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要編  76 天の雨



  シーン76 天の雨



 無気力にただ僕は、しばらく床に置いてある赤い表紙のファイルブックを見つめていた。“ 富士子が僕を待っている“ というのは・・ 本当だろうか・・・。トーキーの情報分析力は絶対王者的に超一流だ。心で、何かが、ささやかに、はかなふるえ出した。



 赤い表紙に深紅の鉢巻はちまきを思い出す。国男の赤いジュラルミンケースが走馬灯そうまとうのように脳裏に浮かぶ。あの日、mapで富士子の泣き腫らした赤い目を見た。富士子は僕の前でよく涙を流した。なんで、あんなに泣かせてしまったんだろう・・・僕は、笑顔だけを見ていたかったのに・・。



 ひどい事をした。「すまなかった」と呟いて、赤い表紙の上に指を広げた右手をおく。初めてあなたを見た日、理由なく、あなたを守りたいと思った。そう、思ったんだ。


 

 どこかあやうげで、何の不安もない家庭環境に育ったはずなのにどこか寂しげで、世界がひっくり返るほどの研究を手掛けている頭脳明晰ずのうめいせきな女性なのに、迂闊うかつで馬鹿げた意地を張り、ハイヒールで長い石段を上がって足を痛め付けたりもしていた。



 言葉をかわわすうちに魅了されていった。任務と割り切った僕にあなたは屈託くったくなく笑い、僕の言動をあの少し見開き気味に見える目で追っていた。



 あなたはどんな時でも正直な言葉を僕に語り、すさまじい怒りを僕にぶつけてもきた。あなたの前から、去らなければならないと苦悩した。




 あなたの身の上に起きた事が2度とないようにと、自由でいられるようにと、組織を瓦解がかいさせる為にコンテナ船での日々を僕は生きた。あなたを守りたかったんだ。望む結果を得た今、心にぽっかりと空虚くうきょの穴がいている。任務完遂の高揚感もなければ、達成感も、満足感すら感じていない。



 不眠を苦痛だと、受け止めてもいない。

 あなたの純粋を傷つけたのだから、当然の罰だ。

 僕は、そう思ってる。



 もう、誰も愛さないと誓った。

 そう誓った。

 ファイルを手元に取って引き寄せて、ページをめくってみる。



 富士子の近影写真が、笑いかけてきた。

 鼓動がねた。

 美しい。

 なんの迷いもない笑顔。富士子が笑っている。



 青白かった顔色はわずかに日焼けして健康的だ。瞳を包んでいた陰鬱いんうつの影はどこにもない。ベールを脱ぎ去って光だけをまとった富士子・・が・・いる。



 富士子に頬を打たれて・・流した血の味を今も鮮明に覚えている。今、この女性との関わりを断ち切った事をやんで、僕はグズグズと立ち止まっているのか。



 自答する耳に、雨音が届く。

 振り返って、窓を見る。

 大粒の雨粒が、トツトツと音を立てて窓ガラスを打っていた。



 赤いファイルを手に取って、窓辺に置いてある机に歩み寄る。雨空を見上げた。一面に広がる波打ちぎわのような砂色の雲の切れ間から、薄明光線はくめいこうせんりて来た。




 せられて「綺麗だ」と呟いた。

 突かれたようにファイルブックを机に置き、椅子に座ってページをめくる。

 ワイヤレスフォンを付け、大きくあごを上げた富士子の笑顔に・・陽光が降り注いでいた。




 背景の暗さが顔の陰影いんえい際立きわだたせている。笑みを浮かべた目尻に柔らかな稜線りょうせんたたえ、曇り一つなくきよい富士子だった。



 僕は、ここで何をしているんだ・・。

 

 可憐かれんな富士子。心から讃美さんびする。



 富士子はどんな曲を聴いているのだろう・・・・僕に興味が湧く。欲求から・・何かに興味をしめしたことがここ12ヶ月間あっただろうか・・・コンテナ船での生活は当たりさわりのない会話に終始し、文字を読むのも証拠や情報収集する為で、あんなに好きだった読書もせず、買い求めもしなかった。



 そんな僕が富士子の日々を知りたいと思えてくる。狂おしく、揺れる想いを抱き締めて知りたいと。ヒラヒラと舞い落ちる君への想いと共にありたいと思う。好奇心のかわきに心がり立てられて、次のページをめくった。



 資料を読み進んで負傷の激しさに怒りを覚え、精神の破綻はたんに心情が痛む。回復にいた過程かていを読んで情動がいだ。現状の平穏な暮らしぶりに感情のエッジがゆるんで、富士子の生命力に満たされた。想いのたけを抱きしめる。


 

 願いし夢は今もここにあった。

 この女性は光だった。

 光にらされたいと切望せつぼうする。

 無性にいとおしい。会いたい。



 視線を上げる。

 雨足は強くなっていた。

 裸足で部屋を出る。



 野外へと続く、長い廊下を歩く。いつの間にかに走りだしていた。建物から飛び出した。ピキッと小枝が折れる音がして足が止まった。僕は立ち止まっていた。



 地面に落ちていた枝を踏んでいた。人知れずった仲間の慰霊樹の枝だった。玄関前に植えられている桜だった。見上げる。幾百もの枝にはふっくらと実った花芽はなめ宿やどっていた。



 「そうだな」隣で殉職じゅんしょくしたあいつに“今じゃない“ と言われた気がして囁く。つぼみでていた顔をさらに上げ、しみなく降り注ぐ雨に全身を預けた。



 雨に打たれている要にファイター、トーキー、チャンスが駆け寄った。ファイターが要の前に回り込んで、大きな両手を要の左右の肩に乗せ「どうした!!」と叫ぶ。



 あおいでいた視線をファイターに向け「天に洗われているんだ」大声で答える。




 芯のある、ピリリとした要らしい声に、ファイターの両手にグッと力が入る。ファイターは雨に打たれるいかつい顔をくしゃくしゃにして「そうか!」と言い、要の右横に並んで天をあおぎ見る。泣いていた。トーキーは要の左隣に立ち、その右横にチャンスが並んで2人ともに顔を上げた。 トーキーは声を上げて泣きたかった。でも、すでにチャンスがしゃくり上げている。僕まで、自分まで、泣いてはいけない。



 天は4人の男に、存分に雨を降り注ぐ。

 男達が恵みの雨に打たれる。



 雨に身体を預けていた要が獣の仕草で水を切る。同じ仕草で3人も切る。互いに笑みを交わした4人は、肩を組んで建物内に入っていった。



 要の心身にねっとりと、まとわりついていた不浄ふじょうは洗い流された。“神よ。感謝致します。あなたが何故、僕を生かしてここに帰したか、これからその答えを探します“




 4人は共同浴場に入ると脱衣所で濡れた服を脱ぎ捨て、5つのシャワーブース内の4つにそれぞれ入ってシャワーを浴びた。要は熱めに温度設定した温水を存分に、心ゆくまで頭から掛け流す。心地良かった。髪と身体を丁寧ていねいに洗う。そして左隣のブースに立ち、身体の泡を流しているファイターにしずくしたたり落ちる顔を向け「ファイター、廊下も脱衣所も水浸しだ。僕が掃除している間にカレーライスを作ってくれないか?」と言った。




 ファイターは水滴が流れ落ちる顔を要に向け「わかった。お安い御用だ」と破顔する。要の右隣のブースを使っているトーキーはシャワーヘッドの下でうつむき、肩を震わせ始めた。その姿を見た要は「トーキー、ありがとう。お前のおかげだ」微笑んで頭を下げた。俯いたまま「とんでもありません」と言ったトーキーは泣いていた。自分を許して大泣きしていた。その右隣のブースで泣いていたチャンスは顔を上げ、温水が口に入るのも気にせず「朝カレーだ!」と大きな声を跳ね上げる。



 本当の意味でこれからだ。僕はこれからも生きてゆく。視線一つで意志をみ取ってくれる仲間と共に生きてゆく。1人だとなげくような事は金輪際こんりんざいしない。この男たちが誇れる人間になろう。そうなる為にどんな努力もいとわず、立ち向おう。



 「誰だ!廊下を水浸しにした奴は!!」管理者の長谷川が怒鳴どなり声を上げる。4人は互いに顔を見合わせ、声を上げて笑った。





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