯汰」


「はい」


颯汰が立ち上がる。


歩く。


証書を受け取る。


拍手。


「森下優斗」


「はい」


「佐伯悠真」


「はい」


「黒崎蓮」


「はい」


名前が呼ばれるたびに、三年間の記憶が少しずつ形を変えていく。


「九条蒼」


「はい」


蒼がいつもより真面目な顔で壇上へ向かう。


その後ろ姿を見て、琉偉は少しだけ笑いそうになった。


「白石彩音」


「はい」


彩音は静かに立ち上がった。


背筋を伸ばし、しっかりと歩いていく。


証書を受け取る時、少しだけ目元が赤くなっていた。


そして――。


「廣瀬琉偉」


琉偉は立ち上がった。


椅子の音が、やけに大きく聞こえた。


壇上へ向かって歩く。


一歩。


また一歩。


体育館の空気。


床の感触。


視線。


拍手。


すべてが遠く感じる。


校長の前で止まる。


一礼。


卒業証書を受け取る。


その瞬間だけ、時間が少し止まった気がした。


三年間。


本当に終わるのだと。


琉偉は証書を胸に抱え、席へ戻った。



式は進んだ。


在校生送辞。


卒業生答辞。


生徒代表の言葉が体育館に響く。


「私たちは今日、この学校を卒業します」


その声は少し震えていた。


「楽しかった日も」


「苦しかった日も」


「迷った日も」


「すべてが、今の私たちを作ってくれました」


何人かの女子が涙を拭った。


男子の中にも、顔を伏せる者がいた。


「先生方」


「保護者の皆様」


「友人たち」


「本当にありがとうございました」


体育館全体に、長い拍手が広がった。


それは、ただの拍手ではなかった。


三年間への拍手。


別れへの拍手。


次へ進むための拍手。


琉偉はその音の中で、静かに目を閉じた。



卒業式が終わった。


体育館を出ると、外の空気は朝より少し暖かくなっていた。


校庭では、卒業生たちが次々と写真を撮っている。


保護者と並ぶ者。


友人同士で肩を組む者。


先生に花束を渡す者。


泣きながら抱き合う者。


卒業証書を掲げる者。


すべてが、最後の日の風景だった。



保護者席の近く。


そこに、彼女はいた。


東雲巳波。


髪を下ろし、落ち着いた眼鏡姿。


派手な服ではない。


むしろ、かなり控えめな装いだった。


淡い色のロングコート。


清楚なワンピース。


小さなバッグ。


目立たないようにしているはずだった。


けれど――。


目立たないはずがなかった。


空気が違う。


立っているだけで、周囲の視線を引く。


芸能人特有の雰囲気を、完全には消しきれていなかった。


その隣には、琉偉の母・聖樹。


そして姉・美紗都。


三人は、あくまで“親戚として”そこにいる。


巳波と琉偉の本当の関係を知る者は、ごくわずか。


この場所では、巳波は琉偉の妻ではない。


親戚。


それが外向きの設定だった。



美紗都が小声で言う。


「……すごい目立ってるんだけど」


聖樹も苦笑する。


「そりゃそうよね」


巳波は落ち着いた声で答えた。


「今日はそういう日ですから」


美紗都は横目で見る。


「そういう日って?」


巳波は少しだけ微笑んだ。


「琉偉くんの卒業式の日です」


その一言に、美紗都は黙った。


巳波の声は静かだった。


けれど、そこには確かな想いがあった。


ただ見に来たわけではない。


夫の人生の節目を、どうしてもこの目で見届けたかった。


たとえ“親戚”という立場でも。


たとえ声を掛けられなくても。


たとえ隣に堂々と立てなくても。


この日だけは、近くで見守りたかった。



少し離れた場所で、琉偉は聖樹と美紗都と話していた。


「……無事終わったわね」


聖樹が言う。


「はい」


琉偉は短く答える。


「卒業証書、ちゃんともらえた?」


美紗都がからかうように聞く。


「もらえました」


「落とさなかった?」


「落としてません」


「泣かなかった?」


「泣いてません」


美紗都は笑う。


「なんか変な感じだね、こういうの」


「琉偉が卒業って」


聖樹も頷く。


「本当に大きくなったわね」


琉偉は少しだけ照れたように視線を逸らす。


「そういうの、やめてください」


「親として言わせて」


「卒業おめでとう」


聖樹の声は優しかった。


琉偉は静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


その少し向こうで、巳波はそのやり取りを見つめていた。


声を掛けたい。


「卒業おめでとう」と言いたい。


抱きしめたい。


本当なら、妻として隣に立ちたい。


けれど今はできない。


だから、ただ静かに微笑む。


その表情を見て、美紗都が小さく言った。


「巳波さん、ちゃんと我慢してるんだね」


聖樹は頷く。


「ええ」


「ちゃんと守ってる」


何を守っているのか。


それは、関係。


秘密。


琉偉の学校生活。


巳波の立場。


そして、二人の未来。


琉偉はその言葉を少し離れた場所で聞き、胸の奥が温かくなった。



その時だった。


一人の男子生徒が、少し緊張した顔で近付いてきた。


クラスメイトではない。


別の組の男子だった。


手には卒業証書。


視線は、まっすぐ巳波へ向いている。


「すみません」


その声に、巳波が振り返る。


男子生徒は一瞬言葉に詰まった。


本物だ。


そう確信した顔だった。


「東雲さん……ですよね?」


一瞬。


空気が止まった。


聖樹の表情がわずかに硬くなる。


美紗都も目を細める。


琉偉は少し離れた場所で、その光景を見ていた。


心臓が、少しだけ強く鳴る。


だが、巳波は動じなかった。


微笑みを崩さず、落ち着いた声で答える。


「はい」


「東雲巳波です」


男子生徒の顔が一気に明るくなる。


「やっぱり!」


「え、すごい……」


「本物だ……」


その声が周囲へ広がる。


近くにいた生徒たちが振り返る。


保護者も視線を向ける。


「東雲巳波?」


「え?」


「本物?」


「なんで卒業式に?」


男子生徒は緊張したまま、さらに聞いた。


「あの……」


「誰かの卒業式ですか?」


巳波は少しだけ間を置いた。


その一瞬で、答えを整える。


そして、静かに言った。


「親戚が、この学校の卒業生なので」


「見に来ました」


完璧な外側の答え。


嘘ではない。


けれど、真実のすべてではない。


男子生徒は納得したように頷いた。


「そうなんですね!」


「すみません、突然声掛けて」


「卒業おめでとうございます」


巳波は柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます」


「あなたも、ご卒業おめでとうございます」


男子生徒は顔を赤くして頭を下げた。


「ありがとうございます!」


そのやり取りを見ていた周囲が、一気にざわつき始めた。


「え、今の東雲巳波じゃない?」


「本物だよね?」


「親戚がいるって言ってた」


「誰?」


「この学校に東雲巳波の親戚いるの?」


「同じ学年?」


「三年?」


「まさかクラスにいた?」


保護者席にも波紋が広がる。


「あの方、芸能人よね?」


「東雲巳波さん?」


「どうしてここに?」


「親戚って誰かしら」


「この学校に芸能人の親戚がいたの?」


一気に空気が変わった。


卒業式後の穏やかな校庭に、小さな騒ぎが生まれる。



琉偉は少し離れた位置で、その光景を見ていた。


(……まあ、こうなるよな)


想定していなかったわけではない。


巳波が来れば、どれだけ変装していても、気付く人はいる。


ファンならなおさら。


テレビやグラビアや配信で見慣れた人間が、卒業式の保護者席にいたら気付く。


それでも巳波は来た。


琉偉の卒業式を見届けるために。


その事実だけで、胸がいっぱいになる。



しかし、騒ぎは少しずつ大きくなっていく。


「写真撮ってもらえるかな」


「いや、卒業式だし駄目じゃない?」


「親戚って誰なんだろ」


「あの辺にいた男子じゃない?」


「もしかして廣瀬?」


「え、なんで?」


「さっき近くにいたじゃん」


琉偉の名前が、小さく聞こえた。


琉偉は表情を変えない。


蒼が横から近付いてくる。


「琉偉」


「……あれ」


蒼は巳波の方を見る。


「東雲巳波さんだよな?」


琉偉は短く答える。


「そうだな」


彩音も近付いてきた。


「親戚って言ってたけど……」


少しだけ探るような目。


けれど、問い詰めるような強さはなかった。


琉偉は静かに言う。


「親戚だよ」


それだけ。


蒼はしばらく琉偉の顔を見る。


そして、小さく笑った。


「そっか」


「すごい親戚だな」


彩音も微笑む。


「びっくりしたけど」


「でも、琉偉の卒業を見に来てくれたんでしょ?」


琉偉は一瞬だけ巳波を見る。


巳波は、周囲の視線の中でも静かに立っていた。


「……そうだな」


彩音は優しく言った。


「大事にされてるね」


その言葉に、琉偉は何も言わなかった。


ただ、少しだけ視線を下げた。



一方、巳波の周囲には、少しずつ生徒が集まり始めていた。


「東雲さん、卒業式に来るなんてすごいですね」


「親戚の方、ご卒業おめでとうございます」


「握手だけお願いしてもいいですか?」


「写真は……駄目ですか?」


聖樹が一歩前に出ようとする。


しかし、巳波が小さく手で制した。


大丈夫です。


そんな合図だった。


巳波は落ち着いた声で言う。


「今日は学校の卒業式なので」


「写真は控えさせてください」


「でも、皆さん」


「ご卒業おめでとうございます」


その言葉に、周囲の生徒たちは少し静かになった。


「ありがとうございます」


「すみません、急に」


「いえ」


巳波は微笑んだ。


「今日の主役は、卒業生の皆さんですから」


「素敵な一日になりますように」


その一言で、空気が少し変わった。


ただの芸能人としてではなく、卒業式に来た一人の大人として、巳波はそこに立っていた。


騒ぎを大きくしないように。


自分の存在で式の余韻を壊さないように。


そして、琉偉の名前が不用意に出ないように。


すべてを守りながら。



美紗都が小さく息を吐く。


「すごいね」


聖樹も静かに頷く。


「ええ」


「あの子、本当に強いわ」


巳波は二人の方へ少しだけ振り返る。


「大丈夫です」


「これくらいなら」


美紗都が苦笑する。


「これくらいって言えるのがすごいんだけど」


巳波は少しだけ笑った。


「慣れてますから」


けれど、その笑顔の奥には少しだけ緊張があった。


芸能人として人前に立つことには慣れている。


しかし今日だけは違う。


ここは仕事の現場ではない。


琉偉の学校。


琉偉の人生の区切り。


だからこそ、絶対に失敗できなかった。



しばらくして、担任や教員たちが生徒の誘導を始めた。


「写真撮る人はクラスごとに集まってください」


「通路を塞がないように」


「保護者の皆さん、こちらへお願いします」


少しずつ人の流れが変わる。


巳波の周囲のざわめきも、完全には消えないまま、ゆっくりと薄れていった。


それでも、噂は確実に校舎へ広がっていた。


“東雲巳波が卒業式に来ていた”


“親戚がいるらしい”


“誰の親戚なのか”


“廣瀬琉偉と一緒にいた気がする”


“いや、母親たちと話してただけ”


“本当に親戚?”


そんな言葉が、校庭のあちこちで飛び交っていた。



クラス写真を撮る時間になった。


琉偉たちは校庭の端に集まる。


男子二十人。


女子二十人。


担任を囲んで並ぶ。


「もっと詰めて!」


「後ろ見えない!」


「蒼、変な顔するな!」


「してねえよ!」


「絶対した!」


笑い声。


カメラマンの声。


「はい、撮ります!」


「三、二、一」


シャッターが切られる。


その瞬間、琉偉は少しだけ遠くを見た。


巳波が、少し離れた場所から見守っていた。


目が合った。


ほんの一瞬。


誰にも気付かれないくらい短い時間。


巳波は小さく微笑んだ。


琉偉も、ほんの少しだけ頷いた。


それだけで十分だった。


言葉は必要なかった。



写真撮影が終わると、教室へ戻る時間になった。


最後のホームルーム。


琉偉は校舎へ向かう途中、もう一度振り返った。


巳波は、聖樹と美紗都と一緒に保護者の流れへ混ざっている。


彼女は本当の立場を名乗れない。


妻として隣に立てない。


けれど、今日、確かにここに来てくれた。


それだけは、琉偉の胸に深く残った。



教室。


最後のホームルーム。


担任が一人ずつ名前を呼び、卒業証書や記念品を確認していく。


そして最後に、担任は教卓の前に立った。


「三年間」


「よく頑張ったな」


その一言で、教室が静かになる。


「正直、手のかかるクラスだった」


小さな笑いが起こる。


「でも、良いクラスだった」


「今日で担任として君たちと過ごす時間は終わる」


「でも、君たちの人生はここから続いていく」


担任はゆっくりと教室を見渡した。


「困ったら、学校に来い」


「嬉しいことがあったら、報告しに来い」


「失敗してもいい」


「迷ってもいい」


「ただ、自分の人生をちゃんと歩きなさい」


女子の何人かが泣き出す。


男子も、いつものように茶化せなかった。


担任は少しだけ笑った。


「卒業おめでとう」


「以上」


その瞬間、教室全体から拍手が起きた。


長い拍手だった。


担任は少し照れたように頭を下げる。


そして、最後のホームルームが終わった。



その後は、教室の中で写真や寄せ書きが続いた。


「琉偉、卒アル貸して」


「俺にも書けよ」


「蒼、変なこと書くなよ」


「書かねえよ」


「絶対書くじゃん」


彩音が卒業アルバムを差し出す。


「琉偉、私にも書いて」


「何を書けばいい?」


「普通でいいよ」


琉偉は少し考え、短く書いた。


『三年間ありがとう。元気で。』


彩音はそれを見て笑う。


「琉偉らしい」


蒼が覗き込む。


「短っ!」


「お前は長すぎる」


「俺のは感情があるんだよ」


「俺にもある」


「どこに?」


琉偉は無表情で言う。


「行間」


彩音が笑った。


「最後まで琉偉だね」


そんな何気ないやり取りも、今日で一区切りだった。



放課後。


校舎の外。


生徒たちは少しずつ帰り始めていた。


けれど、校門前にはまだ多くの人が残っている。


名残惜しさ。


写真。


別れの言葉。


また会おうという約束。


琉偉は校舎を出る。


そこに、聖樹と美紗都がいた。


そして少し離れた場所に、巳波が立っていた。


人目を考え、距離を取っている。


完璧だった。


けれど、琉偉には分かる。


彼女が本当は近くへ来たいこと。


自分も、近くへ行きたいこと。


それでも二人は、今は距離を守る。



「琉偉」


聖樹が声を掛ける。


「卒業おめでとう」


「ありがとうございます」


美紗都も笑う。


「おめでとう」


「これで高校生じゃなくなるんだね」


「そうですね」


「変な感じ」


「僕もです」


聖樹は少しだけ目を潤ませていた。


「今日は本当に良かった」


「来られて良かったわ」


琉偉は頷く。


「はい」


そして、ほんの少しだけ視線を動かす。


巳波がこちらを見ていた。


その目が、優しく細められる。


声は出さない。


でも口元だけが動いた。


『卒業おめでとう』


琉偉は、ほんの少しだけ頭を下げた。


『ありがとうございます』


声に出せない会話。


でも、確かに届いていた。



その直後。


また数人の生徒が巳波の方を見てざわめいた。


「やっぱり東雲巳波だよ」


「親戚って誰なんだろ」


「廣瀬と関係あるのかな」


「いや、たまたま近くにいただけじゃない?」


「でもさっき見てなかった?」


噂は消えない。


卒業式は終わった。


しかし、騒ぎはまだ終わっていなかった。


“誰が親戚なのか”


その疑問だけが、校舎と校庭に残り続けていた。


けれど――。


誰も答えには辿り着けない。


辿り着かせない。


巳波は静かに守り。


聖樹と美紗都も自然に隠し。


琉偉も表情を変えなかった。


それぞれが、同じ秘密を守っていた。



校門を出る時。


琉偉はもう一度、学校を振り返った。


三年間過ごした校舎。


友人たちの声。


卒業証書。


そして、遠くから見守ってくれた巳波。


全部が胸に残っていた。


高校生活は、今日で終わる。


だが、琉偉の人生はここから大きく変わっていく。


大学へ。


新しい日常へ。


そして、誰にも言えない夫婦生活へ。


その隣には、東雲巳波がいる。


今はまだ秘密でも。


外では親戚でも。


本当は、誰よりも近い人。


琉偉は静かに息を吸った。


そして、前を向いた。


卒業式は終わった。


けれど――。


二人の物語は、まだ始まったばかりだった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

もしこの物語に少しでも「面白い!」と感じていただけたなら——


ブックマーク & 評価★5 をぜひお願いします!


その一つひとつが、次の章を書き進める力になります。

読者の皆さまの応援が、物語の未来を動かします。


「続きが気になる!」と思った方は、ぜひ、見逃さないようブックマークを!

皆さまの応援がある限り、次の物語はまだまだ紡がれていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ