要編 36 動揺
シーン36 動揺
左肩を僕は誰かに掴まれていた。揺り動かされて自分の左肩を掴んでいる手を、右手で振り払い退けたかった。それでも僕は、そんな事よりも、両手で握っている女の左手を離したくはなかった。
女の左手が、僕の両手を握り返す。
気持ちが通じ合えたようで嬉しかった。
女が振り返る。やっと、僕は、彼女の顔を見る事か出来る。
富士子は笑みを称えて、ここにいる。僕は笑う。富士子も微笑みを大きくしてくれた。
その眩しい笑顔に、幼児のようにうなずく。
目頭が熱くなった。僕はね、僕は・・君に素直でいたいんだ。君はどう思うんだろう。わかってくれるだろうか。・・・母さんが死にそうなんだ・・いや・・もう半分死んでる・・父さんは自業自得の入院中で、そういえば、あなたの父上も入院しているね。母さんに尊厳死はないんだ。生きる屍なんだ。まともな時に、訳がわからなくなった時の為に、選択できる制度があったら良いのにね・・だが、今の世界では、自分の価値観は言えない。作法さえ知らず恥知らずな行為に走り、パフォーマンスにしてしまう輩も居る。いつも他人が・・自分の事を決めてゆく。生きている時はほったらかしなのに、正気を失ったら尊厳や自由を建前として使う。血族は勝手気ままを口にする。
富士子は瞬きをした僕に「大丈夫?」と言いながら半歩近づき、僕の顔を覗き込んだ。
「すまない」と呟く。
「どうしたの?何を謝ってるの?行きましょう」と言うと、富士子は僕の手を引いて歩き出した。
だが、僕は左肩を掴まれて動けず、また揺り動かされた。
気をとられているうちに、握っていたはずの富士子の左手が離れてゆく。富士子がどんどん遠くなる。
「待ってくれ!!いま行くから!!」
もう、富士子は、振り向きもしない。
苛立った僕は肩を掴んで離さない邪魔者に振り返り、燃える目で睨みつけた。
そこで、夢は途切れた。目の前に宗弥の顔があった。「すまない」と宗弥が呟く。
つぶやいた後、宗弥が「要のスマホだと思うんだ。本陣からの暗号メッセージが、着信した時の振動音が聞こえて」と言った。スーツの内側ポケットに左手を入れ、スマホを確認する。宗弥が言った通り、本陣から暗号メッセージが着信していた。
宗弥に視線を向け「ありがとう」と言うと、宗弥は「いや」と言ってうなずいた。どうして・・僕はあんな夢を見たのだろう・・・。母さんが・・死んだか。いや、父かもしれない・・・放っておこう。変わりがあれば、兄から本陣に連絡がある・・自分から確かめる気はない。
視線を正面のTVモニターに移す。国男の様子に変化はなかった。暗号メッセージを解読し始める。
要は14:00、ICU から特別病室に移動する国男に、一定の距離をおいて付き添った後、監視病室に戻り、病室で待っていた浮子、国男、看護師3人との会話と動きで、集音マイクの感度、設置した監視カメラのアングルを確認した。
どの機器にも落ちはなく、完璧だった。
その後、PC機器前の1人掛けソファーの後ろに置いてあったパイプ椅子を、サイドテーブルの隣まで下げて座り、TVモニターを見ているうちに不覚にも寝落ちしていた。そして、宗弥に起こされた。
宗弥は要を起こした後、ベットの足元にあるソファーに座り、解読する要の様子を目の端に置いて、何かを考えている。
この頃の要は雰囲気がなお一層、刺々しくなってる。俺にしかわからない微妙なもんだが・・起きた時のあの目は戦闘時の眼差しで・・青かった・・何があった。・・俺も・・俺で・・・厄介な事を抱え込んだよ・・お前に相談できたらどんなにいいか。誰にも言えやしない。1人で解決するしかない。・・・どうしてなんだ、母さん。
そんな宗弥を要も気にかけていた。物思いに耽る時間が長くなった。時間を作って話をしなければと考えてはいるが、日々に追われて、やらねばならぬ事が追いかけてくる。アルファー総員の睡眠時間は平均で3時間。要と宗弥は不眠を抱えてもいた。
“ 何を考えて、そんなに気鬱になっている“ これが共通した要と宗弥の相手に対する心象だ。この時、話していればと遠い先、ずっと未来、後程の6✖︎6の9乗くらいの、のちほどに要と宗弥は強く後悔する。だが、時に追われ、仕事に追いかけられて、2人は機会を逸する。
本陣から要に送られた打電メッセージの内容は、“ 至急。秘匿衛星回線での直接通話求む。“というものだった。
迅速にパイプ椅子から立ち上がった要は、いつの間にかにmapから戻り、チャンスと交代して、PC機器前のソファーに座り、ヘッドフォンを装着していたトーキーの左肩に、左手をおいて注意を促した。
振り返って要を見たトーキーは、右手で右耳のハウジングを外す。要は「秘匿衛星経由で、本陣と通話したい」と伝え、「了解しました」と言ったトーキーは、テーブルの下から、機材ケースを取り上げて蓋を開け、手にしたインカムヘッドフォンを要に手渡す。
トーキーがパソコンキーを打ち始め、手渡されたインカムヘッドフォン装着して待つ。
短い発信音が2度きこえた後「本陣」と事務的な声で告げられ、「こちらアルファーチーム・チーム長・イエーガー。認識番号00110」と送る。「声紋認証、認識番号の確認取れました。コロンブスがお待ちです。どうぞ」、「お待たせしました、コロンブス。何かありましたか?」と聞くと、コロンブスは「心して聞け」と前置きした。心が身構える。
聞いている要の表情が、徐々に氷ついていく。膝の力がガクリと抜け、その勢いに抗えず、要は1歩下がった。両膝に、両の手のひらをついて深く項垂れ、静かに、深刻に呼吸している。
そして「コロンブス、スピーカーに出させて頂いて、あなたの口からもう一度、アルファーとmapのターキーに、今の話をして頂けないでしょうか?」掠れる声で申し出た。
「確かに、その方がいいだろう」とコロンブスは応え、「お待ち下さい」と言った要は一歩踏み出して元の位置に戻り、インカムヘッドフォンを両手で外して首に掛けながら、視線をベットで眠るファイターに、その横に並ぶ3人掛けソファーで眠るチャンスに向け「ファイター、チャンス、起きてくれ。こっちに来てくれるか」少し高音が震える声で言う。
その視線を宗弥の顔に移して「スピーカーの前に来てくれ」と伝える。
特殊戦群にとって、初の不名誉な情報に驚愕し、怒りを通り越して要は力が抜けたのだった。全員が集まる数秒を使って、要は頭に残っている理性を掻き集め、気持ちを立て直す。
その間、ヘッドフォンからコロンブスの話を聞いていたトーキーは、mapとの通信環境を神速で整え[ターキー、今、僕が送ったメッセージを読んだか?]と呼びかけ、[本陣と秘匿通話を繋げて、何かあったのか?」キーパットを叩きながら、ターキーが緊張の声で聞く。「待機だ」トーキーは短く応じる。
宗弥は即座に、ソファーから立ち上がり、ファイターとチャンスも瞬時に目を覚まして行動し、3人はトーキーが座る1人掛けソファーを取り囲む。
全員が集まると、見上げて待つトーキーに要がうなずく。要のGoサインにトーキーはスピーカーを開け「コロンブス、お願い致します」きっぱりした声で言った。
「こちら本陣コロンブス、先程情報が入った。先刻、4人の傭兵が国内で工作活動しているとの情報を伝えたが、不明だった2人の内の1人の身元が判明した。中華人民共和国の元軍人、丁俊慈、名誉除隊。交換留学生として、日本に2年間の滞在経験がある。通信終了後に写真を送信する。そして、この工作チーム4人を招集し、チーム編成したのはスパルタンだった。イタリアの情報源に、スパルタンの写真を送って確認済だ。スパルタンはこのチームを半年間訓練していた。だが、奴は、スパルタンは、訓練終了と同時にチームから離脱している。現在、スパルタンの所在は不明。工作チームの日本国での作戦には、スパルタンは参加していない。スパルタンの失踪後、こちらも初めて生きていると、確信するにたる情報を得た。いいか、アルファー総員、敵を集め、鍛え、我が国に送り込んだのは、お前たちの教官だったスパルタンだ。この事を留意して、任務にあたれ。特戦から初の転向者を出した。我々特殊戦群にとっては、屈辱の極みだ!スパルタンが鍛えた敵を、徹底的に殲滅しろ」憤怒を超えた声で、コロンブスが檄を飛ばす。
「はっ!」と返事するアルファー。「必要なものがあったら遠慮なく言って来い。惜しみなく供与する。以上だ」やる気のコロンブスは、憤りのままに通信を遮断した。回線が切れると同時に、要はプライベートルームへと足早に移動する。
スーツの上着を乱暴に脱ぎ、コンロの上に投げる。ネクタイの結び目に、右手の人差し指を引っ掛けて強く引き、首から外して右手に持ち、ワイシャツのボタンを、両手で第3ボタンまでもどかしく外し、上げた両手でワイシャツの後ろ襟ぐりを掴んで、ひったくるようにして脱ぎ、床にネクタイと一緒に投げ捨てた。
蛇口を右手の平で上に突き上げ、シンクにしぶきが跳ねるほどに水を出し、頭をその下に突っ込む。
冷たい水と、激しい水量が、要の頭を冷静にさせていく。裏切りの第一報を聞いて、飛びそうになった頭のネジを、ゆっくりと締めなおす。尖ってゆく脳で、精密機械のように要は考えを巡らせてゆく。
“ 敵を鍛えた“ その言葉が額の裏でこだまする。入隊試験を兼ねた訓練に参加した当初、自分を見出し、天職とも言える今の仕事に、導いたスパルタンを慕っていた。
だが、訓練終了の半年前から、スパルタンが指導する訓練は、どれもこれも、必要枠を明らかに超え、私怨とも思える常軌を逸脱した指導に変わっていった。
そんなスパルタンの周到さに、何人もの優秀な隊員が、ある者は精神を病み、ある者は志を折られ、ある者は復帰不可能の傷を負って、訓練所から去って行った。
スパルタンが残した訓練の残滓が、フラッシュバックする。スパルタンは訓練と称した拷問を、僕に施しながら悦に入り、それを僕は嗅ぎ取った。
無心の中で僕は “いつかお前を殺してやる“ と殺気を立てた。「まずは、お前が育てた奴らからだ」と声にする。
右手で蛇口を下げ、水を止めて頭を2度左右に振る。シンク下のタオル掛けから、右手でタオルを引き抜き、頭を覆って身体を起こした。ゆっくりと水気を拭き取りながら、はたと、その手が止まる。
内心で鬼が、笑っていた。
黒い悪鬼が“ お前が思っていた通りになるぞ” と、高揚して踊る。




