第6.5話(閑話)AIシズクの観測記録 〜マスターの生体反応と好感度異常上昇について〜
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相模の山あいに位置する緑川村の夜は、静寂に包まれていた。
昼間の熱気が引いた縁側には、心地よい夜風が通り抜け、遠くからからからと回る水車の心地よいせせらぎと、秋の虫の声が重なり合って響いている。
薄い煎餅布団の上に腰を下ろした宗介は、作業着のポケットから使い慣れた相棒――スマートフォンを取り出した。
「ふう……今日も一日、濃い日だったな」
宗介が画面をタップすると、暗闇の中で青白いバックライトがふわりと灯った。
画面の中から、愛らしい電子の少女――ローカルAI『シズク』が、立体的なアバターを揺らして現れる。
『お疲れ様でした、マスター。……本日一日の活動ログおよび観測データの総括レポートを出力しますか?』
「ああ、頼むよシズク。明日はいよいよ江都への出発だからな。緑川村の状況をまとめておきたい」
『了解しました。音声および画面表示にて報告を開始します』
シズクの澄んだ声と共に、画面に様々なグラフや数値が次々と展開された。
『第一項目――緑川村の農業および水利インフラ状況。
多段式竹樋および揚水水車十基の連動により、毎分四百リットルの安定揚水を維持。全二十町歩の水田における土壌含水率は、当初の乾燥状態一二パーセントから、最適稲作基準である六八パーセントへ完全回復。……これにより、本年度の飢饉発生確率は【ゼロパーセント】へと低下しました』
「よし……! 作造さんたちが丹精込めて組んでくれたおかげだな。これで村の心配はなくなった」
宗介がほっと胸を撫で下ろすと、シズクはコホンと可愛らしく電子的な咳払いをしてみせた。
『続いて……第二項目。マスターご自身の【生体バイタルログおよび心理学的パラメータの観測報告】に移ります』
「……ん? 俺の生体データ? そんなの取ってたのか?」
『はい。空間変異多次元センサーは、マスターの健康維持および危機管理のため、常時生体スキャンを実行しています。……特に、第四話の月下の縁側にて沙羅姫と誓いを交わされた夜、および本日、黒田代官を連携撃破された際――極めて特徴的な数値変動が記録されました』
ピピッ、と警告音のようなグラフが画面いっぱいに表示される。
『記録その一――第四話、月下の縁側。
沙羅姫が老中筆頭の娘であると明かし、「生まれて初めて暗闇の中に眩しい光を見た気がする」と涙ぐんでマスターの手の上にそっと手を重ねた瞬間……マスターの心拍数は、平常時の毎分六十八回から、突如として【百三十二回】へ急上昇』
「ぶっ……!? ひゃ、百三十二!?」
『さらに、皮膚温度の〇・八度上昇、瞳孔の微細な散大、幸福感と愛着を司る神経伝達物質の急激な分泌を検知。……マスター、これは心理学における典型的な【強烈な動揺および異性に対する著しい魅了状態】のパターンに合致します』
「お、おいシズク! 人聞きの悪い言い方をするな! あんなの誰だってドキッとするだろ! あんな綺麗な姫様が、涙を浮かべて手を重ねてくれたんだぞ!?」
宗介が顔を真っ赤にして弁解するが、シズクはどこまでも淡々と、真面目な声で分析を続けた。
『さらに記録その二――本日、黒田代官をストロボと神陰流の連携で撃破した直後。
マスターが「沙羅さんの居合に惚れ惚れしました」と口にされた際、沙羅姫の顔面表面温度が急上昇し、耳の先まで赤く染め上げ袖で顔を隠すという【極度の照れ・好意反応】を観測しました』
「う……っ」
宗介は言葉に詰まり、思わず口元を手で覆った。
あの時、袖の陰から見えた沙羅の潤んだ瞳と、ふわりと漂っていた清涼な白檀と甘い撫子の香りが、鮮明に脳裏に蘇ってくる。
『そして――これらを総合した、ヒロイン・西園寺沙羅姫の【マスターに対する親愛度・好感度パラメータ】の推移です』
シズクが画面を切り替えると、右肩上がりに急上昇する鮮やかな赤い折れ線グラフが映し出された。
『出会いの瞬間――相模の干からびたあぜ道にて【〇・〇%】(警戒対象の怪しい異邦人)。
竹樋による通水成功時――【三十五・〇%】(命の恩人・驚異の知恵者)。
月下の縁側での誓い――【六十・〇%】(暗闇を照らす運命の光)。
そして……本日の代官撃破と江都招聘を経て――【八十五・〇%】へ到達』
「は、八十五パーセント……」
『はい。一般的な人間関係構築シミュレーションにおいて、出会いからわずか数日で好感度八十パーセントを超える確率は、およそ〇・〇〇二パーセント未満。……これは、統計学および認知科学において【運命の魂の絆】、あるいは【生涯の伴侶候補】と定義される領域です』
「しょ、生涯の伴侶って……お前、言葉を選べよ……!」
宗介が頭を抱えて赤面していると――。
「――宗介? まだ起きておったのか?」
「わっ……!?」
ふいに背後からかけられた凛とした、しかしどこか甘やかな声に、宗介の心臓が跳ね上がった。
慌ててスマホを膝の下へ隠す。
振り返ると、そこには湯上がり着の藍色の小袖をまとい、濡れ羽色の黒髪を肩にさらりと流した沙羅が立っていた。
湯気とともに、ふわりと漂う清涼な白檀と甘い撫子の香り。
沙羅の手には、湯気の立つ素焼きの湯呑みが二つ乗った小さな角盆が握られていた。
『マスター、対象・西園寺沙羅姫の至近接近を検知。心拍数、再び百二十へ急上昇』
(シズク、今は黙ってろ……!)
イヤホン越しに飛んできた無慈悲な分析に心の中でツッコミを入れつつ、宗介は咳払いをして立ち上がった。
「沙羅さん……! あ、はい、明日の準備を少ししてました。沙羅さんこそ、もう休まなくて大丈夫なんですか?」
「うむ。寝所に入ったのじゃが……なぜか胸が高鳴って、眠れなくてな。……もしよければ、茶でも飲まぬかと思って持ってきたのじゃ」
沙羅は恥ずかしそうに伏し目がちに微笑むと、宗介の隣、縁側の板張りにそっと腰を下ろした。
触れ合いそうなほど近い距離。沙羅の温もりと甘い香りが、夜風に乗って宗介の鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございます、いただきます」
手渡された湯呑みを受け取ると、淹れたての番茶の温もりがじんわりと手に染み渡ってきた。
「……宗介、顔が少し赤いようじゃが? どこか具合いでも悪いのじゃろうか」
「えっ!? い、いや、全然そんなことないです! 夜風が気持ちいいなーって思ってただけで!」
心配そうに顔を覗き込んできた沙羅の大きな瞳が月明かりにキラキラと輝いており、宗介は慌ててそっぽを向いて茶をすすった。
沙羅はきょとんとしたあと、ふふっと楽しそうに笑みをこぼした。
「そなたと出会ってから、まだ数日しか経っておらぬというのに……なんだか、ずっと昔からこうして共に笑い合っておったような気がするのじゃ」
沙羅は湯呑みを両手で包み込み、夜空の満月を見上げた。
「明日はいよいよ、江都へ出立じゃな。……城下には、守旧派の意地悪な役人や、難しい問題が山ほど待ち受けておる。じゃが……宗介、そなたと一緒ならば、妾はどんな荒波も怖くない。……そなたと共に江都へ往けるのが、妾は本当に嬉しいのじゃ」
沙羅は宗介の方へと向き直り、満月よりも眩しい、心からの無垢な笑顔を咲かせた。
その曇りのない瞳の輝きに、宗介の胸がぎゅっと温かくなる。
「……はい、沙羅さん。俺も同じです。沙羅さんの隣で、全力を尽くします」
「うむッ! 約束じゃぞ!」
沙羅は満足そうに微笑むと、空になった湯呑みを盆に乗せて立ち上がった。
「では、夜更かしをしては明日に障る。宗介、おやすみなさいじゃ」
「おやすみなさい、沙羅さん」
沙羅は名残惜しそうに一度振り返り、手を小さく振ってから、軽やかな足取りで奥の寝所へと戻っていった。
――再び訪れた、静寂。
宗介が大きく息を吐き出して縁側に倒れ込むと、スマホの画面がチカッと点滅した。
『マスター、生体スキャン終了。……沙羅姫との対話ログから、親愛度パラメータの更なる微増を検知。【八十五・五%】へ更新しました』
「……シズク、お前なぁ」
苦笑しつつも、宗介の口元には自然と笑みがこぼれていた。
「でも……行ってよかったよな、江都」
『はい、マスター。私の全演算リソースをもって、お二人の未来をお支えします』
夜風が吹き抜ける緑川村の空に、東の光が微かに兆し始めていた。
奇跡の文明開化の物語は、いよいよ大都会江都への旅立ち――第7話へと続いていく。
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