第28章「夕飯のテーブルと、告白」
夜。
食卓には、いつも通りの夕飯が並んでいた。
味噌汁の湯気。
焼き魚の匂い。
白いご飯。
小鉢に盛られたほうれん草のお浸し。
テレビからはニュース番組の音。
何も変わらない、“普通の家庭の夜”。
けれど、廣瀬琉偉の胸の中だけは、まったく普通ではなかった。
⸻
父・優斗が箸を動かしながら言う。
「最近、学校どうなんだ?」
「普通」
琉偉は短く答える。
母・聖樹が少し笑う。
「普通が一番よ」
姉・美紗都はスマホを見ながら軽く相槌を打つ。
「大学って、普通って言える時期が一番平和だからね」
兄・優介は黙って食べている。
いつも通り。
本当に、いつも通りだった。
父は仕事の疲れを少し残した顔で味噌汁を飲み、母は家族の食べる速度を見ながら小鉢を勧める。
姉はスマホを時々確認しながらも、食卓の話にはちゃんと反応する。
兄はあまり喋らないが、家族の会話を聞いていないわけではない。
その全部が、琉偉にとっては見慣れた光景だった。
だからこそ。
この光景を、自分の言葉で壊すことになるかもしれないと思うと、箸を持つ手が少し重くなった。
⸻
(……今だ)
琉偉は箸を置く。
カタン。
その音が、思ったより大きく響いた。
食卓の空気が、ほんの少しだけ変わる。
「……あの」
その一言で、家族全員の視線が琉偉へ向いた。
⸻
父・優斗が顔を上げる。
「どうした」
母・聖樹も琉偉を見る。
「何かあったの?」
姉・美紗都もスマホから目を離した。
兄・優介も、黙ったまま箸を置く。
⸻
一瞬の沈黙。
テレビのニュース音だけが、遠くで流れている。
琉偉は息を吸った。
胸の奥で、心臓が強く鳴っていた。
言えば戻れない。
言わなければ、ずっと隠し続けることになる。
でも。
もう、言うと決めていた。
⸻
「……俺」
言葉が少しだけ詰まる。
それでも、琉偉は目を逸らさなかった。
父の顔。
母の顔。
姉の顔。
兄の顔。
一人ずつ見てから、はっきりと言った。
⸻
「結婚してる」
⸻
一瞬。
空気が完全に止まった。
箸の音もない。
食器の音もない。
誰も動かない。
テレビの音だけが、急に遠くなった。
⸻
「……は?」
最初に声を落としたのは、父・優斗だった。
低く、短く。
驚きというより、言葉の意味を理解できない声だった。
⸻
「結婚……?」
母・聖樹が目を瞬かせる。
「誰と?」
その声は震えてはいなかった。
けれど、明らかに現実を探っている声だった。
⸻
姉・美紗都が、笑いかけて止まる。
「ちょっと待って」
「冗談だよね?」
「そういうドッキリ?」
兄・優介は何も言わない。
ただ、琉偉の顔をじっと見ていた。
⸻
琉偉はもう一度、はっきり言う。
「……東雲巳波さんと」
⸻
その名前で。
空気が完全に変わった。
⸻
「……え?」
母の声が小さく漏れる。
「東雲って……あの?」
姉がスマホを握る手を止める。
「東雲巳波って……」
「Lumière☆Bloomの?」
父が眉をひそめる。
「……グラビアの?」
「うん」
琉偉は短く頷いた。
「その東雲巳波さん」
⸻
沈黙。
長い沈黙。
家族の誰もが、それぞれの中で言葉を処理しようとしていた。
“結婚している”。
“東雲巳波”。
“芸能人”。
“グラビア”。
“アイドル”。
“琉偉”。
その全部が、普通の食卓にはあまりにも不釣り合いだった。
⸻
兄・優介が初めて口を開く。
「……本気か?」
「本気」
琉偉は即答した。
兄は琉偉の目を見たまま、数秒黙る。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「冗談じゃない顔だな」
「うん」
「冗談じゃない」
⸻
父がゆっくり息を吐く。
「いつからだ」
琉偉は一瞬迷う。
でも、嘘はつかない。
「最初は……ファンだった」
「……ファン?」
母が聞き返す。
「うん」
「中学生くらいから、ずっと」
「テレビとか配信とか、雑誌とか」
「ずっと見てた」
姉・美紗都が眉を寄せる。
「それは知ってたけど」
「好きな芸能人って意味でしょ?」
「そこからどうやって結婚になるの?」
⸻
「そこから……流れで」
琉偉の言葉が、少し曖昧になる。
その瞬間、姉が思わず口を挟む。
「流れで結婚って何!?」
「普通、流れで行くのってせいぜい連絡先交換くらいでしょ!」
「結婚まで流れちゃ駄目でしょ!」
母も呆然としている。
「交際していたの?」
「どれくらい?」
琉偉は目を逸らさない。
「交際なしで結婚した」
⸻
再び沈黙。
今度の沈黙は、さっきよりさらに重かった。
⸻
父・優斗が低く言う。
「現実的に考えているのか」
「考えてる」
琉偉は即答した。
「相手は芸能人だぞ」
「知ってる」
「世間に知られたらどうなるか分かっているのか」
「分かってる」
「お前だけの問題じゃない」
「相手の仕事にも関わる」
「家族にも関わる」
「分かってる」
父の眉間に皺が寄る。
「分かっているなら、なぜそんな大事なことを今まで黙っていた」
琉偉は少しだけ俯く。
「言えなかった」
「言えば、驚かせるって分かってた」
「信じてもらえないと思った」
「それに……」
「巳波さんの仕事を守りたかった」
⸻
母・聖樹が少し震えた声で言う。
「……そんな人が、本当に結婚なんて」
「してる」
琉偉は静かに言う。
「ちゃんと」
「お互いに納得して」
「ふざけてない」
「夢を見てるわけでもない」
「俺は、本気で巳波さんと夫婦でいる」
⸻
兄・優介が一言だけ落とす。
「……証拠は」
姉・美紗都が兄を見る。
「優介」
「いや、必要だろ」
兄は冷静だった。
「芸能人相手だ」
「弟が本気で言ってるのは分かる」
「でも、家族として確認しないわけにはいかない」
「写真を出せとは言わない」
「でも、何かあるのか」
琉偉はスマホを取り出す。
写真は出さない。
夫婦の写真は、誰にも見せるつもりはなかった。
それは二人だけのものだから。
その代わり、通話履歴とメッセージ画面の名前だけを見せる。
『東雲巳波』
毎晩の通話履歴。
短いメッセージ。
『おはよう』
『今日も無理しないでね』
『お疲れ様』
『電話できる?』
『大好き』
姉・美紗都の表情が変わる。
母・聖樹は口元を押さえる。
父・優斗も、画面を見たまましばらく黙った。
⸻
沈黙。
⸻
姉・美紗都が小さく呟く。
「……ほんとに?」
琉偉は頷く。
「うん」
「本当に、俺の妻」
⸻
空気が重くなる。
けれど、その重さは拒絶ではなかった。
混乱。
驚愕。
不安。
理解が追いつかない現実。
それだけだった。
⸻
父がゆっくり椅子に背を預ける。
「……理解が追いつかん」
母は口元を押さえたまま、目を伏せる。
「そんな……」
「巳波さんが……琉偉と……」
姉・美紗都はスマホを置いた。
「いや、待って」
「聞きたいことが多すぎる」
「どこで会ったの?」
「どうやって結婚したの?」
「相手の事務所は知ってるの?」
「相手の家族は?」
「うち以外で誰が知ってるの?」
「そもそも年齢差とか、生活とか、将来とか――」
「美紗都」
父が静かに止める。
「一度に聞くな」
姉は口を閉じた。
けれど、混乱しているのは全員同じだった。
⸻
でも、誰も“否定”はしない。
ただ“現実が信じられない”だけ。
⸻
琉偉は続ける。
「まだ公にはしてない」
「秘密の結婚」
その言葉で、少しだけ現実味が出る。
父の表情が変わる。
「秘密、か」
「うん」
「だから、絶対に外には言わないでほしい」
「友達にも」
「親戚にも」
「SNSにも」
「誰にも」
「巳波さんの仕事を壊したくない」
「俺たちの生活も守りたい」
兄・優介が静かに言う。
「危ない関係じゃないのか」
「違う」
琉偉は即答する。
「ちゃんと話してる」
「ちゃんと大切にしてる」
「隠してるのは、やましいからじゃない」
「守るため」
父が琉偉を見る。
「相手は、お前を本当に大切にしているのか」
「してくれてる」
「俺も、大切にしてる」
母がぽつりと聞く。
「巳波さんは……幸せなの?」
琉偉は少しだけ表情を柔らかくした。
「少なくとも」
「俺は、幸せにしたいと思ってる」
「それだけは絶対に本気」
⸻
姉がぽつりと呟く。
「……巳波さんって、あのYouTubeの?」
「うん」
「最近、メイク配信してた?」
「見たの?」
「たまたまおすすめに出てきた」
姉は信じられないという顔で言う。
「あの人が……義妹?」
「いや、年上だけど」
「関係性が意味分からない」
琉偉は少しだけ困ったように笑う。
「俺も最初は、自分でも信じられなかった」
⸻
一気に“別の現実”が重なる。
テレビで見る人。
スマホ画面の中にいる人。
雑誌の表紙の人。
ライブで歓声を浴びる人。
その人が、琉偉の妻。
家族にとっては、あまりにも遠い存在だった人が、突然“身内”という言葉の近くへ来てしまった。
⸻
母がようやく小さく息を吐く。
「……信じられない」
「でも」
母は琉偉を見る。
「あなたが嘘をつく顔じゃないのは分かる」
父が静かに言う。
「少し時間をくれ」
琉偉は頷く。
「うん」
父は続けた。
「今日はこれ以上、感情で話すのはやめる」
「お前も、俺たちも、整理が必要だ」
「ただ、一つだけ言っておく」
琉偉は父を見る。
「秘密だと言うなら」
「秘密を守る責任がある」
「結婚したと言うなら」
「夫としての責任がある」
「芸能人と結婚したと言うなら」
「普通の結婚より、もっと覚悟がいる」
「それは分かっておけ」
琉偉は真っ直ぐ頷いた。
「分かってる」
父は少しだけ目を細める。
「なら、今日はそれでいい」
⸻
沈黙。
でも空気は“拒絶”ではない。
ただの“処理できない現実”。
母はまだ何か言いたそうだった。
姉も質問を飲み込んでいる。
兄は琉偉をじっと見ていた。
そして、静かに言った。
「琉偉」
「何?」
「その人を泣かせるなよ」
琉偉はすぐに答える。
「うん」
「絶対に」
兄はそれ以上言わなかった。
⸻
その夜。
琉偉の部屋。
ベッドに座る。
部屋の照明はつけたまま。
机の上には大学の教科書。
ノート。
開きかけの参考書。
だが、まったく頭に入らなかった。
琉偉は両手でスマホを持ち、しばらく画面を見つめていた。
言った。
ついに、言った。
家族に。
自分が結婚していることを。
東雲巳波の夫であることを。
⸻
スマホが震える。
巳波。
『どうだった』
⸻
琉偉は短く返す。
『言いました』
⸻
数秒後。
『……そっか』
⸻
少し間が空く。
その間に、琉偉は家族の顔を思い出していた。
父の低い声。
母の震えた視線。
姉の混乱。
兄の静かな問い。
どれも、まだ胸に残っている。
⸻
『大丈夫?』
⸻
琉偉は少しだけ息を吐く。
『まだ分からないです』
『でも、拒絶はされていません』
『ただ、皆かなり驚いていました』
⸻
画面の向こう。
巳波は静かに目を閉じる。
そして短く返す。
『おつかれさま』
⸻
その一言だけで。
琉偉の胸の奥が、少しだけ緩んだ。
続けて、巳波からメッセージが届く。
『怖かったよね』
『言ってくれてありがとう』
『私のことも、守ろうとしてくれてありがとう』
琉偉は画面を見つめる。
胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりほどけていく。
『巳波さんも、怖かったですよね』
すぐに返信が来る。
『うん』
『でも、琉偉くんが一人で抱え込む方がもっと怖かった』
琉偉は目を閉じた。
『これから、少しずつ話します』
『急には無理だと思います』
『でも、逃げません』
巳波からの返信は短かった。
『うん』
『私も逃げない』
その言葉を見た瞬間、琉偉はスマホを胸に当てた。
夜は、まだ重い。
家族が完全に理解したわけではない。
明日になれば、また話さなければならないかもしれない。
質問されるかもしれない。
不安も残っている。
でも。
ひとつだけ、確かなことがあった。
もう、完全な秘密ではない。
家族の前に、自分の人生を一つ置いた。
そして、巳波はそのことを受け止めてくれた。
⸻
数分後。
今度は巳波から通話が来た。
琉偉はすぐに出る。
「もしもし」
『琉偉くん』
声を聞いた瞬間、胸が落ち着いた。
「はい」
『本当に、お疲れ様』
「ありがとうございます」
『今、声聞いても大丈夫?』
「はい」
「むしろ、聞きたかったです」
電話の向こうで、巳波が小さく息を吐く。
『私も』
沈黙。
でも、温かい沈黙だった。
巳波が静かに言う。
『怖かった?』
「怖かったです」
琉偉は正直に答える。
「父が黙った時」
「母が信じられないって顔をした時」
「姉が混乱して」
「兄が証拠を求めた時」
「少しだけ、足元が揺れた気がしました」
『うん』
「でも」
「言わないままよりは良かったと思います」
『うん』
「巳波さんのことを、隠したいわけじゃないです」
「守りたいから秘密にしているだけで」
「存在までなかったことにはしたくない」
電話の向こうで、巳波が少し黙った。
そして、声を震わせながら言う。
『琉偉くん』
『ありがとう』
琉偉は首を横に振る。
「お礼を言われることじゃありません」
『ううん』
『私にとっては、すごく大きいことだよ』
『だって、琉偉くんが家族に話してくれたってことは』
『私との結婚を、本当に自分の人生として背負ってくれてるってことだから』
琉偉は静かに答えた。
「背負うというより」
「一緒に持つものだと思っています」
巳波は少し笑った。
『そういうところ』
「え?」
『本当に好き』
琉偉の顔が少し熱くなる。
「ありがとうございます」
巳波は続ける。
『家族の人たち、無理にすぐ分かってくれなくてもいいと思う』
『驚くのは当然だし』
『私が逆の立場でも、きっと驚く』
『だから、ゆっくりでいい』
「はい」
『でもね』
「はい」
『いつか、ちゃんと挨拶したい』
琉偉は目を見開いた。
「巳波さんが?」
『うん』
『すぐじゃなくていい』
『今じゃなくていい』
『でも、いつか』
『琉偉くんの家族に、ちゃんと自分の言葉で話したい』
琉偉は胸が熱くなった。
「分かりました」
「その時は、一緒に」
『うん』
『一緒に』
⸻
その頃。
一階のリビング。
父・優斗は、食卓に座ったまま黙っていた。
母・聖樹は食器を片付け終えたあとも、キッチンで手を止めていた。
姉・美紗都はスマホで東雲巳波の公式プロフィールを開きかけて、閉じた。
兄・優介はリビングの扉の方を見てから、小さく息を吐いた。
誰もまだ、答えを出せていなかった。
でも。
誰も琉偉を責める言葉は口にしなかった。
ただ、現実を受け止めるための時間が必要だった。
⸻
琉偉の部屋。
通話は続いていた。
巳波が小さく言う。
『今日は、もう寝ようか』
「はい」
『疲れたでしょ』
「少し」
『明日、大学ある?』
「あります」
『ちゃんと寝て』
「巳波さんも」
『うん』
『私も寝る』
「約束です」
『約束』
少しだけ間が空く。
そして、巳波が柔らかい声で言った。
『琉偉くん』
「はい」
『大好き』
琉偉は目を閉じる。
「僕もです」
「大好きです」
通話が切れる。
琉偉はベッドに座ったまま、しばらく動かなかった。
家の中は静かだった。
でも、その静けさは、さっきまでの重い沈黙とは少し違っていた。
何かが終わったわけではない。
むしろ、始まったばかりだった。
家族が知った。
秘密の結婚が、ほんの少しだけ家の中へ入ってきた。
不安はある。
でも、琉偉はもう逃げない。
そう決めていた。
窓の外には、夜の戸塚の住宅街。
静かで、いつもと変わらない景色。
けれど琉偉にとって、その夜は忘れられない夜になった。
“東雲巳波の夫”として。
初めて家族に向き合った夜。
そして。
夫婦の秘密が、少しだけ家族の中へ溶け始めた夜だった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
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その一つひとつが、次の章を書き進める力になります。
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