第29章「玄関の向こう側」
高校の卒業式まで、まだ少し時間はある。
それでも――季節は確実に“終わり”へ向かっていた。
冬の冷たさが少しずつ和らぎ、夜の空気の奥に、ほんのわずかだけ春の気配が混じり始めている。
卒業。
進学。
新生活。
別れ。
出会い。
その言葉が、学校の廊下にも、家庭の中にも、少しずつ現実味を帯びてきていた。
琉偉の足音は、どこか落ち着かなかった。
⸻
夜の居間――リビング。
照明は少しだけ明るすぎるくらいだった。
普段ならテレビがついている時間。
母が台所で湯呑みを用意し、父が新聞を読み、姉がスマートフォンを見ながら文句を言い、兄が何気なくソファに座っている。
そんな、いつもの夜。
けれど今日は違った。
テレビは消されている。
音がない。
家族五人。
父・優斗。
母・聖樹。
姉・美紗都。
兄・優介。
そして琉偉。
全員が同じ空間にいるのに、誰も多くは話さない。
ただ、空気だけが重い。
重いというより、張り詰めていた。
まるで、玄関の向こうからやって来る誰かを待つためだけに、家全体が息を止めているようだった。
⸻
母が小さく言う。
「……本当に来るの?」
琉偉は頷く。
「うん」
短い返事。
それ以上の言葉は出てこなかった。
来る。
本当に来る。
東雲巳波が。
テレビや雑誌で見る、あの東雲巳波が。
自分の家に。
家族へ会うために。
その現実が、琉偉自身にもまだ少し信じられなかった。
⸻
姉・美紗都が腕を組む。
「芸能人が家に来るとか意味わかんないんだけど」
「……まぁな」
琉偉は苦笑するしかない。
美紗都は不機嫌そうに見えた。
けれど本当は、不機嫌というより戸惑っているのだと琉偉には分かった。
弟が、いきなり有名人と人生を共にしたいと言い出した。
それを普通に受け止めろという方が難しい。
兄・優介は黙ったまま時計を見ている。
さっきから何度も同じ時計を見ている。
壁掛け時計。
秒針の音だけが、やけに大きい。
⸻
父・優斗が低い声で言う。
「逃げ道はあるんだぞ」
その言葉に、琉偉は一瞬だけ止まる。
逃げ道。
つまり、今なら引き返せるという意味だった。
家族に会わせる前なら。
正式に向き合う前なら。
世間に出る前なら。
まだ、何もなかったことにできるかもしれない。
そういう意味だった。
でも、琉偉はすぐに首を振った。
「逃げない」
声は大きくなかった。
けれど、はっきりしていた。
「僕が決めたことだから」
「巳波さんだけに背負わせるつもりはない」
父・優斗は琉偉をじっと見た。
その目は厳しかった。
だが、怒っているわけではなかった。
息子がどこまで本気なのかを、確かめている目だった。
⸻
沈黙。
⸻
母が小さく息を吐く。
「……どんな顔で来るのかしらね」
琉偉はその言葉に何も返さない。
でも、分かっている。
“普通の顔”ではない。
けれど“特別すぎる顔”でもない。
きっと彼女は、東雲巳波としてではなく、一人の女性として来る。
そのはずだった。
その時。
スマホが震える。
巳波。
『もうすぐ着く』
短いメッセージ。
それだけで心臓が少し跳ねる。
琉偉は画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
「……来る」
家族全員の視線が集まる。
⸻
玄関。
全員が移動する。
靴音だけが響く。
リビングの明かりが後ろに残る。
玄関だけが少し暗い。
廊下の空気がひんやりしていた。
琉偉が先に立つ。
その後ろに家族四人。
父が低く言う。
「……礼儀は忘れるな」
「分かってる」
母は手を胸の前で握っている。
姉は腕を組み直す。
兄は無言で立っている。
そして――。
ピンポン。
玄関のチャイム。
一度だけ。
でも、やけに大きく響く。
時間が止まる。
琉偉が一歩前に出る。
ドアノブに手をかける。
(……ここだ)
深呼吸。
そして――。
扉を開けた。
⸻
「こんばんは」
静かな声だった。
そこに立っていたのは――。
東雲巳波。
長い黒髪を下ろし、テレビや雑誌で見るような華やかな衣装ではなく、落ち着いたベージュのロングコートに白のニット、紺色のロングスカートという私服姿だった。
派手さはない。
けれど。
その場に立った瞬間、空気が変わるほどの存在感だけは隠せなかった。
テレビの向こう側にいる人。
ステージの上で光を浴びる人。
雑誌の表紙で微笑む人。
その全ての印象を持ちながら、今ここにいる巳波は、驚くほど静かだった。
その隣には、専属マネージャーの筒香雷斗が立っていた。
雷斗も深々と頭を下げる。
「夜分遅くに失礼いたします」
「東雲巳波の専属マネージャーをしております、筒香雷斗と申します」
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
⸻
数秒。
誰も言葉を発しなかった。
玄関には静寂だけが流れる。
巳波はゆっくりと頭を下げた。
「改めまして――」
「Lumière☆Bloomの東雲巳波です」
「本日は突然お時間をいただき、本当にありがとうございます」
「どうぞよろしくお願いいたします」
深い礼。
芸能人としてではない。
一人の人間として。
誠実さだけが伝わってくる挨拶だった。
母・聖樹が、思わず小さく呟く。
「……綺麗」
隣にいた美紗都が小声で言う。
「お母さん」
「今それ言う?」
「だって……本当に綺麗なんだもの」
琉偉は少しだけ頬を赤くした。
巳波も聞こえていたのか、ほんの少しだけ照れたように目を伏せる。
父・優斗は数秒間巳波を見つめた後、静かに言った。
「寒いでしょう」
「どうぞ中へ」
「ありがとうございます」
巳波は再び一礼した。
「失礼いたします」
⸻
リビング。
先ほどまで重苦しかった空気は、別の意味で緊張感に包まれていた。
テーブルを挟んで座る。
琉偉と巳波。
その向かいには父・優斗と母・聖樹。
少し離れた場所に兄・優介と姉・美紗都。
そして雷斗は少し後ろの席へ座った。
雷斗はあくまで付き添いとして控えている。
主役は巳波と琉偉。
それを分かっているからこそ、必要以上に口を挟まない姿勢だった。
母・聖樹がお茶を出す。
手が少し震えていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
巳波は両手で湯呑みを受け取る。
その所作が丁寧で、美紗都がまた小さく息を漏らした。
「……ちゃんとしてる」
優介が小声で返す。
「当たり前だろ」
「芸能人だからっていうか、大人だし」
「でもさ」
「テレビで見る人がうちの湯呑み持ってるの変じゃない?」
「分かる」
兄妹の小声のやり取りに、琉偉は内心で少しだけ力が抜けた。
⸻
沈黙。
最初に口を開いたのは父だった。
「まず、聞かせてください」
「なぜ、うちの息子だったんですか」
単刀直入だった。
琉偉が一瞬顔を上げる。
しかし巳波は迷わなかった。
「好きになったからです」
即答だった。
優斗の眉が少しだけ動く。
「芸能人だから、とか」
「年下だから、とか」
「そういう理由ではなく?」
巳波は首を横に振る。
「違います」
「私は最初、琉偉くんを一人のファンとして知りました」
「でも、話を重ねるうちに気付いたんです」
「この人は、私が芸能人である前に、一人の人間として見てくれているんだって」
巳波は琉偉を見た。
「嬉しかったんです」
「すごく」
「東雲巳波ではなく」
「ただの私として笑ってくれる人がいることが」
琉偉は何も言えなかった。
ただ、隣で巳波の横顔を見ていた。
⸻
母・聖樹が静かに聞く。
「芸能界のお仕事は大変でしょう?」
「はい」
「すごく大変です」
「楽しいこともたくさんあります」
「応援してくださる方の声に救われることもあります」
「でも、ずっと見られている世界でもあります」
「笑っていないといけない時もあります」
「弱っている顔を見せられない時もあります」
「だからこそ、帰る場所が欲しかった」
「安心できる場所が欲しかった」
「その場所が、私にとって琉偉くんでした」
聖樹は黙っていた。
その言葉を、母親として受け止めているようだった。
⸻
次に兄・優介が初めて口を開いた。
「失礼かもしれませんけど」
「本気なんですか?」
「芸能人って、簡単に別れたり、結婚したりするイメージがあるので」
雷斗が反応しかけた。
しかし。
巳波が静かに手で制した。
「当然の質問だと思います」
「だから、はっきり言います」
巳波は真っ直ぐ優介を見た。
「私は琉偉くんと生きていく覚悟でここに来ました」
「仕事がどうなろうと」
「世間に何を言われようと」
「この先、何十年経っても」
「その覚悟だけは変わりません」
リビングが静まり返る。
優介は少し目を伏せた。
「……すみません」
「変な聞き方して」
巳波は首を横に振った。
「いいえ」
「ご家族なら、不安になるのは当然です」
「私が逆の立場でも、きっと同じことを聞きます」
その答えに、優介は少しだけ表情を緩めた。
⸻
姉・美紗都が腕を組んだまま聞いた。
「じゃあ質問」
「弟のどこが好きなの?」
琉偉が慌てて声を上げる。
「姉ちゃん!」
「いいじゃん別に」
美紗都はじっと巳波を見ていた。
試すような目だった。
しかし巳波は少し笑った。
「いっぱいあります」
「優しいところ」
「真面目なところ」
「ご飯をちゃんと食べるように言ってくれるところ」
「疲れている時に何も聞かず隣にいてくれるところ」
「私が仕事で落ち込んだ時に、無理に励まさず、ただ隣で待っていてくれるところ」
「自分の勉強や将来も大切にしながら、私のことも真剣に考えてくれるところ」
「あと」
少しだけ笑う。
「私がどんなに落ち込んでいても、最後には必ず前を向かせてくれるところです」
琉偉は完全に顔を赤くした。
「……やめてよ」
「本当だから」
美紗都は、しばらく黙って巳波を見る。
そして、ふっと息を吐いた。
「……反則」
「そんな真っ直ぐ言われたら、こっちが何も言えないじゃん」
母・聖樹は小さく微笑んでいた。
「ねぇ、琉偉」
「あなた、こんな顔できたのね」
「え?」
「今、とても幸せそうよ」
琉偉は言葉に詰まる。
確かに、家族の前でこんな顔をしたことはなかったかもしれない。
いつもどこか淡々としていて、感情を表に出すのが得意ではなかった。
でも今は、隣に巳波がいる。
それだけで、隠せないものがあった。
⸻
父・優斗はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「正直に言います」
「最初は反対でした」
巳波は背筋を伸ばす。
琉偉も唇を結ぶ。
「今も不安がないわけじゃない」
「芸能界という世界も分からない」
「年齢差もある」
「世間の目もある」
「高校を卒業する前の息子が、これほど大きな覚悟を口にしていることにも、親として戸惑いはあります」
優斗は一度言葉を切った。
そして、巳波を見た。
「ですが」
「あなたの話を聞いて安心しました」
「少なくとも、軽い気持ちではないと分かりました」
巳波の目が少し潤む。
優斗は続ける。
「息子をよろしくお願いします」
巳波は勢いよく頭を下げた。
「はい!」
「必ず幸せにします!」
その瞬間。
張り詰めていた空気が、一気に柔らかくなった。
美紗都が呟く。
「なんかもう、応援したくなってきた」
優介も苦笑する。
「俺も」
母・聖樹は立ち上がる。
「せっかくだから、お茶でも飲みましょう」
「芸能人のお話も聞きたいし」
「お母さん!」
「だって気になるじゃない」
リビングに、ようやく笑い声が生まれた。
その様子を見ながら。
琉偉は静かに思った。
(ああ)
(本当に来てくれたんだ)
(そして――)
(家族になっていくんだ)
⸻
その後、聖樹は台所へ向かい、急須に新しいお茶を淹れ直した。
美紗都も、さっきまでの警戒した態度が少しだけ崩れ、巳波の向かいに座り直す。
「じゃあさ」
「本当に聞いていい?」
巳波は微笑んだ。
「はい」
「答えられる範囲で」
美紗都は少し身を乗り出す。
「テレビとかライブって、やっぱりすごく大変なの?」
「大変です」
「でも、すごく楽しいです」
「ファンの方の声が聞こえた瞬間に、疲れが消えることもあります」
「ただ、終わった後に一気に力が抜けることもあります」
「へぇ……」
美紗都は素直に感心したようだった。
「じゃあ、弟って役に立ってる?」
琉偉はまた顔を上げる。
「姉ちゃん!」
巳波は笑う。
「すごく」
「琉偉くんがいてくれるから、私は頑張れます」
美紗都は少しだけ照れたように腕を組み直した。
「……そっか」
「ならいいけど」
優介も聞いた。
「マネージャーさんから見ても、本気なんですか?」
雷斗は静かに姿勢を正した。
「はい」
「私は東雲巳波の仕事を管理する立場です」
「正直に申し上げれば、最初は驚きました」
「ただ、彼女が廣瀬琉偉さんと向き合う時の表情を見て、これは一時的な感情ではないと分かりました」
「琉偉さんもまた、彼女を芸能人としてではなく、一人の人間として支えようとしてくださっている」
「マネージャーとしても、そこは信頼しています」
優斗は雷斗を見る。
「仕事面で問題は?」
「あります」
雷斗は隠さず答えた。
「世間に知られれば、少なからず影響は出ます」
「事務所としても慎重に扱う必要があります」
「ただ、だからこそ今は公にせず、限られた人間だけで支える形を取っています」
「隠すというより、守るためです」
その言葉に、優斗は静かに頷いた。
「分かりました」
⸻
聖樹が戻ってくる。
お茶と一緒に、小さな菓子皿が置かれた。
「大したものじゃないけど」
「ありがとうございます」
巳波は丁寧に頭を下げる。
聖樹はその様子を見ながら、ふと柔らかい声で言った。
「不思議ね」
「さっきまで、どんな人が来るのか不安で仕方なかったのに」
「今は、もっと話してみたいと思っているわ」
巳波は少し驚いたように顔を上げる。
「ありがとうございます」
聖樹は琉偉を見る。
「琉偉」
「あなたが選んだ人なのね」
琉偉は静かに頷いた。
「うん」
「僕が選んだ人」
そして、巳波を見る。
「それに」
「僕を選んでくれた人」
巳波の目がわずかに揺れる。
美紗都が小さく言う。
「なにそれ」
「普通に良いこと言うじゃん」
優介も苦笑した。
「弟が急に大人に見えるな」
琉偉は少し照れたように目を逸らす。
⸻
やがて話題は、卒業後のことへ移っていった。
父・優斗が言う。
「高校を卒業した後のことは、どう考えている?」
琉偉が答える。
「進学は予定通りする」
「勉強も続ける」
「巳波さんとのことがあっても、そこは変えない」
巳波も続けた。
「私も、それを望んでいます」
「琉偉くんには、琉偉くん自身の人生を大切にしてほしいです」
「私のために何かを諦めてほしくありません」
優斗は巳波を見る。
「あなたは忙しいでしょう」
「一緒に過ごす時間も限られるのでは?」
「はい」
「きっと限られます」
「だからこそ、会える時間を大切にします」
「連絡もします」
「無理に毎日会おうとするのではなく、お互いの生活を守りながら一緒にいる方法を探します」
聖樹が静かに聞く。
「寂しくはないの?」
巳波は少しだけ笑った。
「寂しいと思います」
「でも、寂しいからこそ大切にできる時間もあると思っています」
「それに」
「琉偉くんは、私を不安にさせない人です」
琉偉は小さく息を呑んだ。
その言葉が嬉しくて、少しだけ胸が痛かった。
⸻
夜は少しずつ深まっていった。
最初の緊張は、完全には消えない。
けれど、そこにあった重さはもう違っていた。
警戒ではなく、確認。
不安ではなく、理解しようとする空気。
そんなものへ変わっていた。
美紗都は最後に、巳波へ言った。
「弟、たぶん不器用ですよ」
「はい」
「知っています」
「でも、優しいです」
「それも知っています」
「じゃあ」
美紗都は少しだけ笑った。
「泣かせないでください」
巳波は真剣に頷く。
「はい」
「大切にします」
優介も言った。
「困った時は、ちゃんと家族にも言ってください」
「芸能界のことは分からないけど」
「琉偉のことなら、俺たちも家族なので」
巳波は深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
聖樹は、そんな巳波を見ながら静かに言った。
「いつかまた、普通にご飯を食べに来てください」
巳波は一瞬だけ目を見開いた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
「ぜひ」
優斗は最後に、琉偉へ視線を向ける。
「琉偉」
「はい」
「自分で選んだ道だ」
「相手に守ってもらうだけではなく、お前も守れ」
琉偉はまっすぐ父を見た。
「分かってる」
「僕が守る」
父は短く頷いた。
「ならいい」
⸻
帰り際。
玄関。
巳波はもう一度、家族全員へ深く頭を下げた。
「本日は本当にありがとうございました」
「突然のことで驚かせてしまって、申し訳ありませんでした」
「でも、こうしてお話しできて、本当に良かったです」
優斗が言う。
「こちらこそ」
「来てくれてありがとう」
聖樹も微笑んだ。
「寒いから気を付けて」
美紗都が少し照れながら言う。
「また来てください」
優介も頷く。
「今度はもう少し普通に話せると思います」
巳波は笑った。
「はい」
「ありがとうございます」
琉偉が巳波を玄関の外まで見送る。
冷たい夜風が頬を撫でた。
雷斗は少し離れた場所で待っている。
巳波は琉偉を見上げた。
「緊張した……」
「僕も」
「でも、来て良かった」
「ありがとう」
「巳波さんが来てくれたから」
「家族にもちゃんと伝わったと思う」
巳波は少しだけ目を潤ませる。
「琉偉くん」
「はい」
「私、本当に琉偉くんと家族になりたい」
琉偉は静かに頷いた。
「僕もです」
家の中からは、家族の気配がする。
玄関の向こうには、新しい現実がある。
それでも、二人は確かに同じ場所に立っていた。
巳波は小さく笑った。
「今日はキス、我慢だね」
琉偉も少しだけ笑う。
「家族が中にいますから」
「うん」
「でも、手だけ」
巳波はそっと琉偉の手を握った。
短い時間。
それだけで十分だった。
雷斗が静かに声を掛ける。
「東雲さん、そろそろ」
「はい」
巳波は手を離す。
「また連絡するね」
「待っています」
「おやすみ、琉偉くん」
「おやすみなさい、巳波さん」
巳波は車へ向かう。
乗り込む直前、もう一度振り返った。
琉偉は玄関前に立っていた。
その姿を見て、巳波は小さく手を振る。
琉偉も手を振り返した。
車が静かに走り出す。
夜の道へ消えていく。
琉偉はしばらくその場に立っていた。
寒さも忘れて。
ただ、胸の奥に温かいものが残っていた。
⸻
家の中へ戻ると、リビングには家族がまだ集まっていた。
美紗都が真っ先に言った。
「……良い人じゃん」
優介も頷く。
「思ってたより、ずっと真面目だった」
聖樹は湯呑みを片付けながら微笑む。
「綺麗で、礼儀正しくて」
「でも、それ以上に」
「琉偉を本当に大切に思っているのが分かったわ」
父・優斗はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「琉偉」
「はい」
「簡単な道ではない」
「今日、認めたからといって、何もかも安心というわけではない」
「世間の目もある」
「年齢差もある」
「彼女の仕事もある」
「お前自身の将来もある」
琉偉は頷く。
「分かってる」
優斗は琉偉を見た。
「それでも行くのか」
琉偉は迷わず答えた。
「行く」
「逃げないって言ったから」
優斗は、ほんの少しだけ笑った。
「なら、最後まで責任を持て」
「はい」
聖樹が優しく言う。
「困ったら話しなさい」
「一人で抱え込まないこと」
「うん」
美紗都が指を差す。
「あと、あんな綺麗な人泣かせたら許さないから」
「分かってる」
優介も笑う。
「姉ちゃん、もう完全に味方じゃん」
「うるさい」
リビングに笑いが戻った。
それは、ほんの少し前まで想像できなかった笑いだった。
⸻
高校卒業まで、あと少し。
けれど、この夜。
廣瀬家にとっても。
東雲巳波にとっても。
そして琉偉にとっても。
忘れることのできない、特別な夜が始まったのだった――。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
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