第30.5話(閑話)黒船提督の航海日誌 〜極東の知恵者ソウスケと、誇り高き国〜
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――ルーディス合衆国海軍東方艦隊旗艦、蒸気フリゲート『タイタン号』。
湊浦の沖合に投錨した巨大な黒船の艦尾、重厚なマホガニーの調度品で整えられた船長室には、深夜になってもランプの温かな灯火が揺れていた。
東方艦隊司令長官、アレクサンダー・ペルリ提督。
合衆国海軍きっての剛腕にして、数々の洋上作戦を成功させてきた歴戦の軍人は、真鍮のスタンドライトの下で、琥珀色のブランデーグラスを傾けていた。
紫煙をくゆらすパイプを灰皿に置くと、ペルリは革表紙の極秘航海日誌と、本国キャピタルシティのエドワード・ハリントン大統領に宛てた最高機密報告書を前に、羽ペンを執った。
『――ルーディス連邦暦千八百五十三年。
極東の孤立国・瑞穂国湊浦沖にて。
東方艦隊司令長官、アレクサンダー・ペルリ記す』
羽ペンが、羊皮紙の上をサラサラと滑る。
ペルリの脳裏には、今日執り行われた【対等通商修好条約】の調印式と、あの青年との激しい舌戦の光景が、鮮烈に焼き付いて離れなかった。
『――我が艦隊が本国を出航した際、合衆国議会および海軍省の高官たちの見立ては、極めて楽観的かつ傲慢なものであった。
「東洋の鎖国島国など、我が合衆国の威容を誇る黒船四隻を見せつけ、蒸気の大煙と祝砲を轟かせれば、恐怖のあまり腰を抜かして平伏するだろう。治外法権と一方的関税を押し付け、市場を思うがままに支配せよ」と。
恥ずかしながら、私自身も湊浦の湾口に入るまでは、その見立てを疑っていなかった』
ペルリは苦い笑みを浮かべ、グラスを喉に流し込んだ。
『――だが、その傲慢な幻想は、入港した初日に粉々に打ち砕かれた。
我が艦隊の外輪を嘲笑うかのように、水面下で水を掻く【スクリュー推進】の黒漆塗り蒸気船『開花丸』が姿を現した時、機関長以下、全技師が息を呑んで凍りついた。
それだけではない。彼らの船に据え付けられていたのは、我が最新鋭艦すら凌駕する【ライフリング施条砲】と、遅延信管を備えた榴弾であった。
彼らは未開の蛮族などでは断じてない。すでに産業革命の核心を掴み、我が軍と同等以上の火力を配備した近代文明国家であったのだ』
羽ペンをインク壺に浸し、ペルリの筆致はさらに熱を帯びていく。
彼が最も衝撃を受けたのは、兵器の威力以上に――全権代表として壇上に立った、あの二十二歳の青年・司馬宗介の存在だった。
『――全権正使として会談の席に現れた司馬宗介。
あの青年の頭脳は、底知れぬ怪物の如き深淵を秘めている。
私が治外法権や領事裁判権を押し付けようとした瞬間、彼はあの謎めいた光る黒い板――彼らが「神の板」と呼ぶ驚異の端末を指先一つで操作し、欧州の最高峰たる国際法学者ヴァテルの『国家法学』を完璧に逆引用してきたのだ。
「主権平等原則を掲げて独立を果たした貴国が、他国に対して司法主権の強奪を強いるのは、自己の存在理由の否定である」と。
さらに彼は、合衆国憲法第三条の法理を寸分の狂いもなく諳んじ、我が国の司法制度と瑞穂国のインフラ実態を突き合わせて、私の主張の矛盾を完璧に論破してみせた。
三十年以上、世界中の海で外交と軍務をこなしてきた私ですら、一言の反論も許されず、全身から冷や汗が吹き出すほどの圧倒的な知性……。あれほど恐ろしく、そして知的な外交官を、私は生涯で見たことがない』
ペルリは日誌の頁をめくり、宗介の隣に控えていた美しき姫君の姿を思い描いた。
『――そして、忘れてはならないのが、全権副使たる西園寺沙羅姫をはじめとする、サムライたちの誇り高さである。
沙羅姫のその凛とした立ち姿、腰に差した日本刀に手を添え、ソウスケの背中を信じて一歩も引かぬその眼差しは、神々しいまでの気迫に満ちていた。
彼らは決して好戦的ではない。だが、もし他国が武力をもってその領土を侵し、尊厳を奪おうとするならば、最後の一兵、最後の一太刀になるまで戦い抜く覚悟を、全身から放っていた。
最先端の科学の知恵と、古武士の不屈の魂が、あの二人の下で完全に一つに融合しているのだ』
ペルリは姿勢を正し、大統領への具申状の結びを、力強い筆圧で書き殴った。
『――大統領閣下。私は合衆国東方艦隊司令長官として、ここに断言いたします。
瑞穂国を武力で威嚇し、屈服させることは絶対に不可能です。
もし強硬派の進言に耳を傾け、彼らと戦端を開くような愚を犯せば、我が艦隊は湊浦の海で壊滅し、合衆国は極東において取り返しのつかない泥沼と破滅を味わうことになるでしょう。
彼らは我が国の脅威ではありません。すでに文明開化を果たした、比類なき誇り高き対等の友邦です。
本日調印された【対等通商修好条約】を、合衆国議会において速やかに無修正で批准されることを、強く、強く進言いたします。
彼らと真の友情を結ぶことこそが、我が合衆国を真の繁栄へと導く唯一の道であると、私は確信しております』
ペルリは羽ペンを置き、サインの横に自らの印章を押した。
グラスに残ったブランデーを飲み干すと、提督は立ち上がり、船長室の大きな観音開きの窓を開け放った。
冷涼な夜風が吹き込み、波の音が心地よく耳を打つ。
見渡せば、湊浦の海岸沿いには、清潔な街灯の明かりが星屑のように煌めき、遠くの波間には、瑞穂国の巨船『開花丸』が、月明かりを浴びて黒鉄の威容を誇らしげに浮かび上がらせていた。
「……司馬宗介。恐るべき知恵者よ」
ペルリは夜の湊浦の海に向かって、掲げたグラスを軽く傾けた。
「黒船の威嚇に屈するどころか、対等の夜明けをその手で掴み取ってみせるとはな。……次は大統領官邸か、あるいは万国博覧会の会場で会おう。極東の若き友よ」
提督の唇に浮かんだのは、敗北の悔しさを超えた、一人の誇り高き好敵手への惜しみない敬意の笑みだった。
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