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第0章「ファンレターと観覧車の頂点」


木曜日の夜。


都内のマンションの一室。

白いテーブルの上に、無数の封筒が広がっていた。


その中央に座るのは、東雲巳波――38歳。

グラビアアイドルでありながら、アイドル活動、SNS、そして登録者250万人のYouTuberとしても知られる存在。


照明に照らされた彼女は、仕事終わりの姿だった。


長い髪は下ろされ、黒縁の眼鏡。

テレビやSNSで見せる“完璧な東雲巳波”とは違う、どこか落ち着いた私生活の顔。


「……今日も多いね」


淡々と封を切りながら、そう呟く。


向かいに立つのは、マネージャーの筒香雷斗(35歳)。

スケジュール管理から現場調整まで担う、彼女にとって最も近い仕事相手。


「最近また増えてますね。写真集の影響もあるでしょうし」


「ありがたいことだけどね」


巳波は軽く笑いながら、手紙を一通一通確認していく。


応援、感想、人生相談――

ファンレターの中身は様々だが、そのどれもが“距離”を感じさせるものだった。


触れられない、届かない存在。


それが、東雲巳波というブランド。


――の、はずだった。


「……ん?」


一通の手紙で、彼女の手が止まる。


他のものよりも、少しだけ丁寧な文字。

無駄な装飾もない、シンプルな文章。


巳波はそれを静かに読み上げた。


「『金曜日の午後18時に、みなとみらいの観覧車の前で――』」


「……は?」


雷斗が思わず顔を上げる。


「『巳波さんの写真集を持って待ってます』……だって」


その先を読み進める。


「『良ければ、お話したいことがあります。是非来てください』」


沈黙。


部屋の空気が、少しだけ変わった。


「……行く気ですか?」


雷斗の声は低い。


当然の反応だった。


場所も時間も指定された“呼び出し”。

ファンレターとしては、明らかに一線を越えている。


普通なら、無視。

あるいは警戒対象。


「……どう思う?」


巳波は、逆に問い返した。


「行く理由がないです」


即答だった。


「むしろ止めるべき案件です。危険性もあるし、何より――」


「面白いじゃん」


その一言で、雷斗の言葉が止まる。


巳波は、手紙を指でなぞりながら、わずかに笑った。


「ここまでストレートに来る人、久しぶりかも」


「いや、“ストレート”で済ませていい内容じゃないです」


「でもさ」


彼女は顔を上げる。


その目は、仕事の時と同じ――

何かを決めた時の、揺れない視線だった。


「来てほしいって、ちゃんと書いてある」


「……」


「行かなかったら、ちょっと可哀想じゃない?」


雷斗はため息をついた。


この顔になった時の巳波は、もう止まらない。


「……わかりました。ただし、遠くから見張ります。何かあればすぐ介入します」


「さすが、優秀なマネージャー」


軽く笑って、巳波はその手紙をテーブルの上に置いた。


その瞬間から。


“距離”は、少しずつ壊れ始めていた。



そして、金曜日。


午後18時。


横浜・みなとみらい。


観覧車の前には、放課後帰りの学生や観光客が行き交っている。


その中で、一人の少年が立っていた。


廣瀬琉偉、18歳。


制服姿のまま、手には一冊の写真集。

ページの端は何度もめくられた跡があり、角はわずかに擦れている。


(……本当に、来るわけないよな)


心の中では、そう思っていた。


むしろ、来ない方が普通だ。


相手は“東雲巳波”。


自分はただの高校生。


繋がる理由なんて、どこにもない。


それでも。


(……それでも)


視線を上げる。


ゆっくりと回る観覧車。


その光が、やけに現実離れして見えた。


「――待たせた?」


その声が、すぐ後ろから聞こえた。


一瞬、思考が止まる。


振り向いた先にいたのは――


髪を上げ、眼鏡を外した、東雲巳波。


画面の中で何度も見てきた“あの姿”そのまま。


「……え?」


声にならない。


理解が追いつかない。


「写真集、ちゃんと持ってるんだ」


巳波は、琉偉の手元を見て微笑む。


「で? 話があるんでしょ」


現実だった。


逃げ場のない現実。


「……あ、あの」


「ここで話す?」


「……い、いえ……その……」


言葉が詰まる。


すると巳波は、観覧車をちらりと見て言った。


「乗る?」


「……え?」


「せっかく来たんだし」


その一言で、流れは決まった。



ゴンドラの中。


二人きりの密室。


外の景色はゆっくりと遠ざかり、代わりに静寂が降りてくる。


「……」


「……」


会話は、ない。


琉偉の心臓の音だけが、やけにうるさく響いていた。


(言え……言え……)


ここで言わなければ、全部終わる。


頂上が近づく。


タイミングは、今しかない。


そして――


「……結婚して下さい」


沈黙を切り裂く言葉。


巳波の視線が、ゆっくりと向けられる。


「交際0日婚でもいいので……お願いします」


完全に止まった空気。


「……は?」


それが、彼女の最初の反応だった。


当然だ。


「なんで?」


冷静な問い。


逃げ場はない。


「……全部、見てます」


琉偉は震えながらも、言葉を続けた。


「YouTubeも、Instagramも……写真集も30冊以上持ってます」


「……」


「好きになって……でも関われないって分かってて……それでも――」


息を飲む。


「今、目の前にいます」


視線を逸らさない。


「だから……結婚したいって、本気で思いました」


頂上。


ゴンドラが、最も高い位置に到達する。


静寂。


そして。


「……バカじゃないの」


呆れた声。


でも、完全な拒絶ではなかった。


「普通、そんなの成立しないでしょ」


「……はい」


「交際もなしで、結婚って」


「……はい」


それでも、琉偉は引かなかった。


「……でも、したいです」


その一言に。


巳波は、数秒だけ黙った。


そして。


「……浮気とかしたら、ダメだからね」


「……え?」


理解が追いつかない。


「守れる?」


「……は、はい!」


即答だった。


「じゃあ、いいよ」


あまりにも軽い了承。


次の瞬間。


巳波は琉偉の顔を引き寄せ――


唇を重ねた。


深く、逃げ場のないキス。


驚きと混乱の中で、琉偉はそれを受け止めるしかなかった。


観覧車は、ゆっくりと下降していく。


もう、後戻りはできない。



地上に戻ったあと。


「連絡先、教える」


それだけ言って、巳波はスマホを取り出す。


すべてが、現実のまま進んでいく。


そして。


少し離れた場所に停まっていた車へ。


ドアを開け、乗り込む。


「……どうでした?」


運転席の雷斗が、静かに聞く。


巳波はシートに背を預けながら、あっさりと言った。


「結婚することにした」


「……は?」


「交際0日婚。しかも秘密ね」


雷斗は言葉を失う。


だが。


巳波の目を見た瞬間、何も言えなくなった。


それは、冗談でも気まぐれでもない。


本気の目だった。


「……公表は?」


「しない」


即答。


「仕事は今まで通り。全部“なかったこと”にする」


静かな狂気。


しかし同時に、それは“彼女らしさ”でもあった。


雷斗は小さく息を吐く。


「……了解しました」


それが、唯一の答えだった。



こうして。


誰にも知られないまま。


一人のグラビアアイドルと、一人の高校生の


“交際0日婚”が始まった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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