第1章「朝、知らない“妻”がいる」
土曜日、朝。
廣瀬琉偉の部屋に、静かな光が差し込んでいた。
カーテンの隙間から入る光が、床に細い線を作っている。
いつもと同じ朝――の、はずだった。
「………ん」
目を覚ます。
ぼんやりとした意識のまま、天井を見る。
(……昨日)
思い出そうとして、途中で止まる。
観覧車。
キス。
結婚。
(……夢、だよな)
そう結論づけようとした、その瞬間。
「起きた?」
すぐ隣から、声がした。
――一瞬で、意識が覚醒する。
ゆっくりと横を向く。
そこにいたのは。
東雲巳波。
髪を下ろし、黒縁の眼鏡をかけた“素”の姿。
メイクも薄く、テレビやSNSとは違う、静かな大人の女性の顔。
そして。
同じ布団の中。
「……え?」
声が裏返る。
「なにその反応」
巳波は少しだけ笑いながら、布団の中で体を起こした。
「昨日のこと、覚えてないの?」
「……い、いや……覚えて……ます……」
覚えている。
全部。
むしろ忘れたいくらい、鮮明に。
「じゃあ問題ないでしょ」
「いや問題しかないですけど!?」
思わず声が大きくなる。
巳波は「しー」と軽く指を立てた。
「朝からうるさい。家族に聞こえるよ?」
「……あ」
現実が、一気に押し寄せる。
ここは、自分の家。
鎌倉の実家。
親もいる。
「……え、なんで……ここに……?」
「昨日、終電逃したから」
あっさりと言う。
「……それで……?」
「泊まった」
当然のように。
「……どこに?」
「ここ」
「なんでですか!?」
「夫婦だからでしょ」
その一言で、完全に詰まる。
「……」
「……」
沈黙。
巳波はベッドから出ると、軽く伸びをした。
ゆるく揺れる髪と、無防備な背中。
それだけで、現実味が増してしまう。
「シャワー借りるね」
「……え、あ、はい……」
勝手に進んでいく状況。
頭が追いつかない。
ドアが閉まる音。
そして――
(……結婚、したんだ)
ようやく、その事実が落ちてくる。
昨日の夜。
観覧車の頂上で。
“推し”と。
(……いや意味わからん)
顔を覆う。
だが。
スマホを見ると、現実はさらに強く突き刺さる。
【東雲巳波】
――登録されたばかりの連絡先。
メッセージも来ている。
『合鍵はあとで作ろうか』
(……重い!!)
思わず心の中で叫ぶ。
その時。
「タオルどこ?」
シャワールームの方から声がする。
「え、あ、えっと……その棚の……!」
慌てて指示を出す。
(……普通に会話してる……)
非現実と日常が混ざっていく。
しばらくして。
巳波が戻ってくる。
濡れた髪を軽くタオルで拭きながら。
「……あの」
「なに?」
「これ……本当に……結婚……なんですよね?」
確認するように聞く。
巳波は少しだけ考えてから、答えた。
「形式的には、まだ」
「……え?」
「役所行ってないし」
「あ……」
確かに。
「でも」
彼女は琉偉の前に座り、まっすぐ見た。
「昨日、約束したでしょ」
「……はい」
「私は守るタイプだから」
静かな声。
だけど、それは重かった。
「だから、もう“そういう関係”でいいと思ってる」
“そういう関係”。
その言葉の意味が、じわじわと染み込んでくる。
「……あの」
「ん?」
「なんで……OKしたんですか?」
ずっと引っかかっていた疑問。
巳波は少しだけ視線を外した。
「……なんとなく」
「え」
「面白そうだったから」
軽い理由。
でも、それだけじゃないのが分かる。
「あと」
少しだけ間を置いて。
「本気だったから」
「……」
「嘘じゃない目、してた」
それだけ言って、巳波は立ち上がる。
「朝ごはん、どうする?」
「……え」
「お腹すいた」
完全に日常のトーン。
「……作ります」
反射的に答える。
「へぇ、できるんだ」
「……少しは」
キッチンに向かう琉偉。
その背中を見ながら、巳波は小さく笑った。
「じゃあ期待しよ」
――その一言が。
やけに“夫婦っぽく”聞こえた。
⸻
こうして。
18歳の高校生と、38歳のグラビアアイドルの
誰にも知られない新婚生活が、静かに始まった。
⸻
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