第4話 撫子の姫の素顔 〜月夜の縁側と秘密の告白〜
飛鳥創です。いつもお読みいただきありがとうございます!
その夜、緑川村の名主の屋敷では、干ばつ脱出を祝うささやかな宴が開かれていた。
村人たちが持ち寄った野菜の煮物や、冷たい井戸水で冷やした地酒が振る舞われ、作造をはじめとする男たちの陽気な笑い声と手拍子が母屋から響いてくる。
宗介は杯の酒を一杯だけ干したあと、少し火照った体を冷ますため、静かな離れの濡れ縁へと抜け出した。
見上げれば、雲ひとつない漆黒の夜空に、透き通るような満月が煌々と輝いている。
昼間の熱気が引いた庭からは、心地よい涼風が吹き抜け、青々と水を湛えた田んぼを揺らす虫の音が静かに満ちていた。
(……本当に、異世界に来ちゃったんだな)
懐からスマホを取り出す。
画面右上のバッテリー表示は【九十四パーセント】。昼間のソーラー充電と、シズクの省電力制御のおかげで、エネルギーの不安はひとまずない。
『マスター、心拍数六十二。アルコールによる軽微な血管拡張が確認されますが、健康状態は極めて良好です。……美しい月夜ですね』
「ああ。空気が澄んでるせいか、東京の空よりずっと星が多く見えるよ」
「――そなたの故郷の空は、そんなにも星が少なかったのか?」
ふと、背後から澄んだ鈴の音のような声が降ってきた。
振り返った宗介は、息をすることすら忘れて硬直した。
そこに立っていたのは――昼間の凛々しい男装姿からは想像もつかない、息を呑むほどに艶やかな一人の姫君だった。
身にまとっているのは、淡い藤色に染め上げられた極上の正絹の着物。裾には月光を浴びて繊細に煌めく、銀糸の撫子の刺繍が施されている。きゅっと結ばれた細身の帯が、彼女の華奢な腰つきを際立たせていた。
昼間は高く結い上げられていた濡れ羽色の黒髪は、湯上がりのしっとりとした艶を湛えて肩から背中へとさらりと流され、月明かりに照らされた白磁のうなじが眩しいほどに浮き彫りになっている。
彼女が一歩歩み寄るたびに、さらり、と上品な絹擦れの音が響いた。
「……沙羅、さん……?」
「うむ。男装のままでは、名主の爺が落ち着かぬと申してな。湯を借りて、着替えてまいったのじゃ」
沙羅は少し気恥ずかしそうに長い袂で胸元を覆い、宗介の隣へ静かに腰を下ろした。
二人の距離が縮まった瞬間、夜の澄んだ空気の中に、ふわりと品格ある白檀の薫香と、可憐な撫子の甘い香りが漂った。昼間の汗と泥にまみれた匂いではなく、純粋な彼女自身の体温を帯びた、胸が締め付けられるほどに甘美な香りだった。
「……な、何をそうまじまじと見るのじゃ。似合わぬか? このような女らしい着物など……」
沙羅がぽっと頬を朱に染め、切れ長の瞳を伏せる。
宗介は慌てて首を横に振った。
「と、とんでもない! ものすごく綺麗です。月明かりに映えて、まるで絵巻物から抜け出してきたみたいで……見惚れてました」
「み、見惚れた……!? そ、そなたという男は、なんという恥ずかしいことを平然と口にするのじゃ……!」
沙羅はカッと耳の先まで赤く染め上げると、長い袖で顔の下半分を隠してそっぽを向いてしまった。だが、その隙間から覗く濡れた瞳は、隠しきれない喜びに潤んでいた。
『マスター、沙羅姫の体表面温度の上昇および動悸を確認。現在の好感度パラメータは【八六・五パーセント】まで上昇。大変良好な雰囲気です。このまま傾聴モードの継続を推奨します』
(シズク、頼むから今は空気読んでくれ……!)
宗介が心の中でツッコミを入れていると、沙羅は小さく息を整え、そっと袖を下ろした。
その横顔には、昼間の村人たちには見せなかった、深い憂いと覚悟の色が宿っていた。
「……宗介。そなたに、妾の真実を話さねばならぬ」
「真実……ですか?」
沙羅は背筋をすっと伸ばし、真剣な眼差しで宗介を見つめ返した。
「妾の本名は、西園寺沙羅。……東条幕府の老中筆頭を務める、西園寺正信の娘じゃ」
「老中筆頭……! じゃあ、沙羅さんって本当にこの国のお姫様なんですか……!?」
「身分の上ではな。じゃが、妾はただ屋敷に籠もって守られるだけの飾り人形にはなりたくなかった。……今、この瑞穂国は、かつてない危機の淵に立たされておるのじゃ」
沙羅は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「海の向こうにある『ルーディス合衆国』という大国が、巨大な鉄の軍艦を率いて、周辺の国々を武力で次々と従えておるという報せが、南蛮商人を通じて入ってきたのじゃ。奴らは我が国のような東方の国を『無知蒙昧な野蛮人』と見下し、いずれ我が国にも軍艦を差し向け、武力を背景に不平等な取り決めを押し付けて、国を丸ごと奪おうとしておる。……父の書状でその極秘の報せを読んだ時、妾は背筋が凍る思いがした」
沙羅の声が、怒りと悔しさで微かに震えていた。
「……だが、城の守旧派の高官たちは『南蛮の脅しなど杞憂じゃ』と笑い、何の備えもしておらぬ。父ひとりが孤軍奮闘しておるのじゃ。妾は父の力になりたくて、そしてこの国の民や技術の実態を自分の目で確かめたくて、お忍びで各地を回っておったのじゃ」
十七歳の少女が背負うには、あまりにも重い国家の運命。
それでも民のために泥にまみれ、刀を差して一人で戦おうとしていた彼女のひたむきさに、宗介の胸は熱い感情で満たされた。
「沙羅さん」
「……ん?」
宗介は沙羅の目をまっすぐに見つめ、静かに、しかし確固たる意志を込めて言った。
「俺の故郷の世界でも、かつて同じような歴史がありました。外からの脅威に怯え、開国か攘夷かで国中が揺れた時代が」
「まことか……!? その時、そなたの国はどうやって危機を乗り越えたのじゃ?」
「民の知恵と、技術の力です。古い慣習にとらわれず、新しい知識を取り入れ、職人たちが素晴らしい道具を作り出して国を豊かにしたんです」
宗介はスマホの画面を軽くタップし、暗闇の中に青い光を浮かび上がらせた。
「俺には武術も、政治の権力もありません。でも、この板の中にある何千年分もの科学の知恵と、俺自身の工学知識があります。そしてこの国には、作造さんのような世界に誇れる最高の職人たちがいる。……俺の知識と、この国の職人たちの技を合わせれば、どんな外圧にも負けない強い国を作れます」
沙羅が息を呑み、宗介の顔を見つめた。
「沙羅さん。俺を、あなたの力にさせてくれませんか。この国を、民が豊かに笑って暮らせる、新しい時代へと導く手伝いをさせてほしいんです」
「宗介……」
沙羅の瞳から、一筋の清らかな涙が頬を伝い落ちた。
彼女はそっと手を伸ばし、宗介の手の上に、自らの柔らかな手を重ねた。
触れ合う手の温もり。
月光の下で重なり合う二人の影に、夜風が吹き抜け、淡い藤色の着物の袂がふわりと舞った。
「……嬉しいぞ、宗介。そなたが来てくれて……妾は、生まれて初めて、暗闇の中に眩しい光を見たような気がするのじゃ」
沙羅は涙を拭うと、月明かりよりも美しい、心からの笑みを浮かべた。
「明日、父へ文を送る。……そなたのその途方もない知恵を、江都の城へ迎え入れるためにな」
二人の約束が交わされた月夜。
緑川村の小さな縁側から、瑞穂国の歴史を塗り替える壮大な文明開化の歯車が、力強く噛み合い始めたのだった。
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