第35.5話(閑話)相模の新米と、時計塔の握り飯
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秋晴れの抜けるような青空の下、大都会・江都の一角に新設された最高学府【瑞穂工学アカデミー】の敷地には、心地よい活気と爽やかな風が満ち溢れていた。
かつて守旧派の武家屋敷が立ち並んでいた広大な敷地は、いまや白亜の煉瓦造りの講義棟、赤レンガのからくり実験工場、そして威風堂々とそびえ立つ大時計塔を擁する、近代知性の拠点へと生まれ変わっていた。
早朝、その大時計塔の前、石畳の荷揚げ広場に、湊浦停車場からの定期蒸気貨物便によって運ばれてきた真新しい藁の米俵が、十俵ほどずらりと降ろされていた。
俵の縄目には、大工棟梁・作造の無骨で力強い筆跡で書かれた一通の木札と、素朴な絵が添えられた手紙が括り付けられていた。
『宗介先生、沙羅様!
あの相模の緑川村の田んぼが、今年も見事な黄金色の海となり、極上の新米が実りましたぜ!
先生の教えてくれた多段式竹樋と水車、そしてアカデミーの若衆たちが測量して引いてくれた新水路のおかげで、今年は村の歴史始まって以来の大豊作だ!
村中みんなからの感謝の気持ちだ、腹いっぱい食ってください!』
手紙の端には、村の子どもたちが炭で描いたのであろう、宗介と沙羅が仲良く並んで笑っている素朴な似顔絵が添えられていた。
「作造さんたち……。わざわざ開拓一号の特別便で、獲れたての新米を届けてくれたんだな」
「うむ! あの子どもたちの絵も、まことによく似ておるではないか!」
朝の登校前に二人揃って荷降ろしを見届けていたアカデミー初代学長・司馬宗介と、名誉総裁・西園寺沙羅は、俵にそっと触れ、万感の思いで顔を見合わせて笑い合った。
すべての始まりだった、あの干からびた相模の寒村。
飢え死に寸前で泥にまみれていた百姓たちが、いまや自らの手で豊かな実りを生み出し、こうして江都の学び舎へ感謝を届けてくれる。科学と人の手の温もりが、しっかりと大地に根づいた何よりの証だった。
「さあ、宗介。午前の講義の時刻じゃぞ。今日も若人たちに、そなたの素晴らしい知恵を伝えてやってくれ」
「はい、沙羅さん。行ってきます!」
二人は笑顔で頷き合い、宗介は大講義室へ、沙羅は生徒たちの稽古場へと向かったのだった。
――チリン、チリン、ボォォン……。
それから数刻が過ぎ、正午を告げる時計塔の重厚な鐘の音が、秋の澄んだ空に高らかに鳴り響いた。
「――よし、午前の熱力学の講義はここまでだ。午後は宗兵衛教授のからくり工作室で、高圧シリンダーの研磨実習を行うから、各自しっかり昼飯を食べておくように!」
「「「はいっ、宗介学長!!」」」
大講義室に響き渡る、若者たちの元気な返事。
階段状に並ぶ木製デスクには、第一期生三百名のうちの百名ほどが、びっしりと席を埋めていた。
元百姓の少年も、下級武士の若者も、鍛冶屋の娘も、誰一人として身分の隔てなく同じ机を並べ、熱心にノートをとっている。黒板には、宗介がチョークで描いた蒸気機関の幾何構造と、熱エネルギーの変換数式が美しく並んでいた。
「宗介先生の熱力学の授業、今日も鳥肌が立つほど面白かったな!」
「ああ! 目に見えない『熱』が、数式通りに鉄のピストンを動かす力になるなんて……魔法よりずっと凄いぜ」
「先生の説明って、難しい数式なのに、どうしてあんなに心に染み込んでくるんだろうね……」
教科書を抱えて退出する生徒たちが、教壇を片付ける宗介に憧れと敬愛に満ちた眼差しを向け、深々と一礼して講義室を後にしていく。
身分の壁が溶け合い、誰もが未来への希望に目を輝かせている。この光景を見るたびに、宗介の胸には温かな充足感が満ちていた。
教壇を片付け、秋の日差しが降り注ぐ中庭の芝生へと出た宗介。
中央に立つ大きなクスノキの木陰、木製ベンチのそばに――ふわりと上品な白檀と甘い撫子の香りを漂わせる、凛とした人影が待っていた。
藍染めの大紋羽織に、若草色の袴を清楚にまとった名誉総裁・西園寺沙羅だった。
神陰流の木刀をベンチの脇に立てかけ、竹皮に包まれた小さな包みを、大事そうに両手で抱えている。
「宗介! 午前の講義、大儀であったな」
「沙羅さん。待たせてすみません。……その包みは?」
「ふふっ、よくぞ聞いてくれたのじゃ!」
沙羅は誇らしげに胸を張り、ベンチの上で竹皮の包みを丁寧に開いてみせた。
そこに入っていたのは――純白の湯気を微かに立てる、大ぶりの三角形のおにぎりが三つ。
ふっくらとした米粒の一つ一つが、まるで磨き上げられた真珠のようにピカピカと輝いている。
「これ……もしかして、今朝届いたばかりの新米ですか!?」
「うむ! そなたが午前の講義をしておる間に、妾が厨房を借りて……急いで羽釜で炊き上げたのじゃ! あの緑川村の新米じゃからな、そなたに一番に食べてほしくて……講義が終わる正午にどうしても間に合わせたくてな。少し形はいびつかもしれぬが、塩加減には自信があるぞ!」
沙羅はぽっと頬を桜色に染め、期待と少しの照れが混ざった瞳で宗介を見上げた。
その時、宗介は沙羅の白い指先が、ほんのりと赤くなっていることに気がついた。
「沙羅さん……もしかして、炊きたて熱々の羽釜から、急いで手を火傷しそうになりながら握ってくれたんじゃ……?」
「なっ……!? な、何のことじゃ! 妾は天下の神陰流の使い手じゃぞ!? 炊きたての飯を握るくらいの熱さ、どうということはないわ……!」
沙羅は慌てて両手を長い袖の中に隠し、そっぽを向いた。
だが、耳の先まで真っ赤になっているのが、何よりの証拠だった。
宗介の胸が、熱い愛おしさでいっぱいになった。
お姫様でありながら、自分が講義をしている間に厨房に駆け込み、火傷しそうな熱さに耐えながら一生懸命握ってくれたのだ。
「……ありがとうございます、沙羅さん。大切にいただきます」
宗介は竹皮から大きなおにぎりを一つ手に取り、両手で包み込むようにして、大きく口を開けて頬張った。
「……っ!!」
口の中に入れた瞬間、ふわりとほどける絶妙な握り具合。
噛みしめるたびに、新米ならではのみずみずしい甘みと芳醇な香りが口いっぱいに広がり、キリッとした粗塩の旨味が米の甘さを極限まで引き立てている。
「ど、どうじゃ……? 口に合うであろうか……?」
沙羅が袖から出した手を胸の前でぎゅっと握りしめ、上目遣いで心配そうに覗き込んでくる。
「ものすごく……美味しいです、沙羅さん! お米の甘みも、ふっくらした炊き加減も完璧です! 今まで生きてきて食べたおにぎりの中で、間違いなく一番美味しいです!」
「まことか……!? よ、よかった……っ!」
沙羅の顔に、満開の撫子の花が咲いたような、とびきり眩しい笑顔がパッと広がった。
嬉しさのあまりピョコンと背筋を伸ばし、愛おしそうに宗介の食べる姿を見つめている。
「ふふっ、宗介は本当に美味しそうに食べるのじゃな。……あ、待つがよい。口の端に米粒がついておるぞ」
「え、どこです――」
沙羅は自然な仕草で宗介の顔に手を伸ばすと、指先で宗介の口元の米粒を優しくつまみ取った。
そして――何のためらいもなく、自らの小さな唇へと運び、パクリと食べて微笑んだのだ。
「ん、本当に甘くて美味い米じゃな」
「ぶふっ……!?!?!?」
宗介は顔から火が出るほど真っ赤になり、吹き出しそうになる息を慌てて飲み込んだ。
『マスター、生体スキャン。心拍数、急激に百三十八へ急上昇。……沙羅姫の無自覚かつ致命的な破壊力を持つ親愛行動を検知しました』
(シズク、頼むから今は何も言うな……!)
そして――その瞬間だった。
中庭に面した本館講義棟の二階や三階の窓ガラスのあちこちから、物陰に隠れて二人の様子を覗き見していた生徒たちの、黄色い悲鳴と悶絶の声が一斉に漏れ聞こえてきた!
「ぎゃああああああっ!! 見ましたか今の!? 名誉総裁が学長の口元の米粒を……!!」
「尊い……尊すぎるッ!! 光で目が潰れる……!!」
「やっぱりお二人は、すでにそういう仲だったんだわ……!!」
「お似合いすぎて、もう拝むしかないぜ……!!」
「学長爆発しろ! いや、早く祝言を挙げてくれえええっ!!」
「なっ……!? き、貴様ら、講義の復習はどうしたのじゃッ!!」
生徒たちの熱い視線と大歓声に気づいた沙羅は、耳の先どころか首筋まで真っ赤に染め上げ、思わず立ち上がって校舎へ向かって一喝した。
生徒たちは「ひゃあああ、沙羅様に怒られたー!」と蜘蛛の子を散らすように窓から引っ込んで大笑いしている。
「も、もう……あやつらは……っ」
沙羅は恥ずかしそうに両手で赤くなった顔を覆い、再びベンチへと小さくなって座り直した。
そのあまりの愛らしさに、宗介はたまらず吹き出してしまった。
「あはは、生徒たちにも、沙羅さんの優しさと可愛らしさがしっかり伝わってるんですよ」
「……笑うでない、宗介。妾は……そなたの前でだけ、こうなってしまうのじゃ……」
沙羅は袖の陰から潤んだ瞳で宗介をチラリと見つめ、恥じらうように小さく呟いた。
やがて、おにぎりを二人で仲良く平らげた後。
宗介と沙羅は肩を並べて腰掛け、高く澄み渡った秋の青空を見上げた。
「……宗介。相模のあぜ道で、泥だらけになって竹を繋いでいたあの日から……妾たちは、本当に遠くまで来たのじゃな」
「ええ。作造さんたちの手で米が実り、宗兵衛さんの手で蒸気が動き、そしてこのアカデミーで、次の時代を担う若者たちが育っている。……俺たちが蒔いた種は、もうしっかりと大地に芽吹いています」
「うむ。じゃが……妾たちの道は、ここで終わりではないのじゃろう?」
沙羅が宗介の横顔を見つめ、凛とした覚悟に満ちた笑みを浮かべた。
「はい。次は……この瑞穂国の技と誇りを携えて、世界へ飛び出す番です」
「どこへ往こうとも、妾はそなたの隣におるぞ。世界の果てまで共に行こう、宗介」
「はい、沙羅さん!」
二人は見つめ合い、青空の下で温かく微笑み合った。
秋風に乗って揺れるクスノキの梢の向こうには、まだ見ぬ世界の大海原が、希望の光を放って広がっていた――。
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