森林の問答
久方ぶりの雨は恵みであった。
ラケディアの戦士達にとって、豪雨は明らかに歓迎すべき状況である。雨はすべてを消し去るだろう。音も匂いも、あるいは気配も。よって彼らは複雑な計画を立てる手間を省くことができた。
本来であれば、魔物の巣に飛び込むにはそれなりの準備を要する。何せ相手は魔物である。奇怪な鳴き声を上げ、見苦しく跳ね回る。多少頭の回る個体となれば、弓のごとき武器まで使う。
パレイオス、エイレーネ、ダイオスと、三人から成る立派な小隊列が組まれた以上、敵が五匹、十匹程度であれば問題にならない。だが、相当な規模に育った巣が、その中にどれほどの小鬼どもを蔵しているか見当も付かない。
ゆえに彼らは慎重を期するべきであった。
正面入り口とおぼしき樹木の回廊からはパイレオスとエイレーネあるいはダイオスが堂々と乗り込み耳目を惹く。その隙に、裏手の粗末な生け垣を抜け、もう一人が侵入して目に付く限りの脆弱な魔物どもを屠る。正面に戦闘可能な成体を誘引しながら、手薄になった後方の〝内臓〟を食い破るのだ。
だが、このようなお決まりの戦術すら、豪雨の最中にあっては不要である。水煙る巣内に侵入し、目に付く限り片端から小屋を襲えばよい。
大きさから察するに、並ぶ木組みの住居は多くの個体を収容できるほどの空間を持たない。ならばラケディアの小隊列は存分にその力を発揮できるだろう。平原を舞台に数千の規模で衝突する戦とは異なり、小隊列は個の戦いのために編成される。在るべき場所は隷民の村であり、隷属都市の広場である。長槍を脇に抱えながら、巧みに剣を振るう。知らぬ者が見れば舞踊と見紛うほどに、彼らの戦いは優雅な営みであった。
パレイオスを先頭に、後方をエイレーネとダイオスが固める。彼らは木立が織りなす天然の城門を難なく抜け、広場に躍り出る。
そこに人影は無い。
もとより魔物の巣である。人などいるはずもないが、加えて豪雨が魔物達をしてその粗末な小屋に逼塞せしめた。
「雨も善し悪しだなぁ!」
パレイオスの大声すら、地に刺さる無数の水滴に抑えられてしまう。
「善しは分かりますが、悪し、とはなぜです?」
ダイオスの疑問は、彼の経験不足を如実に表していた。
「この雨では火が付かないでしょう? 付けば色々な面倒が省けるの」
エイレーネが淡々と答えてみせる。
比較的乾燥したペルピネの平地において、付け火はもっとも簡単な「駆除」の手段であった。ただし、種を放れば済むほどの手軽さはない。燃えやすい部分——大抵は藁葺きの屋根だが——に的確に着火する必要がある。
「ああ、なるほど。しかし、それでは些か盛り上がりに欠けますね」
「盛り上がりとは! ダイオスよ。ダイオス。我らはそれを楽しまない。楽しむべきではない。我らの槍は光輝ある使命のもとにこそ輝く。忘れるなよ?」
獅子の如き、とあだ名されるこの堂々たる青年の答えは、ダイオスにとって少々意外でありながら、得心のいくものでもあった。
「まるでリュクルスのような口ぶりね」
女の軽口に対して、パレイオスは傲然と言い放つ。
「認めよう。エイレーネ! 俺はかつて信じていなかった。心の底からは。ラケディアを背負って立つなどと。もちろん、助け、支えはする。だが、神すら見通せぬこの人の内奥、心の奥底には常に、一つの思いがあった。それを背負うのはリュクルスだろうと」
不意を突かれたエイレーネはとっさに答えを返すことができない。これまでの男の言動から考えれば、あまりにも意外な告白であった。大規模な魔物の巣、そのただ中で語り出すには重すぎる。
「だが今は、かの勇者不在の今は、俺がやるしかあるまいよ。ラケディア、麗しの都の精華は我らの行動にこそ掛かっている」
言うが早いか、男は一歩歩を進める。
泥濘の塊が跳ね上がり、その臑を舐めた。彼は両の足を開き、右手の槍を地に突き立てる。そして述べた。
否、咆哮した。
「ラケディア、麗しの都の市民、国王ガノスの子パレイオスが告げる! 汝ら、人語を解さぬ哀れ魔物なれども、欠片なりとも勇あらば、我が眼前へ参れ!」
◆
濃密な降雨の幕を透かした先に一つの影を認めたとき、パレイオスは全身を震わせた。終わりなき水浴が冷やした身体の生理的な反応か、あるいは、飽いた精神の高揚か、いずれにせよ、彼にとって対手の存在は喜ばしいことであった。
彼我の距離が縮まるにつれ、自身が呼び出した〝もの〟の体躯が想像以上に立派であることに気づき、鼓動はさらに高まる。
エイレーネとダイオスはといえば、棒立ちを崩さぬパレイオスを護るように前に踏み出すと、盾を掲げ槍を構えた。
ラケディアの長槍が双方に交わる間を残して、〝それ〟は歩みを止める。その後の振る舞いは、三人の戦士を瞠目せしめるにふさわしいものであった。
パレイオスを凌ぐ巨体を誇る男は、相まみえたラケディア戦士と同様、手に握った槍を軽々と地に刺す。そして述べた。朗々と。
「ラケディア、麗しの都の市民、光輝ある燔祭の使いたりしガイオンの子ゲルギウスが、威勢を以て汝らに告ぐ! 緑壁深くこの地において、用あらば我に告げよ」
名乗りに続いて訪れたのは静寂である。雨音は見事にかき消された。少なくとも戦士達の耳からは除かれた。
彼らが知覚し得たのは、自らの息を呑む音だけであった。
「……僚友か?」
常に余裕ある振る舞いを崩さぬパレイオスだが、さしものこの名乗りには驚きを隠せない。問いとも独語ともつかぬ一言を残し、正対する男を凝視する。
ゲルギウス。そう名乗った男の出で立ちが確かにラケディア戦士のそれであることは一目で分かる。加えて「正しい言葉」で「正しい名乗り」を為したのだ。
「ゲルギウス? 聞いたことのない名だわ」
エイレーネは努めて冷静に、半ば自身に言い聞かせるが如く呟いた。
その声色から推察する限り、眼前の偉丈夫は比較的若い。パレイオスや自分とさして変わらぬほどに。ならば当然のことながら、その存在を皆が把握しているはずだ。幼少期から〝少年団〟で共同生活を送る中で、ラケディアの若者たちは一人残らず顔見知りとなる。にもかかわらず、エイレーネの記憶にその名はなかった。パレイオスを凌ぐ立派な体躯から考えて、名を忘れ去られるほどに軽んじられることはありえないはず。
にもかかわらず……。
熟考の間もなく、男が語りかけてきた。
「あなたの名は?」
「エイレーネ」
ラケディアにおいて、女は父の名乗りを持たない。ゆえに簡潔に名を述べた。
「エイレーネ! エイレーネとは、あの?」
緊迫した状況からすれば場違いな、若干の稚気すら混じる歓声に彼女は困惑を隠せない。
「あの、とは? 無礼は承知ながら、私はあなたのことを知らないわ」
「ああ、いえ、ただ驚いたのです。これほどに巧妙なマヌ神のお導きに。——あなたのことは我が隊列の僚友より聞いています」
「きみの隊列? それはどの隊列だ? 誰のものだ?」
パレイオスがすかさず問いかける。心なしか前のめりな口調は、ある答えを待ち望む心象をこの上なく明白に表している。
果たして念願は成就した。
問い。
男——ゲルギウスが望んだものはまさにそれだった。誰の隊列か。それこそが問題なのだ。
「それは、麗しの都の執政官テセウスの子、リュクルスの!」
「リュクルスの!」
パレイオスが喝采とも嘆息ともつかぬ言葉を漏らす。音節の一つ一つを噛みしめるように、それはなされた。
「これで得心がいった! 我らはここでも先を越されたわけだ。石の如きリュクルスに。なぁエイレーネ、なぁダイオス。あいつはこの地の果て、緑壁においても、見事ラケディアへの奉仕を貫いた!」
豪雨と兜が視界を著しく狭めるこの刹那、広場に立つ四人の男女は互いの表情をじっくりと吟味する余地をもたない。頬当ての下に何があるのか。瞳を。眉を。口元を。ただ声だけが真情を伝える。
パレイオスの発したそれは明らかに喜悦を含んだものであった。
「では、リュクルス兄はどこに? 事を終えた今は、もはやこのような巣にとどまる必要もないでしょう。我らと共に」
ダイオンもまた、少々浮き足だった口ぶりで隊列の主に続いた。
「……生憎と、今は所用で山に。ええ。……後一日か二日で帰り着くでしょう」
巨躯の青年は微かに語調を乱したものの、パレイオスは気にしなかった。
「では待とう! リュクルスのことだ、すっかり掃除を済ませてあるだろう。ならばこの魔窟さえも雨宿りにちょうどいい。ところで、確認するが、山とはケイデーの?」
「……はい」
「燔祭! ということは、例の女も共に?」
「例の女とは?」
訝しげなゲルギウスの問いにダイオンが答える。
「兄が緑壁に到る前、ペルピネの地で従え、引き連れた隷民の娘です。居りませんでしたか? ともに」
両者の距離は依然広く在る。
長槍の穂先がふれあうには、未だ遠い。
「……その女に、何かご用があるのですか?」
青年は返した。問いには問いを。可能な限りの落ち着きを払って。
その様を、二つの瞳がじっと眺めていた。女の。エイレーネのそれが。
彼女は自身の隣に立つ、〝初のつがい〟とあらためて定められた男のことをよく理解していた。彼は決して愚かではない。戦士に相応しい注意力と気配りを備えている。並の者よりもよほど優れたものをもっている。
パレイオスはラケディア戦士の理想に限りなく近い存在である。だが、理想そのものとはなりえない。彼が強者であるがゆえに。獅子は何者も恐れない。何者が眼前に、あるいは背後に現れようとも、それを駆逐し、屠る自信を持つがゆえに。
その点において、獅子の好敵手たるあの青年はまさに対照的な存在であった。リュクルスは自身を強者とは考えない。また、敵を弱者とも考えない。要不要のみが判断の基準であった。彼は必要とあらば誰でも殺す。親も、最も親しい友も。一方で、不必要となれば指先一つ動かさない。積年の恨みを抱く仇敵に対してさえ。
緑壁周辺の〝間引き〟において幼体を屠るのは常にリュクルスの役目であった。パレイオスは敵のあまりの脆弱さに白けてしまう。彼女はといえば、決して公言はできないが、哀れみとも罪悪感とも付かぬ処理不能の情を覚えてしまう。だが、リュクルスは常に淡々と事を為した。
リュクルスとパレイオス、二人の男を心内に比較しながら、エイレーネは眼前の〝聞き知らぬ僚友〟を凝視する。
自身と同様、ダイオンもパレイオスも恐らく気づいている。だが、パレイオスは気にも留めない。彼は獅子だ。獅子は何者も恐れない。
エイレーネは無言で注視した。ゲルギウスと名乗った男の足の先、つま先を。臑の膨らみを。両脚の開きを。
それらはすべて、一つの行動の予兆である。
戦いの。
「ああ。その女。その女は、猛きマヌか、あるいは糸紡ぐ女神アポリアか、あるいは我らがまだ見知らぬ神か、いずれにせよ、天界の主達のどなたかに嘉された巫女であるかもしれない」
「巫女、ですか」
「俺はそう信じている。何せ、元はつまらん隷民の娘だという。にもかかわらず、ラケディアの光輝ある戦士リュクルスをして自身を守護せしめる。そのようなことは神慮の他にあっては何者も為し得ぬことだからな」
「それで、ご用とは?」
ゲルギウスの言にもはや揺らぎはない。
地に幾筋もの太い根を伸ばした大木のごとく、青年は在った。抑揚も、高ぶりも、怯えも、すべて無い。
エイレーネの胸中、その姿は微かな懐かしさをもたらす。かつては共に野を駆け、いずれつがいとなるべく定められていた男の面影を、女は見た。
その内心を知ってか知らずか、あるいは興味の外にあるのか、パレイオスは簡潔に返す。
「簡単なことだ! ——試さねばならない」
「どのように?」
「剣を以て!」
◆
ゲルギウスは生まれてこのかた緑壁の外に出たことがない。父ガイオンは事あるごとに自身の故郷ラケディアについて語ったが、口ぶりにはどこかしら煮え切らぬところがあった。それに気づいたのは真正のラケディア戦士リュクルスとの邂逅ゆえである。
リュクルスは彼をラケディアの市民とは認めなかった。決して。
つまり、その事実こそがラケディアの本質である。かの麗しの都は、他者を寄せ付けぬがゆえに麗しく、強い。緑壁という異世界で道に迷い食い物に事欠く様となっても、リュクルスの態度は変わらなかった。ラケディアにも〝森〟にも属さぬ青年にとって、その様は眩しく映った。
同時に、父が見せた曖昧さもまた浮き彫りになる。ガイオンはラケディアこそがこの世の理想を体現する世界であると事あるごとに息子に伝えた。そして、自身はそこにおいて純血の存在であり、息子たる彼もまたその光輝ある血を引く者なのだ、と。〝集い〟に住み、〝森の民〟の妻を娶り、森の恵みを食みながら、すべてを仮構に過ぎぬと言い続けた。かつて少年であった青年は信じ続けた。
ゆえに、正真正銘、森の外からやってきたラケディアの戦士を前にして、彼は両者の違いを認めざるをえない。真のラケディア市民は、市民でありつつ同時にそれ以外の者であることは決してできないのだと、彼は気づいた。
つまり、〝森の民〟のように生きながら、ラケディアの市民であり続けることはできない。それを為そうとすればどちらかを偽るしかない。
父ガイオンは〝森の民〟の中に生きることを仮の姿に過ぎぬと考えた。では、リュクルスはどうしたのか。
旅路を共にし、互いの背を守り戦う中で、彼はリュクルスから様々なことを学んだ。戦の作法と戦の実態について。長い年月をかけて培われ、濃縮されたラケディアの戦い方を彼は知った。だが、それはあくまでも技能に過ぎない。根幹に存在する自己認識——自分が何者であるか、という——について、リュクルスは確実に一線を引いていた。彼、ゲルギウスがラケディアの市民と認められることは決してないのだから。一方で、出会った当初のリュクルスは明らかに麗しの都の戦士であった。
変化は徐々に、緩やかに起こった。リュクルスは溶解していった。森の濃密な湿気の中で、白亜の石は苔むして、やがて崩壊する。彼は当初ラケディアへの憧れから、リュクルスをその象徴として〝兄〟と慕った。しかし、自身の身体が腐り果てていく、あるいは変容していく様に苦しみ、抗おうと試み、果たせず、屈する姿は、象徴を人へと変えた。そしてこの〝上の集い〟において、ついにリュクルスは決定的に変わった。彼はもはやラケディアの市民ではなかった。
緑壁は全てのものを地に溶かし、養分とする。鉄剣も兜も、人も。よってかの戦士が辿る未来には、なんら特別なところはない。
重要なのは一点だけだ。かのラケディア人を際立たせるものは。
リュクルスは仮構に逃げはしなかった。かといって、森の民と同化しようとも望まなかった。新たなものを生み出そうと試みた。
物心ついてすぐに父を亡くしたがゆえに〝森の民〟の影響色濃い妹ゲルダ、そして平地からやってきた金の髪の少女。この二人の女たちの存在は大きかったことだろう。男たちはそれを護らねばならない。
隊列がゲルギウスとゲルダの兄妹だけであったならば、リュクルスは選ぶことができた。〝森の民〟として生きることを。しかし、隊列にはもう一人いるのだ。ペルピネの野に生まれた者が。リュクルスは隊列の主である。よって僚友を見捨てることはない。一人として。
ゲルギウスはかくの如く理解していた。
理屈ではない。何かが起ころうとしている。
平地と森と山の狭間に、どこにも居場所を持たぬ男女の集団が、何者かになろうとしている。
金の髪の女、マルガリティアは言った。何者かになるために山頂へ向かうリュクルスに。
「イリスの祭司マルガリティアは告げます。リュクルス。見事異神の山を征し、帰り来たりし後、イリスの祭司はあなたに授けましょう。——神の御裾の下に」
その声は歌のように声は響いた。
「花の、冠を。王の」
と。
豪雨の中現れた新たな、真正のラケディア戦士達と相まみえながら、ゲルギウスは大凡の未来を推測した。
彼らが〝魔物〟をどのように扱うかについてはリュクルスから聞き知っている。否、より正確に述べねばならない。彼らが〝彼ら以外の存在〟を尊重することは決してない。戦士達はこの集いを文字通り皆殺しにする。
そして試すという。マルガリティアの運命——当人が述べる言葉に従うならば〝物語〟を。
ゆえに、結末は定まっていた。
明らかな不利を自覚しながら、ゲルギウスは不可思議な心境にある。高揚という。
彼は戦うのだ。本物のラケディア戦士と。
弓を携え物陰に潜む妹は、それが始まれば上手く立ち回るだろう。的確な射撃で一人か、あるいは二人を釘付けにするかもしれない。
ならば自身は耐え抜くのみである。恐らく倒すことは叶わない。だが、倒されなければそれでよいのだ。適度に損害を与え、時間をかけ、疲労を誘う。
つまり、天上から引きずり下ろせばよい。この泥沼の大地に。いかに無敵のラケディア戦士とて、人であることには変わりがない。いずれ弱る。息を上げる。そこまでくれば、〝上の集い〟の者たちが参戦しても大きく見劣りはすまい。
それは希望的観測に過ぎない。都合の良い展開を連ねたものだ。
だが、リュクルスから聞く限り、ラケディアの小隊列は状況に応じて退却することもあるという。大規模な戦において組まれる正規の隊列が引くことは決してないが、小隊列はまた事情が異なるという。
青年はその一事に賭けた。
「残念なことに、その女はおりません。リュクルスと共に山へ」
ゲルギウスは穏やかに述べた。
「まさに、残念だ! では待とう。帰りを」
「それよりも、山へ行かれてはいかがです? ケイデーに」
来る答を予測しつつも、青年は敢えて勧めた。それは一つの儀礼であった。
果たして、彼の想定は正しかった。
小隊列の主は答えた。
「いや、待とう。ここで。この空の巣で」
「空でなければ、どうします」
「簡単なことだ。ゲルギウスとやら。——ならば、空にするまで!」
青年は槍を引き抜いた。地より。
これより先、言葉は無用である。




