第35章「決まってしまう日… ひとつの場所へ――新しい生活が決まる夜」
数日後。
季節は少しずつ色を変え始めていた。
朝の空気が軽く感じる日もあれば、夕方になると妙に湿った風が街を包む日もある。
そのどちらにも、琉偉は少しずつ慣れ始めていた。
慣れた、というより――。
もう、迷って立ち止まる時間が少なくなっていた。
巳波と一緒に生きる。
そのために必要なことが、ひとつずつ現実になっていく。
話し合い。
確認。
物件。
契約。
家族への説明。
会社側との調整。
どれも、少し前の琉偉なら遠い世界の話に感じていたはずだった。
けれど今は違う。
自分の人生の真ん中に、それらがある。
⸻
学校。
昼休み。
食堂はいつも通り騒がしかった。
トレーを持った学生たちが行き交い、テーブルごとに笑い声が弾んでいる。
蒼はいつものようにラーメンを選んでいた。
彩音は日替わり定食。
琉偉はカレーライス。
三人は窓際の席に座っていた。
蒼が麺をすすりながら、何気ない調子で言う。
「でさ」
「もう場所とか決まったの?」
琉偉はスプーンを止めた。
少しだけ間を置いてから、頷く。
「うん、ほぼ」
彩音が目を丸くする。
「え、早くない?」
「まだこの前、話が本格的になったばかりじゃなかった?」
琉偉は静かに答える。
「もう動いてるから」
蒼は箸を止め、呆れたように笑った。
「ほんと現実のスピードじゃねえな」
「ドラマでももう少し段階踏むぞ」
彩音も苦笑する。
「でも、琉偉らしいと言えば琉偉らしいかも」
「一度決めたら、止まらないもんね」
琉偉は軽く視線を落とす。
(……もう戻れない速度だ)
そう思った。
けれど、不思議と怖さだけではなかった。
戻れない。
でも、進みたい。
その気持ちの方が強かった。
蒼が少しだけ真面目な声になる。
「で、大丈夫なのか?」
「場所とか、生活とか」
「芸能人と一緒に住むって、普通の同棲とか結婚生活と違うだろ」
彩音も静かに頷く。
「セキュリティとか、周りの目とか、移動とか……」
「普通より気を付けなきゃいけないこと、多そうだよね」
琉偉は頷いた。
「そこは、巳波さんの会社側がかなり見てくれてる」
「セキュリティも、通勤も、撮影への移動も」
「俺一人じゃ分からないことばかりだから」
蒼は少し安心したように息を吐く。
「ならいいけどさ」
「お前、真面目だから全部一人で背負いそうで怖いんだよ」
彩音も優しく言う。
「琉偉は大丈夫ってすぐ言うけど」
「大丈夫じゃない時も、ちゃんと言ってね」
琉偉は二人を見た。
昔から変わらない。
蒼は言葉が荒いようで、ちゃんと見ている。
彩音は柔らかいようで、核心を突いてくる。
「分かってる」
琉偉は小さく答えた。
「無理はしない」
蒼がラーメンをすすりながら笑う。
「その言葉、録音しとくか」
彩音も微笑む。
「巳波さんにも送っておいた方がいいかも」
「やめて」
琉偉が即答すると、二人は笑った。
けれど、その笑いの奥にある心配も、琉偉にはちゃんと伝わっていた。
⸻
その頃。
株式会社龍雷神。
上層階の会議室。
大きな窓の向こうには、都心の景色が広がっていた。
テーブルの上には、複数の物件資料。
間取り図。
周辺地図。
セキュリティ説明書。
移動経路。
管理会社からの報告書。
そして、芸能活動上のリスク管理資料。
巳波はその一つ一つに目を通していた。
向かいには、龍雷神の関係者たち。
優斗は書類を見ながら言う。
「この物件でいいのか」
巳波は資料を見つめたまま、ゆっくり頷いた。
「はい」
「ここなら、仕事にも支障がありません」
「駅からの距離も近すぎず遠すぎず」
「車移動もしやすいです」
横にいた優介が資料を覗き込む。
「セキュリティは問題なし」
「エントランス、エレベーター、各階認証」
「管理人常駐」
「防犯カメラも多い」
「芸能人が住むにはかなり条件が良い」
雷斗も補足する。
「撮影移動も問題ありません」
「都内の主要スタジオにも出やすいですし、横浜方面の仕事にも対応できます」
「何より、出入りの導線が分かりにくい」
「マスコミ対策としても悪くありません」
巳波はもう一度、間取り図を見る。
そこには、まだ誰も住んでいない空間が描かれていた。
リビング。
寝室。
書斎。
防音室。
広めのキッチン。
小さなバルコニー。
そこに、琉偉との生活が重なる。
朝食を作る琉偉。
配信部屋にこもる自分。
帰ってきて「ただいま」と言う声。
一緒に食べる夕飯。
夜、隣で眠る温度。
それらが、ただの想像ではなくなる。
優斗が静かに言う。
「迷いはあるか」
巳波は少しだけ目を伏せた。
「あります」
会議室の空気が少し止まる。
巳波は続けた。
「怖くないと言ったら嘘になります」
「私の仕事のこともあります」
「世間に知られた時のことも」
「琉偉さんの生活が変わってしまうことも」
「全部、簡単じゃないと思っています」
雷斗は何も言わずに聞いていた。
巳波は顔を上げる。
「でも」
「それでも、私は琉偉さんと暮らしたいです」
「仕事から帰った時に、同じ場所へ帰りたい」
「おはようと、おやすみを、同じ家で言いたい」
「だから、この物件でお願いします」
その声には、安堵よりも覚悟があった。
優斗はしばらく巳波を見つめていた。
そして、ゆっくり頷く。
「……決まりだな」
その言葉で、空気が一気に“確定”へ傾いた。
雷斗が資料をまとめる。
「では、契約手続きに入ります」
「引っ越し時期は、仕事スケジュールと照らし合わせて調整します」
優介も頷いた。
「琉偉側の生活導線も確認しておく」
「学校、買い物、移動」
「不自然な動きが出ないようにする」
巳波は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
優斗は静かに言った。
「礼を言うのはまだ早い」
「生活は、始めるより続ける方が難しい」
「だが」
「覚悟があるなら、周りは支える」
巳波は小さく頷いた。
「はい」
⸻
夜。
琉偉の家。
リビング。
家族が揃っていた。
父・優斗。
母・聖樹。
兄・優介。
姉・美紗都。
そして琉偉。
すでに何度か重ねてきた話だった。
けれど、今日は少し違う。
もう、仮の話ではない。
住む場所が決まった。
その事実が、リビングの空気を少し重くしていた。
母・聖樹が、静かに口を開く。
「本当にそこに住むの?」
琉偉は頷く。
「はい」
聖樹は少しだけ寂しそうに笑った。
「分かっていたつもりなんだけどね」
「実際に場所が決まったって聞くと、やっぱり違うものね」
姉・美紗都がため息をつく。
「もう止まらない感じだね」
兄・優介は軽く笑う。
「止める気もないだろ」
美紗都は優介を見る。
「止めないよ」
「でも、寂しいものは寂しいでしょ」
「琉偉が家を出るんだよ」
優介は少し黙った。
「まあ、それはそうだな」
父・優斗は、テーブルの上に置かれた資料を見ていた。
そして静かに言う。
「条件は一つだ」
空気が少し締まる。
琉偉は姿勢を正した。
「はい」
優斗は琉偉を見た。
「無理をするな」
琉偉は一瞬だけ目を伏せる。
そして言う。
「分かっています」
優斗は続ける。
「彼女を支えることは大事だ」
「だが、お前自身が壊れては意味がない」
「学校もある」
「自分の人生もある」
「夫として背負うものが増えるのは当然だが、全部を一人で抱えるな」
琉偉はゆっくり頷いた。
「はい」
聖樹がそっと言う。
「巳波さんは、きっとあなたに頼ることもあると思う」
「でも、あなたも巳波さんに頼っていいのよ」
「夫婦って、片方だけが支えるものじゃないから」
美紗都も頷く。
「そうそう」
「琉偉って、すぐ真面目に受け止めるから」
「巳波さんの前でもちゃんと弱音吐きなよ」
優介が笑う。
「お前、弱音を吐く前に解決しようとする癖あるしな」
琉偉は少し困ったように笑った。
「気を付けます」
聖樹は少し寂しそうに微笑む。
「ほんとに遠くへ行っちゃうみたいね」
琉偉はすぐに返した。
「遠くじゃないです」
「ちゃんと帰れる場所です」
その言葉で、少しだけ空気が柔らかくなる。
聖樹は目を細めた。
「……そうね」
「ここは、あなたの帰る場所でもあるものね」
「はい」
「何かあったら帰ってきます」
美紗都が少し笑う。
「何もなくても帰ってきなさいよ」
「たまには顔出しなよ」
優介も言う。
「飯くらい食いに来い」
「母さん、絶対待ってるから」
聖樹は少し照れたように笑った。
「待ってるわよ」
琉偉は家族を見渡した。
この家で育った。
静かな朝も。
騒がしい夜も。
怒られた日も。
褒められた日も。
全部、この家にある。
ここを離れることは、巳波のもとへ行くことと同じくらい、大きなことだった。
「ありがとうございます」
琉偉は静かに頭を下げた。
「ちゃんと、頑張ります」
優斗は短く言った。
「頑張りすぎるな」
その一言に、リビングの全員が少し笑った。
⸻
その夜。
巳波の部屋。
段ボールが一つ置かれている。
まだ中身は少ない。
お気に入りの本。
配信用の小物。
数枚の写真。
メイク道具の予備。
新しい生活へ持っていくものを、少しずつ選び始めていた。
けれど、箱の中身よりも、心の中の方が整理に時間がかかっていた。
スマートフォンが鳴る。
表示は――琉偉。
巳波はすぐに通話を取った。
「もしもし」
『もしもし』
いつもの声。
それだけで、少し落ち着く。
琉偉が言う。
『決まりました』
巳波は目を閉じる。
少しの間。
そして。
「そっか」
声は静かだった。
でも、確かに揺れていた。
『家族にも話しました』
「……大丈夫だった?」
『はい』
『寂しそうでしたけど』
『でも、応援してくれました』
巳波は胸が少し熱くなる。
「そっか」
「よかった」
琉偉は続ける。
『父からは、無理をするなと言われました』
巳波は小さく笑う。
「お父さんらしいね」
『母からは、ちゃんと頼り合いなさいと』
「それも、すごく分かる」
『姉と兄からは、たまには帰ってこいと言われました』
巳波は優しく言った。
「帰ろうね」
「ちゃんと」
「琉偉の家は、琉偉の大事な場所だから」
電話の向こうで、琉偉が少し黙る。
『はい』
『ありがとうございます』
巳波は段ボールの中を見る。
まだ何も始まっていない。
でも、もう始まっている。
『じゃあ』
琉偉が続ける。
『もうすぐですね』
巳波はゆっくり息を吐いた。
「うん」
沈黙。
でもその沈黙は、もう不安ではない。
“始まりの前の静けさ”。
それだけだった。
巳波が小さく言う。
「ねぇ、琉偉」
『はい』
「新しい家でさ」
『はい』
「最初の朝ごはん、何食べたい?」
琉偉は少し考えた。
『味噌汁と卵焼きです』
巳波は笑った。
「普通だね」
『普通がいいです』
『巳波さんと普通の朝を迎えたいです』
巳波は目を細める。
「……そっか」
「じゃあ、作る」
『一緒に作りましょう』
「うん」
「一緒に」
しばらくして、巳波が小さく言う。
「おやすみ」
琉偉も返す。
『おやすみなさい』
『また明日』
「また明日」
通話終了。
画面が暗くなる。
巳波はスマートフォンを胸に抱えた。
そして、部屋の隅に置かれた段ボールを見た。
まだ一つ。
でも、そこから新しい生活が始まる。
それぞれの生活が、ひとつの場所へ収束していく音だけが、静かに続いていた。
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