要編 46 ランニング
シーン46 ランニング
今作戦行動に入ってから、初めて熟睡した。悪夢は僕に絡んでこなかった。
爽快な目覚めを得て、上半身を起こす。
身体も軽く、脳もすこぶるクリアで、スムーズに回転し始めた。
部屋を見回す。
整然と並んだ簡素ベットで、各自が睡眠をとっていた。
この部屋でチームが共に、就寝するのは初めてだった。
グリーンの常夜灯を頼りに、1人また1人と寝顔に視線を移してゆく。
どの顔も疲れていた。
日々、何かが起こっている。
作戦は変更と変化を繰り返し、未だ、敵の所在は不明のままで、ベータ要員・ビスケットの行方も掴めていない。その上、昨日の強襲だ。本陣の調査が、こんなに手ぬるいのはどうしてだ⁈・・指揮系統のどこかで情報漏れしているのか・・・・完全に、本陣、ベータ、アルファーは後手に回ってる。
1人1人の精神的な負荷が増しただけだと、寝顔を見て思う。
守りに徹しざるを得ない、国内での任務遂行の困難さも確かにあるが・・だ。
しかもアルファーは、富士子の幼馴染とその友人として、警備員として、日の当たる場所で緊密警護を行なっている。不肖の事態が起れば、特戦群・隊員の存在が露わになり、部隊が世論に晒されかねない。策を講じて、敵の先手を取る打開策を立案しなければ・・・。
ランニングに出て、クリアな脳にアドレナリンを供給しながら、考えることにする。
ロッカー側に両足を下ろし、身体を屈めて、ロッカーから靴下の入ったランニングシューズと、携帯リュックサックを取り出して、枕元にあるスマホを左手に持ち、寝具を整えて1階に降りてゆく。照明スイッチを入れ、青白い灯りを灯して気づく。中央テーブルの上に、救急BOXが置いてあった。
宗弥であろう。
手当てしろなのか。
右手に持っていた携帯リュックをポケットに入れ、ランニングシューズを床におく。白板の裏からパイプ椅子を取り出そうとして、白板に貼ってある富士子の写真が目に入った。
写真の顔の輪郭を右手の人差し指で、ゆっくりと撫でてみる。写真の富士子が反応するわけもなく、僕のとった行為は、心に虚しさを残しただけだった。
写真を見つめていると、ままならない想いが、クリアな脳を霞ませ始める。
脳全体を覆われないうちに、保身で動いた僕の身体は、惰性で白板の裏からパイプ椅子を取り出し、写真を見ないで済むように、白板を背にする場所に椅子をおいて座った。
シャツの裾を口にくわえ、両手の指先でパワーパッドを、慎重に剥がしてゆく。救急キットBOXから、消毒液パッドを取り出して消毒する。傷口を見る。宗弥の施した縫い目は綺麗に整っていて、周辺の皮膚は盛り上がり、赤く色づいていた。
消毒を終え、後頭部で両手を組み、左右前後に上半身を捻ってみる。
動きに支障はない。
さすがだ。宗弥。
抗生物質の軟膏を取り出して、丁寧に塗り込んで、新しいパワーパッドで傷を覆い、一息付く。視線の先にあるPC机を見て、確認書類はないかと思い、立ち上がって机の前に行く。整頓されたデスクの上に、富士子のスマホがあった。
ハッとした。
どうして、ここにある⁈
右手で取り上げ、最後に富士子がスマホを使っていたのは、ミニの車中だったと思いながら、スマホ画面を見ていると、定時設定されている時間になったのか、パソコンが起動し、富士子のスマホの位置情報を探索し始めた。
だか、この建物全体には、トーキーとターキーの手によって、ジャミングが張ってある。机の上のパソコン画面に位置情報エラーと表示され、僕はTVモニターを見上げる。
富士子の踵に埋め込んだ発信器は、富士子の位置情報を示して点滅している。その点滅を見つめ、富士子に対して、独りよがりの無力感を感じて、僕はスマホを元の場所に戻した。
パイプ椅子に座って、靴下とランニングシューズを履き、室内を整えて店外に出る。
見上げたナス紺の空と、照柿色の朝日に魅入られて立ち尽くす。何も手にしていないわけじゃない。日々、何かを得て、何かを失う。その繰り返しだ。「神よ、ギフトをありがとうございます」と呟いて、ゆっくりとしたテンポで走り出す。
10分ほど走って、ペースを掴み、速度を上げた。
走り始めて1時間、心拍数が上がり、酸素を求めて「はぁ、はぁ、はぁ」と息を吐き始めた頃、富士子の写真を見て、霞んだ脳に火が入り、緩やかに起動し始め、今後の作戦進行をどうすべきかと、考えを巡らせ始める。
盾石家には、こちらが用意した病院か、施設に移動してもらい、東京から遠ざける。その折、国男の聴取を行うよう進言しよう。機を捉えるのに、長けている国男ならば、自ら全てを告白した方が、今後の個人的な立場や、会社への損害は軽微で済むと考えるはずだ。
それ以後は、盾石家の警護をベータに一任し、アルファーは敵殲滅に赴く。トーキーとターキーの技量ならば、48時間以内にリストアップした不審者の行動確認は済む。
判明した襲撃者を1日か2日、追尾してアジトを割り出し、強襲して速やかに殲滅させ、アルファーは日本から迅速に離脱する。
20メートル先にある左手のパン屋が開店し、従業員が表に看板を出していた。朝焼けに、パンを焼く芳醇な甘い香りがする。僕は立ち止まり、コロンブスに暗号打電を打ち、ミーティングの要請を出した。
パン屋に入店して、あらゆる種類の調理パンを30個購入して、携帯リュックに入れ、帰路への道を走り出す。
あと数日で、確実に、警備任務は終わる。
現実味が増した。
泥を溜め込んだように、心が重くなる。
叫ぶようにスピードを上げる。
行くことしかできない道、過去へと流れる時間、置いてけぼりの心のまま、僕は走る。