第25話 準備は整った 〜迎撃前夜の静けさと誓い〜
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鬼ヶ礁での試射演習から二日。
湊浦の軍港は、これまでにない静かな緊張感と、熱い高揚感に包まれていた。
港の中央に浮かぶ外洋蒸気船【開花丸】の甲板には、船首と船尾に各一門、そして舷側の要所に四門、多賀根山の高純度鋼で鍛え上げられた【後装式ライフル砲】が据え付けられていた。
漆黒の生漆で塗られた砲身が、夕陽を浴びて冷たい光を放っている。
「機関室、石炭満載! ボイラー圧力計、配管パッキン、スクリュー軸受――すべて異常なしだぜ!」
からくり宗兵衛が、甲板のハッチから顔を出し、太い親指を立てた。
「弾薬庫の尖頭炸裂弾五十発、すべて油紙で厳重に包んで積み込みましたわ。……江都の米蔵と医療用消毒液の備蓄も、万代屋が全責任を持って万全に整えております」
小夜が艶やかな友禅染の袂を翻し、宗介に向かって微笑みかける。
見張り番所の司令室では、電信手が真鍮のモールスキーを軽やかに叩いていた。
カチッ、カチカチッ!
『コウ・ト・シ・レ・イ・ブ・ト・ウ・ツ・ウ・リョウ・コ・ウ(江都司令部導通良好)』
江都城の瑞光殿で待機する老中筆頭・西園寺正信との電信線も、十里の距離を越えて完全に同期していた。
農業、公衆衛生、上下水道、高純度製鉄、工作機械、蒸気機関、光学レンズ、電信網、そして最新鋭ライフル巨砲――。
宗介が瑞穂国へ召喚されてから積み上げてきた全ての文明開化の知恵が、いま、寸分の隙もない鉄壁の防衛ネットワークとして結実していた。
「――宗介。少し、風に当たらぬか?」
ふと、背後から涼やかな声がかけられた。
振り返ると、そこには藍染めの股旅装束を着た沙羅が、腰の愛刀に手を添えて立っていた。
濡れ羽色の黒髪が海風になびき、ふわりと清涼な白檀と可憐な撫子の香りが漂う。
「行きましょう、沙羅さん」
二人は港を離れ、湊浦の海を一望できる岬の高台――満開の撫子の花が咲き乱れる小さな丘へと登っていった。
見上げれば、雲ひとつない漆黒の夜空に、透き通るような満月が煌々と輝いている。
どこまでも広がる太平洋の海面は、月光を浴びて銀色の波打ち際を描き、波の音が静かに満ちていた。
「……綺麗な月ですね」
「うむ。……思えば、そなたと初めて出会ったあの日も、こんなにも美しい夏の日であったな」
沙羅は草の上に腰を下ろし、そっと膝を抱えて遠くの水平線を見つめた。
「相模野の緑川村……干からびたあぜ道で、見慣れぬ衣を纏い、倒れておったそなたの姿を、妾はいまも鮮明に覚えておるぞ。……あの時、そなたが光る板を取り出し、竹樋で水を引いてくれたことが……全ての始まりじゃった」
「ええ。作造さんたちと水車を造り、田んぼの泥にまみれて……あの月夜の縁側で、沙羅さんが真実を打ち明けてくれたんですよね」
「ふふっ……あの時は恥ずかしくて、顔から火が出るかと思うたわ」
沙羅はぽっと頬を染め、愛おしそうに目を細めた。
「江都へ来てからの日々は……まるで夢のようじゃった。川端長屋の疫病を石鹸と清潔な水で退け、土井大炊頭の謀略を瑞光殿で堂々と論破し……高炉の鉄が溶け、蒸気機関が産声を上げ、雷光の如く言葉が飛び、開花丸が海を翔けた。……たった数ヶ月の間で、この瑞穂国は、何百年分もの暗闇を突き抜けて生まれ変わったのじゃ」
沙羅は振り返り、その大きな瞳を潤ませて宗介をまっすぐに見つめた。
「これらはすべて……宗介、そなたが妾の手を引いてくれたからじゃ。そなたがいなければ、この国は……民も、妾も、異国の暴力と城の旧習に押し潰され、滅びゆくのを待つしかなかった。……宗介、そなたはまこと、天がこの国に遣わしてくれた、たった一人の光じゃ」
「沙羅さん……」
宗介は胸の奥が熱くなるのを感じながら、静かに首を横に振った。
「俺だけの力じゃありません。俺はただ、知っている科学の理屈を伝えただけです。……それを信じて、命がけで支えてくれた沙羅さんがいたから。そして、作造さんや宗兵衛さん、小夜さんや職人たちが、魂を込めて形にしてくれたからです」
「……どこまでも、己を誇らぬ男じゃな、そなたは」
沙羅は小さく微笑むと、着物の懐から、大切そうに包まれた小さな紫色の錦の袋を取り出した。
袋の表面には、銀糸で繊細な撫子の花と、瑞穂国の神紋が刺繍されている。
手渡された瞬間、手のひらから濃密な白檀と撫子の薫香が立ち上った。
「これは……?」
「妾の手縫いのお守りじゃ。……中には、西園寺家に代々伝わる白檀の香木と、妾の髪をひと筋、編み込んで納めてある」
沙羅は両手を伸ばし、宗介の手をぎゅっと包み込んだ。
触れ合う手の温もりと、真剣に宗介を見つめる沙羅の濡れた瞳。
「……宗介。明日の朝……海の向こうから、いよいよ異国の軍艦が現れるやもしれぬ。じゃが……妾には、もう何の恐れもない。そなたと共に戦い、そなたと共にこの国の平和を守り抜く。……妾の心も、魂も、この命も……あの日からずっと、そなただけのものじゃ」
夜風が吹き抜け、沙羅の濡れ羽色の黒髪がさらりと宗介の頬をかすめた。
沙羅は宗介の胸元へと優しく身を寄せ、その温もりを確かめるように額を預けた。
「……そなたと共に、新しき夜明けの光を見たい。……宗介、妾の側に……ずっと、いてくれるか?」
「はい、沙羅さん。俺は……どこまでも、あなたと一緒に歩みます。絶対に、この国も、あなたの笑顔も守り抜きます」
宗介が力強く抱きしめ返すと、沙羅は幸せそうに目を閉じ、静かに涙を一筋こぼした。
『マスター、生体パラメーター測定。沙羅姫のマスターに対する好感度・信頼度――【百・零パーセント】に到達しました。……完全なる精神的結合を確認。マスター、おめでとうございます』
(ありがとう、シズク。……最高の相棒だ)
静寂の岬で、月光に照らされながら固く結ばれ合った二人の心。
――そして、夜明け。
東の空が白み始め、水平線が茜色に染まり始めたその時だった。
『――緊急警告! 全周囲赤外線熱源センサーおよび光学望遠スキャンにて、沖合七里(約二十八キロメートル)に異常反応を検知!』
イヤホン越しに、シズクの鋭い警告音が鳴り響いた。
「シズク、映像を拡大してくれ!」
宗介がスマホを掲げ、画面をピンチアウトした。
茜色の水平線の彼方――もうもうと立ち上る黒煙を吐き出しながら、海を切り裂いて接近してくる【四隻の漆黒の巨艦】。
タールで真っ黒に塗り込められた威圧的な船体、天を突く巨大な煙突、そして舷側にズラリと並ぶ不気味な砲門の影が、画面いっぱいに映し出された。
「……黒い。まるで海を渡る漆黒の怪物じゃ……! あのような禍々しい異形の船で、我が国を脅そうというのか……!」
沙羅が息を呑み、凛とした表情で刀の柄を強く握りしめた。
見張り番所から、全軍配備の電信が江都城へと電光石火の速さで駆け巡る。
未開の国を武力で脅し、屈服させようと迫り来る列強の漆黒の艦隊。
だが――迎え撃つ瑞穂国は、すでに世界最高峰の科学と知恵を宿した『近代国家』へと覚醒していた。
「沙羅さん、行きましょう! ……あんな『黒船』で脅せば屈すると思った連中に、俺たちの文明開化を見せつけてやる時です!」
「うむッ! いざ出陣じゃッ!!」
朝日を浴びて輝く開花丸へ向かって、二人は力強く駆け出した。
瑞穂国の運命を賭けた最大の決戦――第4章『黒船来航と電撃の文明開化』が、いま幕を開けるのだった。
(第3章・完 / 第4章へ続く)
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