第2章「高校生と秘密の妻」
月曜日、朝。
廣瀬琉偉は、制服のネクタイを結びながら、何度目か分からない深呼吸をしていた。
(……無理だろ、これ)
視線の先。
リビングのソファに座っているのは、東雲巳波。
ゆるく髪を下ろし、黒縁の眼鏡。
薄いニットにデニムという、どこにでもいそうな落ち着いた女性の格好。
だが。
(どう見ても一般人じゃない)
画面越しで見慣れた顔。
それが、普通に自分の家にいる。
しかも。
「コーヒー、飲む?」
「……い、いただきます」
“妻”として。
まだ、その言葉に慣れない。
巳波は立ち上がり、キッチンへ向かう。
その動きに無駄はなく、妙に生活感がある。
(なんでこんな自然なんだよ……)
琉偉は頭を抱えたくなる。
昨日まで、絶対に関わることのなかった存在。
それが、朝食を用意している。
距離感が壊れすぎている。
「はい」
差し出されたマグカップ。
指が触れる距離。
それだけで、妙に意識してしまう。
「……今日、学校でしょ?」
「はい……」
「普通に行ってきなよ」
「普通……」
できるわけがない。
「私は今日は仕事ないから、ここで適当に過ごしてる」
「え」
さらっと言われた内容に、思考が止まる。
「……え?」
「なに?」
「……ここで……?」
「うん」
当然のように。
「ダメ?」
「いやダメじゃないですけど!ダメなんですけど!!」
思わず矛盾した叫び。
「親とか……」
「平日はいないって言ってたじゃん」
「……あ」
確かに。
共働きで昼間はいない。
「だから大丈夫」
「……いや大丈夫じゃない気がするんですけど」
「じゃあ鍵閉めて出れば?」
論破された。
「……あと」
巳波はコーヒーを一口飲んで、続ける。
「誰にも言わないでね」
「……はい」
「絶対に」
その声は、少しだけ低かった。
仕事の時の声。
“秘密”という言葉の重さが、そこで初めて実感として落ちる。
「バレたら終わりだから」
「……終わり?」
「私の仕事も、あなたの生活も」
淡々とした言い方。
だが、その内容は重い。
「炎上とかじゃ済まないよ」
「……」
「だから、ちゃんと隠して」
目を逸らさないまま、言い切る。
それはお願いではなく、条件だった。
「……分かりました」
琉偉は小さく頷く。
ようやく理解する。
これは“非現実”じゃない。
現実の中で、隠さなきゃいけない関係だ。
⸻
通学路。
いつもと同じ景色。
だが、全く違って見える。
(家に……いるんだよな……)
“妻”が。
それだけで、現実が歪む。
「おーい琉偉!」
後ろから声。
振り向くと、クラスメイトの男子が手を振っていた。
「今日やけに静かじゃね?」
「……そうか?」
「珍しくボーっとしてる」
(そりゃそうだろ)
心の中で返す。
「なんかあった?」
「……いや、別に」
言えない。
言えるわけがない。
“38歳のグラビアアイドルと結婚した”なんて。
「ふーん」
怪しむような視線。
(バレるなよ……)
まだ何もしていないのに、すでに緊張している。
⸻
教室。
日常の音。
友達の会話、教師の声、机の音。
すべてがいつも通り。
なのに。
(……家にいる)
その事実だけが、ずっと頭に残る。
ポケットの中のスマホが震えた。
(っ)
一瞬で緊張が走る。
そっと確認する。
【東雲巳波】
『冷蔵庫、勝手に見たけど何もないね』
(……やめてくれ)
『買い物行ってくる』
『何かいる?』
普通すぎるメッセージ。
だが、それが逆に危険だった。
(既婚者みたいなやり取りやめてくれ……!)
いや、既婚者なのだが。
「おい琉偉」
「っ!?」
突然、肩を叩かれる。
「授業中スマホ見るなって」
教師だった。
教室が一瞬静かになる。
「……すみません」
慌ててしまう。
(やばい……)
心臓が跳ねる。
たったそれだけで、この関係は簡単に崩れる。
「最近気が緩んでるぞ」
「……はい」
視線が集まる。
その中に、疑いはまだない。
だが。
(こういうのが積み重なると……)
怖くなる。
⸻
放課後。
「今日寄ってく?」
友達の誘い。
「……いや、今日は帰る」
即答だった。
「珍しいな」
「ちょっと用事」
嘘ではない。
むしろ本当すぎる。
家に、“妻”がいる。
(帰らないと)
それだけで、足が自然と速くなる。
⸻
家の前。
玄関のドアの前で、立ち止まる。
(……いるんだよな)
当たり前のように。
鍵を開ける。
ドアを開ける。
「おかえり」
その一言で。
現実が、完全に確定した。
キッチンから顔を出した巳波。
エプロン姿。
「……え」
思考が止まる。
「ご飯、もうすぐできるよ」
「……なんで作ってるんですか」
「暇だったから」
理由が軽い。
だが、その光景は重い。
(……完全に、妻じゃん)
部屋に広がる、料理の匂い。
誰かが待っている家。
それは、今までの生活にはなかったもの。
「……あの」
「なに?」
「これ……続くんですか?」
恐る恐る聞く。
巳波は少しだけ考えてから答えた。
「続けるつもりだけど」
「……」
「嫌?」
「いや……」
言葉が詰まる。
嫌じゃない。
むしろ。
「……分かんないです」
正直な答え。
巳波は小さく笑った。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、とりあえず食べよ」
日常に引き戻すように。
テーブルに並ぶ料理。
向かい合って座る二人。
「いただきます」
「……いただきます」
静かな食卓。
だが。
その距離は、昨日よりも確実に近かった。
⸻
“秘密の妻”は、日常に入り込む。
そして。
その日常は、少しずつ壊れていく。
バレたら終わり。
でも。
この関係は、もう止まらない。
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