第104章「夕暮れの会話――“二人の未来”を少しだけ考えた夜」
夕方。
戸塚駅近くの住宅街は、ゆっくりと夜へ向かおうとしていた。
西の空は薄い橙色に染まり、家々の窓には少しずつ灯りがともり始めている。
琉偉は駅からの帰り道を歩きながら、スマートフォンを取り出した。
時刻は十七時四十分。
思ったより長く遊んでしまった。
だが、久しぶりに蒼と彩音と過ごした時間はとても楽しかった。
『今から帰ります』
巳波へ短いメッセージを送る。
数秒後。
『気を付けて帰ってきてね』
返信はすぐに返ってきた。
その短い文章を見ただけで、自然と表情が柔らかくなる。
⸻
玄関の扉を開ける。
「ただいま帰りました」
すると、リビングの方からすぐに声が返ってきた。
「おかえり」
巳波だった。
ソファに座っていた巳波は、琉偉の姿を見るとゆっくり立ち上がる。
「楽しかった?」
「はい」
琉偉が靴を脱ぎ終えると、巳波は自然に近付いてくる。
そして、そっと抱きついた。
「お疲れ様」
「巳波さんも」
静かな時間。
そのまま軽く唇を重ねる。
短いキス。
それはもう二人の日常になっていた。
⸻
夕食を終えた後。
二人はリビングのソファに並んで座っていた。
テレビは点いているが、音は小さい。
穏やかな夜だった。
しばらくして、巳波が口を開く。
「今日ね」
「はい」
「実は、琉偉が出掛けた後に少し体調が変だったの」
琉偉はすぐに巳波を見る。
「体調ですか?」
「うん」
巳波は少し考えるように言葉を選んだ。
「すごく酷いわけじゃないんだけど、少し気持ち悪くなって」
「……」
「最近忙しかったから疲れかなって思ったんだけど、念のため検査したの」
「検査?」
「うん」
巳波は小さく頷く。
「妊娠検査薬」
琉偉は静かに話を聞いている。
「結果は陰性だった」
「そうでしたか」
「だから、今は大丈夫」
巳波は少しだけ笑った。
「でも、帰ってきたらちゃんと話そうと思って」
⸻
しばらく沈黙が流れる。
琉偉はゆっくりと息を吐いた。
そして、真っ直ぐ巳波を見つめる。
「まず、話してくれてありがとうございます」
「うん」
「正直に言うと、少し驚きました」
「そうだよね」
「はい」
琉偉は一度視線を落とし、言葉を続けた。
「でも、陰性だったことについて安心した気持ちもあります」
「安心?」
「はい」
「以前も話しましたけど、俺は本当に巳波さんとの子どもが欲しいと思っています」
巳波は静かに聞いている。
「でも、それは”今すぐ”じゃなくてもいいと思っています」
「……」
「もちろん、もし本当に授かったら、俺は全力で支えます」
「うん」
「大学も、仕事も、生活も全部含めて、責任を持つつもりです」
琉偉は真剣な表情のまま続けた。
「ただ、今の巳波さんは仕事もすごく忙しいですし」
「配信もあります」
「撮影もあります」
「握手会もありました」
「だから、まずは巳波さん自身の体を大切にしてほしいです」
巳波は少し目を細めた。
「……優しいね」
「優しくないです」
「いや、優しいよ」
琉偉は少しだけ笑う。
「俺はただ、巳波さんが元気でいてくれるのが一番なので」
「もし無理をして体を壊したら、たぶん俺が一番困ります」
巳波は思わず笑ってしまった。
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味です」
「困るんだ?」
「はい」
「すごく困ります」
「毎日」
「かなり」
真面目な顔で答える琉偉を見て、巳波は肩を震わせる。
「ふふっ」
「そんなに?」
「はい」
琉偉は続けた。
「だから、何か体調に変化があったら、今後も必ず教えてください」
「一人で抱え込まないでほしいです」
「俺は家族なので」
⸻
その言葉に、巳波はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく呟く。
「……うん」
「分かった」
「ありがとう」
⸻
しばらくして、今度は琉偉が昼間の話を始めた。
「そういえば」
「うん?」
「今日、蒼と彩音から提案がありました」
「提案?」
「今度四人でボウリングしませんかって」
巳波は少し驚く。
「私も?」
「はい」
「蒼も彩音も、一度一緒に遊びたいって」
巳波は少し考え込む。
「ボウリングかぁ……」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないよ」
「むしろ楽しそう」
「ただ」
「?」
「変装は必要かな」
「そうですね」
二人は顔を見合わせる。
「帽子」
「マスク」
「眼鏡」
「あと人が少ない時間帯」
「平日の昼間とか」
「それなら大丈夫かも」
巳波は少し嬉しそうに笑った。
「久しぶりに友達と遊ぶのもいいかもね」
「蒼と彩音も喜ぶと思います」
「じゃあ、今度予定合わせよう」
「はい」
⸻
夜は静かに更けていく。
将来のこと。
家族のこと。
友人との時間。
どれもまだ途中だった。
それでも二人は少しずつ、一歩ずつ同じ未来へ向かって進んでいた。
窓の外では、戸塚の夜景が静かに輝いていた。
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