山上の問答
久方ぶりの雨は恵みであった。
ケイデーの山頂にほど近く、鈍な刃の如き葉を生やした巨木の群れは絶えつつある。荒削りな大小の岩塊が男女の視界を占める。革紐で編み上げた履き物の裏に、青年はその存在を知覚する。
彼らは事実、頂を間近に捉えていた。捉えながら阻まれていた。
大気はもはや陽を通さず、ただ音を伝えるのみ。肌に、である。断続的に破裂する極低音が振動となって届いた。
平地の民として生きたリュクルスとて雷雨の兆候程度は理解しているが、その嗅覚において山に生きるシャルメには到底叶わない。彼にできたのは羊を抱えることくらいだった。
「リュクルス!」
繊細な、時に媚態とすら感じられた女の声は、このとき明らかに趣を異にしていた。粘ついた空気を鋭く切り分ける呼びかけは、やがて降り注ぐ豪雨の先触れを躱し、確かに青年の耳に届いた。
女は身振りで下りを指示する。
彼らはまさに境界に在った。
進めばもはや木々はない。つまり、彼らの身代わりを引き受けるものは何一つ。
広くペルピネの地において、雷は神慮の表れとして知られている。神々はその隔絶した権能をもって、限生の者に彼らの分限を知らしめる。リュクルスもまた、当然のことながら理解している。にもかかわらず、彼は今、雷轟く神域に踏み入る間際にあった。
遙か昔、ラケディア建国の祖アルトクレスは、まさにこの先、ケイデーの頂において戦神マヌとまみえた。そして遠くペルピネの沃野に、新たな都を築くよう神託を受けた。ゆえに、ここはマヌの地である。
戦神の意思は雷鳴に表されていると、彼は信じた。信じるというよりも、それはごく当たり前の、疑いようのない事実であった。宙で手放した石が地に落ちると同程度に、当然のことであった。
彼は一瞬の逡巡の後、おもむろに身をかがめ中腰となり、先刻まで直立させた長槍を水平に持ち変える。轟音に竦み身をよじる子羊を左脇にしかと抱きかかえ、後退するシャルメを追おうと試みた。
雨粒は兜を叩き、耳にその勢威を伝える。はじめ散漫にあった打音の間隙は、今や一部の合間もない奔流となった。
事実、彼は意思したのだ。不慣れな環境にあって、経験豊富な案内人の指示に従うのは恥ではない。生き延びるための常識的な行動である。
しかし、青年は動かなかった。否、動けなかった。
男の精神は肉体を動かさなかった。
——リュクルス! 往け! 頂へ! 頂へ!
両の耳に炸裂する声は、これまで青年が知己を得た人々のそれであった。
ラケディアの僚友達、パレイオス、エイレーネ、師父カミノス。
そして旅の最中に出会った者たち。ゲルギウス、ゲルダ。マルガリティア。本来「正しい言葉」を話すことができぬはずのシャルメですら、そこに加わった。
声は空想の産物ではない。実体なのだ。
青年の耳の奥、鼓膜を震わせる一個の現象である。雨音と同程度に、それは現実である。
もはや驚きも違和感もない。
声は青年の友である。それこそが彼をして光輝あるラケディア市民の身分を捨てさせ、緑壁を彷徨わしめた大本であるにもかかわらず。
彼はそれを自身の異常性、狂気の証であると考えてきた。透徹した理性は。
しかし、ケイデーの頂を視界に捉えた今、声はリュクルスの心内においてその意義を変じつつある。
声をもって、自分は導かれているのではないか、と。
思い返せば、声は常に青年を駆り立てた。彼が為し得ぬこと、欲さぬことを敢えて為すように、と。声は一人の青年を死出の旅路に送り出した。声は一人の隷民の少女を生かした。
声は倦みと停滞を許さない。安穏もまた。
ラケディアの城門を後にしたとき、この神の山に辿り着くことは決してなかろうと推測していた。緑壁のいずこか、人知れず斃れて土に還るのだと。それは明白な未来であるように思われた。だが今、驚くべきことに、彼は山を征しつつある。
雷雨と同様、声もまた神慮かもしれない。その思惑もその関係性も知ることは叶わないが。
並行する二つの徴を前にしたとき、青年に為しうることは一つしかない。判断は不可能である。それは人の限界を超える。
ならば心の赴くままに為すことだ。
往くことだ。
リュクルスは曲げた腰を勢いよく伸ばす。
下げた槍の穂先を再び空に突き立てる。
彼は戦士である。世に聞こえたラケディア、麗しの都の。少なくとも、偽りなく、かつてはそうだった。そのような男にとって、身をかがめ逃げ回る素振りは相応しくない。
青年は一歩踏み出した。頂の方へ。
目前の景色すらも朧気な嵐の中を。
「リュクルス!」
女の声はもはや遠く、あたかも幻聴の如く在った。
——リュクルス! 頂へ! 頂へ!
比すればこの声こそが実体であった。声こそが。
「ああ、行こう。……さあ、アルカン。おれと共に」
雨水を存分に吸って体毛を萎ませた〝僚友〟に、青年は語りかけた。
◆
兜の隙間から瞳が捉えた世界は、そう長くもない青年の生涯において一度も体感したことがない表象である。
それは渦である。
絶え間なく湧き上がる風と石礫のごとき雨粒が、押しては引き、引いては押し、角逐を重ねながら巻き上がっていく。上方へ。上へ。
剥き出しの腕と足。肌の表面は気温の急激な低下に反応した。分厚く日に焼けた皮膚の下、微細な筋が収縮し、体毛を立ち上げた。
歩を進めてどれほどの時が経とうか、あるいはどれほどの距離を進もうか、既に体感を失して久しい。
彼を取り巻く世界はひどく単純なものとなった。右の手のひらが握りしめた長槍の柄。左の手のひらをくすぐる生き物の毛。足裏を突き上げる小石の凹凸。負った円盾と背の隙間を汗とも雨とも付かぬ水流が駆け抜けていく。
やがて男は立ち止まった。
そこが目的の地であるかどうか、定かではない。全く。もうずっと、視界は深い灰の渦に占められたままだ。
よって静止は理由を持たない。
世界中の誰に、あるいは神々にさえ、どう尋ねられようと、彼は答えることができなかっただろう。ただそこに在るべきであると感じたのだ。
「ラケディア、麗しの都の市民、名にし負うテルパエの勇者、執政官テセウスの子リュクルスが、正しき威儀以て戦神マヌに告ぐ! 我、御身の愛し子ラケディアの総意を負いてここに立つ」
高らかに響く口上は、聴く者一人としてない嵐の中にあってなお、周囲を揺るがした。
彼は両手で槍の柄を掴み、その石突《尾部》を大地に勢いよく突き立てると、厳かに数歩後退する。地に下ろされた子羊もまた、僚友の行動に倣った。
一人の戦士と一匹の獣は天突く槍を前に屹立する。
両の足を開き地を踏みしめたラケディアの男を、揺るがしうるものは何もない。
「我、御身に願う望無し。ただ、今の先司る女神アポリアか、或いは御身、武勇名高き戦神マヌか、或いは未だ限生の者が知り得ぬ未知なる神か、かの教導によりて参上した次第」
リュクルスは燔祭を催す意志をとうに捨てさっていた。
口も頭もその決断を認めることは決してなかろう。相変わらず彼は言うだろう。「戦神マヌに子羊の香気を捧げる」のだ、と。しかし、他者はいざ知らず、自身の内心を欺くことは不可能である。
彼はアルカンと共に在りたかった。理由は定かではないが、とにかくそう感じていた。心理の二重底のさらに底において。
ゆえに天候は好都合である。この大波の如き雷雨の中で火を焚くことなど到底無理なのだから。この物理的な、天与の——断固たる障害を青年は喜んだ。それは事実、不可能なのだ。
仕方の無いことであると彼は考えた。だからこそ、無意識に、彼はシャルメを無視して歩を進めたのである。
燔祭を執り行わぬのであれば、ここにおいて為すべきことは何があるだろうか。
羊の喉を掻き切り、毛をそぎ、薪の中で肉を燃やすよりも大切なことが確かにある。
かつてはいざ知らず、今の彼には。
それは一つの問いである。
「我、御身に問わん。その意を。何故に我をしてこの地に至らしめんか!」
喉も裂けよと発する絶叫は哀願であり、告発であり、慨嘆であった。
リュクルスは心の底から願った。天上の黄金から成る見事な鎧を纏い、地下の灼熱に鍛え上げられた鉄槍を手にしたマヌ神の顕現を。そして自身に告げるのを。
その運命を。その役割を。
より直截に述べるならば、青年の問いは意義を質すものだ。
何の?
リュクルスという人間の存在そのものの。
自分は何のためにこの世に在るのか。
かつての彼にとって答えは自明であった。ラケディア、麗しの都の繁栄を支える礎となるためである。つまり彼は肉の形をした石塊であった。
翻って現在、彼は肉の形をした肉である。ラケディアはもはやリュクルスを求めない。ならばなぜ、彼は生きるのか。
朧気ながら希望はある。
森の民の中で、あるいは半身ラケディアの兄妹と対して、そして何よりも名も無き村で拾った隷民の少女と接するうちに、それは芽生えた。
だが、依然夢想に過ぎぬ、大それた、神をも恐れぬ野望とすら感じられる。この大地に新たな何かを創り出すなどとは。
ゆえに青年は欲した。全霊を持って欲した。その大望が神に嘉されることを。許され、加護を授かることを。戦神マヌの名の下に。
変わらず黒灰の渦と化した天を見上げるリュクルスの臑に何かが当たる。
一度、二度、三度。
足下に視線を落とすと、果たしてそこには子羊が居た。
恐るべき疾風をものともせず、横殴りの雨を受けてなお、子羊は常変わらず頭突きを繰り返す。
「ああ、おまえもおれと共に祈ってくれ。おれはおまえを捧げはしない。この雨はつまり、マヌがそれを望まぬことの証だ。だからきっと、おれとおまえは、もう少し生きるんだ。共に」
真心の籠もった言葉を受けてなお、最も旧いこの僚友は青年の願いなど気にも留めない。
彼が欲するものは幾ばくかの野草と自由である。自由とはつまり、気儘であることだ。
証拠に小さな獣、水をたっぷり吸ってすっかり萎れた体毛を纏わり付かせた肉は、軽快な足取りで遠ざかっていく。
「アルカン!」
リュクルスは大股で後を追った。
恐らくは、彼がこの世に生を受けて以来初めて覚える情感ゆえに。
あえて言葉とするならば、寂しさとでも名付けるべきもの。
独り在ることを青年は恐れた。今、神前においても、今後、残された日々においても。
ここ、ケイデーの頂において、青年はついに人となった。矮小にして卑俗な、取るに足らぬ生き物に。
かくして問いの時間は終わりを告げた。
答えはほどなく、もたらされた。
◆
アルカンをその射程に収め、一息ついて振り向いたとき。まさにそのとき、青年の視界は永遠に焼き付いた。
眼前の長槍から伸びた薄青の光は、果てしなく、遙か天上に至る巨木と映った。
ペルピネの大地すべてを覆い尽くしても足らぬほどに広大な、水晶でできた無数の枝葉の天蓋は、一つの幹——槍の柄へと収束する。
それは青年が最後に視た図像である。
十の火矢を十度。それをさらに十度集めたほどの閃光が、瞬きの欠片にも満たぬ間、世界を照らす。
光の矢は青年の黒い瞳に見事、すべて、ねじ込まれ、頭蓋の内を飛び回る。
痛覚は蒸発した。後に欠片も残らぬほどに。
青年の肉——たくましく、太く、密な、しかし水気の多い、ぶよぶよした塊は、弾かれ宙を舞った。
意識と呼びうるものの一切が飛び散った。残されたのは統御を失した思念である。リュクルスという名の付いた個は干上がってしまった。
にもかかわらず、何かが在る。
二つの甕から一つの杯へ、二種の液体が注ぎ込まれる。それは瞬時に混交し、新たなそれへと変容した。
便宜上の呼称と化したリュクルス——彼は、それと同一の存在となった。
ゆえに見た。
やがて朽ちる白亜の都を。
遠く見知らぬ大地に立ち上がる新たな人の営みを。それは一都市を優に超え、想像を絶する国家となり、人が生きる世界のすべてを覆い尽くす。
だが、かの栄華もいつしか瓦礫に帰しては、再び野に人が産まれる。彼らは懲りずに槍を取り、矢を放つ。極彩色の布をはためかせ、衝突する人馬の群れを見た。
そして瞬時に転ずる。槍は極小の粒を発する筒へと、弓は極大の岩を発する筒へと。馬の嘶き。旗。地を埋める人の群れ。
陸も見えぬ遠海を堂々と往く船。そして空を駆ける巨大な鳥。
リュクルスは決して見なかった。何も。
彼は注がれたのだ。
男の身体は一個の杯である。
杯は酒を飲まない。身に受け、貯めるのみである。彼は何も理解せず、何も得なかった。ただ注がれ、満たされた。
無意識と意識が混ざり合い、何らかの反応が生起した。青年の頭蓋の中で。
神は——神々は答えた。矮小な限生の者の増上慢に。
その権能たる雷を以て。
青年の四肢は地に落ち、微細な震えを繰り返した。
兜は飛び散り胸甲は焦げ、腕は萎え、足は陸に打ち上げられた魚の如く不規則に蠢いている。
傍らには横たわる子羊は、最後まで青年の僚友であった。
それは二つの死である。




