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第113章「雨の朝とメイクの予定――“日常へ戻る支度”」


朝。


戸塚駅近くの一軒家には、まだ昨日の雨の名残が残っていた。


窓の外は薄く曇っていて、道路の端には小さな水たまりがいくつも残っている。


雨音はもう弱くなっていたが、空気は少し湿っていて、朝の光もどこか柔らかかった。


寝室の中は静かだった。


昨日のサッカーゲーム生配信。


三時間半という長時間配信。


その後の夕食。


お風呂。


穏やかな夜。


すべてが終わったあと、巳波は深く眠っていた。


琉偉が目を覚ますと、隣では巳波がまだぐっすり眠っていた。


長い髪が枕に広がり、規則正しい寝息が聞こえる。


仕事中の巳波でもない。


配信中の巳波でもない。


ただ、安心して眠っている巳波だった。


琉偉はしばらくその寝顔を見つめる。


「……おはようございます」


小さな声でそう言うと、起こさないようにそっと身を寄せる。


そして、巳波の唇に軽くキスをした。


ほんの一瞬だけ触れる、静かな朝のキス。


巳波は起きない。


少しだけ寝息が変わっただけだった。


琉偉はそれを見て、かすかに笑う。


「疲れてますね」


そう呟き、できるだけ音を立てないようにベッドから抜け出した。



キッチンへ向かう。


今日からまた大学。


昨日の夜、巳波と過ごす時間を優先したため、大学の準備は完全には終わっていなかった。


それを言い訳にするつもりはない。


むしろ、だからこそ今朝は少し早めに動く必要があった。


琉偉は冷蔵庫を開ける。


朝食は軽めにすることにした。


たくあん。


納豆。


卵。


昨日の残りの味噌汁。


ほうれん草としめじのおひたし。


ベーコン。


牛乳。


ご飯をよそい、卵を一つ割る。


醤油を少し垂らして、卵かけご飯にする。


納豆を混ぜる音が、静かなキッチンに小さく響く。


フライパンではベーコンが軽く焼けていく。


味噌汁を温め直すと、じゃがいもと玉ねぎ、豆腐の香りがふわりと立ち上がった。


昨日の夕食の残りなのに、朝には朝の優しさがあった。


琉偉は一人で食卓に座る。


「いただきます」


小さく言って、朝食を食べ始める。


卵かけご飯。


納豆。


たくあんの塩気。


温かい味噌汁。


おひたし。


ベーコン。


牛乳。


派手ではないが、大学へ行く朝にはちょうどよかった。



半分ほど食べ終えた頃。


寝室の方から、小さな足音が聞こえた。


琉偉が顔を上げる。


リビングに入ってきたのは巳波だった。


まだ少し眠そうな顔をしている。


髪も完全には整っていない。


それでも、その姿は琉偉にとって何より落ち着くものだった。


「おはようございます」


琉偉が言う。


巳波は目を擦りながら答える。


「……おはよう」


「よく眠れましたか?」


「うん。かなり寝た気がする」


「昨日、疲れていましたからね」


「うん……配信、思ったより体力使った」


巳波はそう言って、椅子に座る。


琉偉はすぐに聞いた。


「朝ご飯、食べますか?」


「少しだけ」


「分かりました」


琉偉はご飯を軽くよそい、納豆と味噌汁を用意する。


巳波はそれを見て、小さく笑った。


「朝からちゃんとしてるね」


「今日は大学なので」


「昨日、準備できてなかったんでしょ?」


琉偉は少しだけ目を伏せる。


「はい」


「でも、それは言い訳には出来ないので、早めに動きます」


巳波は少しだけ笑う。


「真面目」


「普通です」


「普通じゃないよ」


そんな会話をしながら、二人は朝食を終えた。



テレビをつける。


朝のニュース番組では、神奈川県の天気予報が流れていた。


画面には横浜、戸塚、川崎、小田原などの地域ごとの予報が表示されている。


今日の神奈川県は、朝から昼前にかけて曇り。


午後からは所々で雨。


夕方以降は再び傘が必要になる可能性がある、という内容だった。


巳波はテレビを見ながら言う。


「今日も傘いるね」


琉偉は頷く。


「持っていきます」


「折り畳みじゃなくて普通の傘の方がいいかも」


「そうします」


「駅まで滑らないようにね」


「はい」


巳波は少しだけ心配そうだった。


琉偉はその視線を受けて、静かに言う。


「大丈夫です」


「ちゃんと気を付けます」


「うん」



朝食後。


琉偉は急いで大学の準備に入った。


昨日の夜に終えられなかった分を、短時間で整えていく。


ノート。


教科書。


筆記用具。


学生証。


財布。


スマートフォン。


充電器。


折り畳み傘ではなく、玄関の傘立てから黒い長傘を取り出す。


講義資料を確認し、必要なプリントを鞄に入れる。


巳波はリビングからその様子を見ていた。


「忘れ物ない?」


「確認しました」


「本当に?」


「もう一度確認します」


琉偉は鞄を開け、再確認する。


その様子を見て、巳波は小さく笑った。


「そこまで真面目にやるんだ」


「忘れると困るので」


「そういうところ、好きだけどね」


琉偉の動きが一瞬だけ止まる。


「……ありがとうございます」


巳波は少し得意げに笑った。



出発の時間。


琉偉は玄関へ向かう。


靴を履く。


鞄を肩にかける。


傘を持つ。


すると巳波がすぐ後ろまで来た。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


その直後。


巳波は琉偉の腕を軽く引いた。


琉偉が振り返る。


巳波は迷わず距離を詰める。


唇が重なる。


朝の玄関。


少し湿った空気。


雨上がりの匂い。


その中で交わされる濃厚なキス。


長くはないが、確かに深い。


巳波はゆっくり離れる。


「……今日も頑張ってね」


琉偉は少しだけ目を細める。


「はい」


「巳波さんも無理しないでください」


「うん」


「体調が悪くなったら、すぐ電話してください」


「分かってる」


「授業中でも出ます」


「昨日も言ってたね」


「今日も言います」


巳波は苦笑した。


「はいはい」


「じゃあ、行ってらっしゃい」


「行ってきます」


玄関の扉が閉まる。


琉偉は傘を持って、戸塚駅へ向かった。



駅までの道はまだ濡れていた。


アスファルトに映る空は灰色。


通勤や通学の人々も傘を持って歩いている。


琉偉は駅へ入り、電車に乗る。


車内はいつも通りの朝の空気だった。


学生。


会社員。


眠そうな人。


スマートフォンを見る人。


その中で琉偉は、鞄から大学の資料を取り出し、今日の講義内容を確認した。


昨日までの配信の熱量。


巳波との静かな夜。


マリノスからの招待。


そのすべてが現実なのに、今は大学へ向かう普通の朝だった。


「切り替えないと」


小さく呟き、琉偉は資料に目を落とした。



一方、その頃。


家に残った巳波は、リビングで少しだけぼんやりしていた。


琉偉を見送ったあとの家は、急に広く感じる。


静かなリビング。


片付いた食卓。


キッチンには、まだ味噌汁の香りがわずかに残っている。


そんな時、スマートフォンが震えた。


画面には、


『筒香雷斗』


と表示されていた。


巳波はすぐに通話に出る。


「もしもし」


『巳波さん、おはようございます』


「おはようございます」


『体調はいかがですか?』


「昨日よりは大丈夫です」


『無理はしないでくださいね』


「はい」


雷斗は少し間を置いてから本題に入った。


『本日ですが、午後からアイドルの練習があります』


「アイドルの練習?」


『はい。次回ステージ用の振付確認と歌唱合わせです』


「分かりました」


『集合は午後一時半です。移動車は十二時四十分頃に到着予定です』


「了解です」


『あと、昨日のサッカーゲーム配信の影響で、ゲーム系の案件とスポーツ系の問い合わせが増えています』


「やっぱり増えてますか」


『かなり』


巳波は苦笑した。


「今日は配信しませんよ」


『それがいいと思います。今日は練習に集中しましょう』


「はい」


通話が終わる。


巳波はスマートフォンをテーブルに置き、ゆっくり息を吐いた。


「アイドルの練習か……」


昨日はサッカーゲーム配信。


今日はアイドルの練習。


自分でも、少し不思議な日常だと思う。



巳波は自室へ向かった。


部屋には大きな鏡と、メイク道具が並んだテーブルがある。


今日は仕事用のメイクではなく、練習用。


汗をかいても崩れにくく、でも顔色が明るく見えるように整える必要があった。


巳波は椅子に座る。


鏡の中の自分を見つめる。


「今度はメイク生配信、やってみようかな」


ぽつりと呟く。


サッカーゲーム配信は男性視聴者やゲームファンが多く集まった。


だが、今度は女性視聴者を中心に、メイクや美容の配信をしても面白いかもしれない。


「ベースメイクからちゃんと見せる感じかな」


巳波は自分のメイク道具を見ながら考える。


まずはスキンケア。


化粧水。


乳液。


保湿クリーム。


次に下地。


肌を自然に整えるトーンアップ系の化粧下地。


ファンデーションは薄づきのリキッドタイプ。


コンシーラーで目元と小鼻周りを軽く整える。


フェイスパウダーは崩れにくいものを薄く。


アイブロウは自然なブラウン。


アイシャドウはベージュとピンクブラウン。


アイラインは目尻だけ。


マスカラは汗に強いウォータープルーフ。


チークは薄いコーラル。


リップは血色感のあるピンクベージュ。


「これなら三十分から四十分くらいでできるかな」


実際にメイクを始める。


丁寧に。


でも、手際よく。


鏡の前の巳波は、配信者でもあり、グラビアアイドルでもあり、アイドルでもあった。


そして同時に、琉偉を見送ったばかりの一人の女性でもあった。


三十分ほどで、顔全体が自然に整っていく。


派手すぎず、地味すぎず。


練習に向かうにはちょうど良いメイク。


巳波は最後にリップを軽く塗り、鏡を見た。


「よし」


小さく頷く。


今日もまた一日が始まる。


雨の気配が残る神奈川の朝。


琉偉は大学へ。


巳波はアイドルの練習へ。


二人の時間は別々に動き出したが、


その根元には、今朝の玄関で交わしたキスの温度が、確かに残っていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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皆さまの応援がある限り、次の物語はまだまだ紡がれていきます。

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