第106章「サッカーゲーム生配信⑵――“雨音と実況席”に集まる二百万人の視線」
雨は、まだ止んでいなかった。
窓の外では、朝から変わらない細かな雨粒が、戸塚の街を静かに濡らし続けている。
道路を走る車の音も、普段より少しだけ鈍い。
濡れたアスファルトの上をタイヤが滑る音が、遠くから低く響いていた。
その音を背景に、二人の家では、まったく別の熱が生まれ始めていた。
⸻
配信部屋。
巳波は自分専用の椅子に座り、モニターを見つめていた。
ゲーム画面には、横浜F・マリノスの選手たちがピッチへ入場していく演出が映っている。
相手チームは、オンラインでマッチングした海外プレイヤー。
使用チームは、イングランドの強豪クラブだった。
コメント欄はすでにかなりの速度で流れている。
【マリノス対海外クラブきた!】
【雨の日にサッカーゲーム最高】
【巳波ちゃん実況もして!】
【今日、声落ち着いてて好き】
【これ昼まで見れるやつ】
巳波はコントローラーを握り直しながら笑った。
「じゃあ、まず一試合目。勝ちにいきます」
その一言に、コメント欄が一気に盛り上がる。
【勝ちにいく宣言!】
【強気で好き】
【巳波監督きた】
【今日は東雲ジャパンじゃなくて東雲マリノス】
【雨の戸塚から世界へ】
巳波は少し吹き出した。
「東雲マリノスって何?」
笑いながらも、試合は始まる。
キックオフ。
ピッチ中央からボールが動き出す。
⸻
最初の五分。
巳波は無理に攻めず、後ろでボールを回していた。
センターバックからサイドバック。
サイドバックからボランチ。
ボランチから逆サイドへ展開。
画面上の選手たちは滑らかに動き、ゆっくりと相手の守備ブロックを広げていく。
巳波は小さく呟く。
「焦らない。まず相手の守備見る」
コメント欄が反応する。
【ガチじゃん】
【普通に上手い】
【攻め急がないの良い】
【巳波ちゃん意外と戦術派?】
【相手プレス強いな】
巳波は画面を見たまま答える。
「相手、前から来るタイプだね」
「こういう時は、一回引きつけてから裏」
そう言った直後。
巳波はボランチから縦パスを通す。
ワンタッチで前線へ。
左サイドの選手が抜け出す。
「ここ!」
クロス。
中央へ走り込むフォワード。
ヘディング。
しかし、惜しくもゴール横。
巳波は思わず声を上げた。
「あー! 今の入ってほしかった!」
【惜しいいいいい!】
【今の良かった!】
【崩し完璧】
【ヘディング弱かったな】
【監督、吠える】
巳波は悔しそうに笑う。
「今のは入ったと思ったんだけどなぁ」
⸻
隣の部屋。
琉偉はスマートフォンを横向きにして、ソファで配信を見ていた。
イヤホンから巳波の声が聞こえる。
画面の中の彼女は真剣そのものだった。
普段のグラビア撮影や握手会とは違う。
家で、好きなゲームをしている時の巳波。
少し子どもっぽく笑い、悔しがり、コメントに反応する。
それを見て、琉偉は小さく笑った。
「楽しそうです」
声は誰にも届かない。
でも、その独り言だけで十分だった。
⸻
試合は前半十五分を過ぎる。
相手が徐々に攻め始める。
中央突破。
スルーパス。
ペナルティエリア手前。
シュート。
巳波は即座にキーパーを動かす。
「危ない!」
セーブ。
コメント欄が跳ねる。
【ナイスキーパー!】
【今の危なかった】
【反応早い】
【巳波ちゃん守備上手くね?】
【普通に見入ってる】
巳波はほっと息を吐く。
「今のは危なかった……」
「守備、ちょっと集中するね」
その一言で、配信の空気が少しだけ変わる。
雑談配信の軽さから、ゲーム実況としての緊張感へ。
雨音の向こうで、ピッチの中の熱だけが強くなっていく。
⸻
前半二十八分。
ついにチャンスが来る。
巳波は右サイドでボールを持つ。
相手のサイドバックが寄せる。
巳波は一度止まる。
そして、細かく切り返す。
「ここで抜く」
一瞬のフェイント。
縦へ突破。
コメントが流れる。
【うまい!】
【抜いた!】
【今のフェイント綺麗】
【右サイド突破!】
ペナルティエリア横。
中を見る。
低いクロス。
ニアに走り込む選手。
ワンタッチシュート。
ゴールネットが揺れる。
⸻
「入った!」
巳波が思わず声を上げる。
画面には得点演出。
横浜F・マリノス、先制。
コメント欄が爆発する。
【ゴーーーーール!!】
【巳波ちゃん先制!】
【うまっ!】
【完璧な崩し】
【今の普通に気持ちいい】
【東雲マリノス強い】
【雨の日の女神】
巳波は笑いながら両手を軽く上げる。
「よし!」
「今のは良かった!」
「ちゃんと崩せた!」
その声には、仕事の時とは違う素直な喜びがある。
視聴者もそれを感じ取っていた。
【巳波ちゃん嬉しそう】
【この素の反応いい】
【ゲーム配信もっとやって】
【仕事の顔じゃない感じ好き】
【家で遊んでる感あって良い】
巳波はコメントを見て、少しだけ照れたように笑う。
「仕事じゃない顔って何?」
「でも、今日は普通に楽しんでる」
「雨だしね」
⸻
同時接続数は、さらに増えていた。
二十万人。
三十万人。
五十万人。
サッカーゲーム配信としては異常な伸び方だった。
だが、巳波はそれを特別に煽らない。
ただ、ゲームを続ける。
それが逆に視聴者を引き込んでいた。
【同接えぐい】
【普通のゲーム配信でこの人数は強すぎ】
【巳波ちゃんの声落ち着く】
【雨の日にずっと聞ける】
【実況と雑談のバランス良い】
⸻
前半終了。
スコアは一対零。
巳波のリード。
ハーフタイム画面になる。
巳波はコントローラーを膝に置き、コメント欄を見る。
「前半どうだった?」
すぐにコメントが流れる。
【普通に上手い】
【守備が安定してる】
【攻め方が丁寧】
【もっとゴリ押しするかと思った】
【意外と慎重派】
巳波は笑う。
「意外とって何?」
「私、けっこう慎重だよ」
【ほんと?】
【ラーメン十二杯食べた人が慎重?】
【説得力ないw】
巳波は思わず吹き出す。
「それは別!」
「ラーメンの話しないで!」
コメント欄がさらに盛り上がる。
【ラーメンは伝説】
【サッカーでも十二点取ろう】
【十二杯から十二点へ】
「無理無理!」
巳波は笑いながら首を振る。
「十二点は相手に失礼」
その時、ふと一つのコメントが流れる。
【今日、隣の部屋にルーキーズさんいますか?】
巳波の手が一瞬だけ止まる。
でも、すぐに自然な声で返す。
「今日はね、見てくれてると思う」
【やっぱり!】
【声は出ないの?】
【ルーキーズ実況も聞きたい】
【隣で見てるの尊い】
巳波は少しだけ笑う。
「今日は声なしです」
「サポーターとして見てくれてます」
隣の部屋。
琉偉はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「サポーターですか」
小さく呟く。
スマホの中では巳波が笑っている。
それだけで、今日の雨の日は悪くないと思えた。
⸻
後半開始。
相手は明らかに攻勢を強めてきた。
前線からプレスをかけ、巳波のパス回しを潰しにくる。
巳波は少しだけ表情を引き締める。
「後半、相手来てるね」
「ここ耐えよう」
相手の攻撃。
中央からミドルシュート。
キーパーが弾く。
コーナーキック。
巳波は守備位置を調整する。
「ニア注意」
ボールが入る。
ヘディング。
枠の上。
「助かった……!」
コメント欄。
【心臓に悪い】
【守備回きた】
【雨の日なのに熱い】
【普通に試合として面白い】
⸻
後半二十二分。
相手に同点ゴールを決められる。
スルーパスから抜け出され、冷静に流し込まれた。
スコア一対一。
巳波は悔しそうに眉を寄せる。
「あー……今のは守備ミス」
「完全に裏取られた」
コメント欄は励ますように流れる。
【まだいける】
【同点ならここから】
【切り替え大事】
【巳波ちゃん頑張れ】
巳波は深く息を吐く。
「うん、切り替える」
「まだ時間ある」
その言葉に、配信全体の空気が再び締まる。
⸻
後半三十五分。
巳波は選手交代をする。
スピードのあるウイングを投入。
「最後、サイドで勝負する」
コメント欄。
【采配きた】
【監督モード】
【勝ちにいってる】
【ここで勝ち越し頼む】
雨音はまだ続く。
だが配信部屋の中では、ピッチ上の熱だけが上がっていく。
⸻
後半四十二分。
右サイドでボールを受ける。
投入したばかりのウイング。
相手DFと一対一。
巳波は小さく言う。
「ここ、行く」
フェイント。
縦突破。
抜けた。
中央へ低いクロス。
フォワードが合わせる。
シュート。
キーパーが触る。
しかし、ボールはゴールラインを越える。
⸻
勝ち越し。
二対一。
巳波は思わず立ち上がりかけた。
「入った!」
コメント欄が一気に爆発する。
【きたあああああ!!】
【勝ち越し!!】
【采配的中!】
【ウイング投入正解!】
【東雲監督すげえ!】
【雨の日の劇的弾!】
巳波は笑顔でコントローラーを握り直す。
「まだ終わってない!」
「ここから守る!」
その声に、視聴者も一体になる。
【守れ!】
【あと少し!】
【集中!】
【勝ち切れ!】
⸻
残り時間。
相手が猛攻を仕掛ける。
クロス。
クリア。
ミドルシュート。
ブロック。
ロスタイム二分。
巳波は必死にボールをキープする。
「お願い、終わって……!」
そして。
試合終了の笛。
二対一。
巳波、初戦勝利。
⸻
「勝った!」
巳波の声が弾む。
コメント欄は歓喜で埋まる。
【勝利!!】
【ナイスゲーム!】
【普通に名試合】
【采配勝ち】
【雨の日の神回】
【東雲マリノス最高】
巳波は笑いながら息を吐く。
「いやー……疲れた」
「ゲームなのに疲れた」
コメント欄。
【見てる方も疲れた】
【一試合目から熱すぎ】
【これ長時間配信いける?】
【次も見たい!】
巳波は時計を見る。
まだ配信開始から四十分ほど。
「じゃあ、もう一試合だけやろうかな」
コメント欄が即座に反応する。
【やった!】
【二試合目!】
【次はどこ使う?】
【日本代表!】
【海外クラブ!】
巳波は少し考える。
「次は……日本代表でいこうかな」
コメント欄が一気に盛り上がる。
【日本代表きた!】
【熱い!】
【雨の日の代表戦】
【次回も神回確定】
⸻
隣の部屋で、琉偉はスマホ画面を見ながら小さく笑う。
「本当に楽しそうですね」
その声は、雨音に溶けていく。
配信はまだ終わらない。
雨の日曜日。
外へ出られない一日が、
いつの間にか、二人にとっても、視聴者にとっても、
忘れられない“サッカーの午後”へ変わり始めていた。
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