第112章「雨音の向こう側――“お疲れ様”を重ねる夜」
夕食の時間は、いつもより少しだけ静かだった。
窓の外では、相変わらず小雨が降り続いている。
朝から続いた長い雨の日。
そして、三時間半にも及んだサッカーゲーム生配信。
その余韻は、まだ家の中に残っていた。
テーブルの上には、琉偉が作った夕食が並んでいる。
・鶏もも肉と長ねぎの照り焼き
・ほうれん草としめじのおひたし
・じゃがいもと玉ねぎ、豆腐の味噌汁
・だし巻き卵
・雑穀入りご飯
・トマトとレタスのサラダ
そして、食卓の中央には、お湯で沸かして冷ました麦茶が入ったガラスのピッチャーが置かれていた。
巳波は椅子に座りながら、ふわりと漂う照り焼きの香りを吸い込む。
「……美味しそう」
「今日は疲れていると思ったので、少し優しめの献立にしました」
「ありがとう」
巳波はそう言って、自然と笑みを浮かべた。
「いただきます」
「いただきます」
二人は静かに食事を始める。
照り焼きの甘辛い味付け。
優しい味の味噌汁。
だし巻き卵の柔らかな食感。
配信で使い続けた喉にも、温かい料理がゆっくりと染み込んでいく。
「やっぱり家のご飯って落ち着くね」
巳波がそう言うと、琉偉は小さく頷いた。
「外の仕事が多いですからね」
「うん。だから余計に」
巳波は麦茶を一口飲む。
「美味しい」
「良かったです」
食事を終える頃には、巳波の表情も少し柔らかくなっていた。
⸻
食後。
二人はそのまま一緒に浴室へ向かった。
浴室の中には、温かな湯気が広がっている。
シャワーを浴び終えたあと、巳波は浴槽の縁に腰掛けていた。
「はぁ……」
自然とため息が漏れる。
すると、その後ろに座った琉偉が、そっと巳波の肩に手を置いた。
「少し肩、揉みますね」
「え?」
「今日、ずっとゲームしていましたし」
「……お願いしようかな」
巳波が小さく頷く。
琉偉はゆっくりと巳波の肩をほぐし始めた。
「うっ……」
「痛いですか?」
「ううん。気持ちいい」
巳波は目を閉じる。
配信中、ずっと同じ姿勢でコントローラーを握り続けていたせいか、肩には思った以上に疲れが溜まっていた。
「結構凝っていますね」
「やっぱり?」
「かなり」
巳波は少し恥ずかしそうに笑った。
「今日、頑張ったからね」
「はい」
琉偉はそう言ってから、少し微笑む。
「今日の配信、面白かったです」
「本当?」
「はい。かなり楽しめました」
「良かった」
「特に日本代表対ブラジル戦と、世界選抜対日本代表」
「やっぱり?」
「かなり熱かったです」
巳波は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
少し間を置いて、琉偉が続ける。
「今度は、巳波さんと私とで対戦配信をしませんか?」
巳波は驚いたように振り返った。
「え?」
「二人で」
「対戦?」
「はい」
巳波は数秒考えたあと、笑った。
「いいよ」
「本当ですか?」
「うん」
「でも――」
巳波は少しだけ考える。
「一旦、サッカー配信は休憩しようかな」
「休憩ですか?」
「うん」
「今度は野球配信でもしようかなって」
琉偉は目を瞬かせる。
「野球ですか?」
「そう」
巳波は楽しそうに笑う。
「もちろん使うチームは決まってるよ」
「横浜DeNAベイスターズ」
「やっぱりですか」
「戸塚だしね」
「確かに」
二人は顔を見合わせて笑った。
⸻
その後。
二人はゆっくりと湯船へ浸かった。
肩までお湯に浸かる。
温かい湯が身体を包み込んでいく。
巳波は大きく息を吐いた。
「はぁ……生き返る」
「かなり疲れていましたからね」
「うん」
巳波はそのまま、今日の配信のことを話し始めた。
「最初は一時間くらいで終わる予定だったんだけどね」
「知っていました」
「え?」
「絶対長くなると思っていました」
「ひどい」
「でも、楽しかったんですよね?」
「……うん」
巳波は笑った。
「すごく楽しかった」
「海外のコメントもいっぱい来たし」
「マリノスから招待も来ましたしね」
「本当にびっくりした」
「でも、行ってみたいです」
「私も」
話は尽きなかった。
気が付けば、三十分近く二人は湯船の中で話し続けていた。
⸻
風呂から上がる。
リビング。
巳波はソファに座る。
濡れた長い髪が背中に広がっていた。
その後ろに琉偉が座る。
ドライヤーのスイッチが入る。
温かな風。
「今日も長かったですね」
「うん」
「でも楽しかった」
「見ていて分かりました」
琉偉は丁寧に髪を乾かしていく。
巳波の長い髪が、少しずつ乾いていく。
「ありがとう」
「どういたしまして」
やがて髪が乾き終わる。
琉偉はドライヤーを置いた。
そして、そっと巳波を見つめる。
「今日も、本当にお疲れ様でした」
その言葉と同時に、静かに距離が縮まる。
唇が重なった。
長く、優しいキスだった。
配信中には見せない、二人だけの時間。
唇が離れる。
だが、琉偉はもう一度巳波を抱き寄せる。
「お疲れ様です」
そして再び、少しだけ深いキスを交わした。
巳波は頬を赤くしながら、小さな声で囁く。
「……ありがとう」
その声は、雨音に溶けるほど小さかった。
⸻
夜。
寝室。
二人はベッドの中で肩を寄せ合うように横になっていた。
互いに横を向く。
距離はほとんどない。
巳波が小さく笑う。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
その言葉のあと、二人は自然と唇を重ねた。
短く、優しいキス。
今日一日を締めくくるような静かなキスだった。
そしてそのまま――
二人は互いの温もりを感じながら、ゆっくりと眠りについた。
窓の外では、まだ小さな雨が降り続いていた。
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