衣
「どうですか? ねえ、ゲルダさん。似合っていますか?」
微かに頤を上向かせ、得意げに語るマルガリティア。その姿はゲルダの常変わらぬ無表情を僅かに崩すに足るだけの軽快な滑稽さを秘めていた。
「マリィ……。もう三度目になる。その問いは」
「いいんです。ひょっとしたら、少し前のゲルダさんと今のゲルダさんは違う感想をお持ちかもしれません。それを確かめる必要があります」
「変わらない。そんなに直ぐには」
素っ気ない口ぶりながら、黒髪の少女もまた、このやりとりを楽しんでいた。
故郷の村を離れて以来、マルガリティアの質素な貫頭衣は埃と血に染め抜かれていた。元は透き通る金糸の如き髪が、汚れこわばるに任せるが如く。
彼女はそれを気にしなかった。正確には気にする機会も余裕もなかった。体感とするならば瞬きの間と思われるほどに、ここ一月は飛ぶように過ぎたのだから。生涯をそこで過ごすのだろうとぼんやり想像した馴染みの地は遙か彼方。今、少女は緑壁にいる。
そんな浮浪児と大して変わらぬ風体を気の毒に思ったのか、あるいは何らかの思惑を孕んでのことか、アステラが彼女に衣服を贈った。植物の荒い繊維を根気よく鞣した糸で編み上げられた黒染めのそれは、娘シャルメのお下がりだという。柔らかい手触りと鮮やかな光沢はマルガリティアの心を掴んだ。だが、理性は辛うじて抗った。
布は価値を持つ。
原材料の採集から始まり、紡ぎ、織り、染める工程を経て生まれる、いわば人力の結晶体である。故郷の村においても、それはラケディアへの貢納品——正確には、近隣の街に納めるのだが——であった。
母に教えられながら木製の粗末な織機を使った経験を彼女もまた持っている。ペルピネの大地に生きる大凡の娘と同様に。
母の手を覚えている。節くれ立った、しかし細い指を。最後は青白く強ばって、地に転がった腕を。それはかつて自分を抱きしめ、機織りを教えた手であり、腕であった。彼女は布の価値を隷民の村で学んだのだ。
「贈ること」の意味は緑壁で学んだ。贈られることと贈ることは対をなしている。今では友人と呼んで差し支えないほどに距離を縮めた森の民の少女ゲルダは、父の死をきっかけにして、ここ〝上の集い〟に「贈られる」予定だったという。無償ではあり得ない。彼女という贈り物に対してなんらかの返礼品があったはずなのだ。
幸いなことに、あるいは不幸なことに、贈答は行われなかった。ラケディアにかぶれた兄ゲルギウスの短慮が全てをご破算にした。兄妹二人の逃避行はラケディアの戦士との邂逅に到り、ラケディアの戦士は〝上の集い〟の男衆を粗方始末したが、その「返礼」は恵みを以て為されたのである。
自身に贈られる衣は何をもたらすだろうか。何をもって返礼と為すべきか。
マルガリティアはしばし思案の後、最も安直で最も大胆な行動に出た。直接尋ねるという。
「なぜこのようなご厚意をいただけるのでしょうか?」
「ラケディア戦士の連れ合いゆえ」
「では、お返しはリュクルスに求められるのですか?」
「無論」
「どのような?」
しばしの沈黙の後、小さなため息を一つつき、アステラは述べた。想像は付いているだろうに。そう言いたげな風情である。
「我らもまた、汝の在り様と変わりなし。ゆえに——基の木であることを以て」
「それは?」
「我らがその基に集う、唯一の大木たること」
簡潔にまとめてしまえば庇護、あるいは〝上の集い〟の指導者となることをアステラはリュクルスに求めている。マルガリティアはそう理解した。
「リュクルスは確かに強く健康な戦士です。でも、私たちは知り合ってまだ数日も経ちません。彼の性格も心根も分からないはずです」
「木に心はない。在るはその在り様のみ」
「では無理ですね。彼には心がありますから」
少女の瞳が細まる。引き潮の如く滑らかに。
彼女は青年に心があることを確かに知っていた。
ラケディアに生きたときのことは知らないが、少なくともこの旅路において接する限り、男は心を持っていた。道端に小動物を見つけて知らせれば、彼は少々鬱陶しげな、しかし微かに優しげな瞳で少女を見た。野営の夜風に震えれば、その盾を風除けにと寄越した。
ゲルギウスとゲルダの兄妹に戦振る舞いの稽古を付ける際の鬼気迫る表情と声色には、確かに情があった。二人が今後の戦いにおいて遅れを取らず、確実に生き残ることを彼は求めた。自身の利得のためではないだろう。それは新たな〝隊列〟のためであった。つまり、彼とその仲間の。
ゆえに青年を木石の如く見なすアステラに、少女は明確な不快感を示した。だが、返ってきたのは意外な反応——笑みであった。
「リュクルス殿はいまだ若木。若木は気儘に伸びる。だが、いつかは見事な枝葉を備え、我らを覆う。我らはその下で憩う」
リュクルスの望みをマルガリティアは理解している。〝隊列〟を拡大することだ。今は四人と一匹のそれは、やがて十人に、百人に、一千人になるだろう。そしていつしか名を変える。「国」と。
イリスの巫女たる自身がリュクルスの中に見たと同じものを、目の前の女もまた見ているのかもしれない。ならば不安はない。
彼女がかくの如く導かれたのは「物語」によってである。つまり、世界のはじまりに、その終わりまでが著された一編の神話《神の話》が、少女をしてリュクルスを見いだすことを強いたのだ。そしてアステラもまた彼女の「物語」の中において彼を見いだしたのだろう。
「分かりました。では、遠慮なく頂きますね。この見事な衣を!」
いずれにしても支払は先の話である。少女は安心して「贈り物」を手に取った。
◆
一昼夜、彼は迷妄の中をひたすら歩いた。見失わぬよう、数歩の距離で前を往く女の背を視界の傍らに常に置きながら、その他の意識は間断なく周囲を探った。
二人の間に会話はほとんどなかった。互いが知るのは名のみだ。ゆえに全ての指示は身振りによって為される。
緩やかに間隙が広がっていく木々の中、日の光を頼りに刻限を計っては、規則的に休憩を取った。
リュクルスとシャルメは並んで地に腰を下ろし、無言で佇んだ。女はときに、革袋から水を飲む。男もまた。
二人は互いの仕草を見つめた。それ以外の対象が存在しないのだから仕方がない。
否、もう一つ、対象は在った。
行路を往くにつれ、相応に疎らになっていく野の草を食む羊である。
女はその優美な人差し指で自身の胸元を指し「シャルメ」と発する。次に青年を指さし「リュクルス」と告げる。そして最後に羊を指して、無言で微笑みかけた。
「アルカン」
何気なく男は答えた。
そう。羊はアルカンといった。
答えた後、間隙を置いて驚きが胸に広がる。
シャルメは明らかにその生き物の「名」を問うた。つまり彼女は名付けるに値する存在と認識している。子羊を。そして同様のことが自身にも言えるのだ。
ラケディアの城門を出たとき、彼は羊を個として見なかった。それは羊に過ぎない。人に毛を供し、肉を供する獣である。だが、同行の少女がそれに名を付けた。戯れに。〝執政官〟と。
思い返せば、そこから全てが変わった。彼はいつしか羊を「認識」するようになった。彼と。明らかに無意識に、青年は変容を強いられていた。
「アルカン!」
たった今知った名で女が子羊を呼ぶ。アルカンは地に垂れた頭を掲げ、首を捻り、音の方を見た。そして歩み出す。自身の名が呼ばれた方へ。
——リュクルス! 女々しいリュクルス! 務めを果たせ!
「声」は告げる。青年は目を閉じ、それに耐えた。
ケイデーの山頂において、彼は子羊を屠る。道中集めた灌木の枝の上にそれを横たえ、炎に抱かせる。その香は天に昇り、猛きマヌの気を惹くだろう。
想像したリュクルスの脳裏に、ある少女の言葉が鮮やかに浮かび上がった。
まだ旅のはじめ、タンタリオンの街に辿り着く前のこと。羊の存在に疑問を持ったマルガリティアが彼に問うた。「なぜ羊を従者に?」と。
燔祭の遣いを簡潔に説明した男に対し、女は微かな笑みを浮かべて答えた。侮蔑の。
「戦士様の信じる神は、まるで人のよう。きっとお腹をすかせているんですね。ごちそうの匂いにつられてやってくるなんて」
無礼な物言いだが、彼は腹を立てたりはしなかった。それが挑発であることは明白であった。
「では、おまえの神はどうすれば、我らの存在に気づいてくださる? この、数だけは無数に在る矮小な我らの望みに」
対して少女は歌うように述べた。
「——嘆きの日には我を呼べ。我、汝に物語らん」
「それは?」
「聖句です。私たちはこの世において唯一在る方をお呼びします。それだけです」
「なるほど。随分と優れた耳をお持ちのようだ、その方は。にもかかわらず、残念なことに、村を焼かれた隷民の小娘の声は届かなかったらしい」
涜神ともいえる言葉を彼は吐いた。道理に合わぬことばかり得意げに述べる少女に、少々うんざりしていたところだった。
「いいえ。この世において唯一在る方は、確かに答えてくださいました」
「どのように? おまえの村は喪われたが」
少女の笑みは消えた。消されたのではない。消えたのだ。つまり少女が消した。
「今こうして、ラケディアの戦士様と共に在ることによって。それが私の〝物語〟です」
「なるほど。女々しい慰めに相応しい」
小さく肩をすくめる様をもって自身の言を否定する男に対し、少女はもはや何も言わなかった。
——嘆きの日には我を呼べ。
それは「声」と共に青年の耳を満たした。
我に返り傍らを見れば、シャルメが羊と戯れている。
羊はその小さな頭蓋を女の太ももに押し当てては離れ、離れては再び突進する。意外にも軽やかな嬌声をもって、彼女は彼を受け入れた。時折捕まえては背の辺りを少々乱暴になで回す。
そう。リュクルスにとって一人と一匹は、今や彼女と彼であった。
——どこに違いがあるだろうか。どこにも違いはない。語り合うことができないという一事をもって両者は同じだ。だが、もはや彼らを「物」と見なすこともできない。
「シャルメ」
意図も無く、意味も無く、リュクルスは女に呼びかける。
女は反応した。崩した足。黒く長い、くるぶしまで覆う衣の上、膝の上に、捕まえたアルカンを鎮座せしめ、男の方を見た。
「リュクルス?」
「ああ、すまない。意味はない。ただきみの姿を見て、声を掛けたいと感じただけだ」
伝わらぬと分かりながら青年は意図を説明する。意図は無いという意図を。よって女は理解した。そして「音」を発する。リュクルスもまた理解した。
結局の所、緑壁の先、ケイデーの頂を間近に控えて言葉は無意味である。ただ佇まい——在り方だけが何かを伝えうる。
リュクルスは羊を捧げたくなかった。
「ただ呼べば答えてくれるというマルガリティアの神は……寛大な方だ」
それは純然たる独語であった。
◆
「ところで。マリィはリュクルスのつがい?」
川辺の浅瀬、両手に布を持ち、流れに濯ぎながら、ゲルダが唐突に問う。
「……そう、見えますか?」
友の問いに顔を背け、殊更に手元の衣服をこすり合わせながら少女は問い返した。
「時々みえる。そして、時々みえない」
癖の付いた豊かな黒髪は、ゲルダの大人しげな容姿に一種の華——野趣を多分に含んだ——を加える。対するマルガリティアの姿は、血と垢で汚れた貫頭衣を脱ぎ捨てた今、明らかに大人びて見える。つまり、女に見える。
細密な幾何学模様で縁取られた高貴な衣を纏う、森の民の。
「私はずっと変わりません。いつもと同じです」
「違う。マリィは変わった」
「もちろん、見かけは随分変わりましたよ。頂いたこの衣と小まめな沐浴で。それまでずっと着の身着のまま、あてもなく彷徨っていたんですから」
相変わらず目も合わせず早口で返す友の様子に、ゲルダは正確な理解を示す。つまりこの少女は照れているのだ、と。
「それだけじゃない」
思わずマルガリティアは顔を上げた。予想外に重いその語調に。
「では、なんですか?」
「普通になった。普通の女に」
「私はずっと普通です。ずっと前から。おかしいのはリュクルスだけで十分」
「自分では気づかない」
「ええ。きっと。でもそれを言ったらゲルダさんだって同じですからね。前はもっと……」
言いかけて口ごもる。それが不躾に当たると理解していたからだ。〝森の民のようだった〟などと述べることは。友に対して。
「何を思ったか、大体分かる。でも逆に、マリィはそうなった」
「森の民のように?」
「そう。だから私たちは、ちょうどよくなった」
ゲルダが自身の変容にいち早く気づいたのは、リュクルスとマルガリティアの関係を間近に見たがゆえである。
かつて〝上の集い〟に嫁ぐことが決まった際、彼女はさしたる感慨を持たなかった。それはごく普通の、当たり前の出来事に過ぎない。性別の違いゆえか元ラケディア市民の父よりも純粋な森の民である母と深く関わり育った彼女は、つまるところ森の世界の住人であった。
そんな彼女が期せずして目撃したのが、ある男の苦闘——時には見苦しく、時には気高い——である。森に迷い込んだ青年は堅固な城の如き「常識」を備えていた。それが全く用を為さない緑壁の奥深くにあって、頑固にもそれを守り抜こうとした。
しかし一方で、異なる世界を受容しようと試みた。
流されるままに、ではない。それは受容ではなく吸収に過ぎない。緑壁に取り込まれただけのこと。彼女の父がそうであったように。
リュクルスは逆に、明白な意思を持って緑壁の一部を取り込もうとした。その行為が自己の同一性を崩壊せしめる可能性を十分に予見しながら、それでも敢えて望んだ。
だが、一連の指向が完全に個人的なものとして完結していたとも思われない。彼にそれを強いる者がいたのだ。
まさに今、所在なげに洗い物の布をしつこくこすり合わせ、羞恥に抗う金髪の少女である。
「ゲルダさんは……ひょっとして、その」
恐る恐るの体でか細く問いかけてくる友に、ゲルダはしかし容赦しなかった。
「リュクルスは悪くない男」
「そうでしょうか? 一月以上一緒に旅をしましたけど、私としては、あの人はあまりお勧めできません。確かにとても強いし、本当に時々は……頼りになります。でも基本的に頑固で他人の言葉を聞きませんから。あと諦めも悪いですね。しつこくて……」
ゲルダの目に映る少女は、まさに普通の少女であった。今はうち捨てられた生まれの〝集い〟で共に過ごしたキシュメやレトジと同様の。
彼女は普通の娘になったのだ。
「マルガリティ。強くて頼りになれば、ゲルダにはそれで十分」
◆
「あそこに。体格からして雌の成体。二匹ね」
エイレーネの低声は若干の堅さをもって響く。当然のことだ。それは戦い、あるいは駆除の仕事の始まりである。
対象からはかなりの距離がある。加えて狭隘な上流域とはいえ対岸。
「やるなら、こちらの渡河に気づかれぬよう魔物どもが十分に川辺を離れた後、追う必要があります」
小柄な戦士が囁く。〝隊列〟の主に向けて。
「見つけたからには放置は出来まいよ。本来の任務ではないが、我らが麗しの都への献身に上限は無いからなぁ。それに……」
堂々たる風采の男は気負った風もなく答えた。僚友たちの瞳が青年——パレイオスに集まる。
「雌体が二匹のみということは、要するに、近くに〝巣〟があるということだ。生きている巣が」
昨日通り過ぎた〝死んだ巣〟。五感を麻痺させるほどの腐臭を臆面も無くまき散らす汚濁の地を思い出したのか、エイレーネが柳眉をしかめる。
「そんな顔をするな。あれこそが誉れの徴かもしらん。僚友リュクルスの献身の」
検分した限り、野生動物に食い荒らされて極度に損壊した屍体は彼らに何の情報ももたらさなかった。魔物どもの仲間割れなのか、それとも、ラケディアの戦士が為した偉大な仕事の成果なのか。
逆に言えば可能性がある。リュクルスの。
「ならば、どうします?」
戦士ダイオスが指針を求める。
問いを受けた〝隊列〟の主は平然と答えた。そこには些かの強ばりもない。
「いま二匹のみを処分するよりも、少し泳がせて〝巣〟ごと潰す方がよかろうよ。——導いてもらおうじゃないか。我らを」




