第11話 石鹸と消毒の力 〜近代公衆衛生の幕開け〜
飛鳥創です。いつもお読みいただきありがとうございます!
川端長屋での救命劇から一夜明けた早朝。
千鳥川の河口近くにある万代屋所有の巨大な油問屋倉庫には、もうもうと立ち上る白い湯気と、香ばしい油の匂いが満ちていた。
「宗介様! 江都中から集めさせた菜種油と牛脂、そして極上の樫の木灰が、蔵いっぱいに届きましたわ!」
小夜が腕まくりをし、手代たちを指揮しながら宗介の元へ駆け寄ってきた。
鳳凰の友禅染めから動きやすい職人風の小袖に着替えているが、漂う伽羅の甘美な香りと、引き締まった肢体の美しさは隠しようもない。
「ありがとうございます、小夜さん。これだけあれば、江都全域へ配るのに十分な石鹸が作れます」
宗介の目の前には、十数個の巨大な銅鍋が並べられていた。
『マスター、鹸化反応プロトコルを展開します。木灰から熱湯抽出した高濃度炭酸カリウム水溶液に、消石灰(水酸化カルシウム)を添加して苛性アルカリ化。油脂と混合し、九十度から九十五度の温度帯を維持して攪拌を継続します』
シズクの精密な指示に従い、宗介は職人たちに指示を飛ばした。
「火力を落とさず、焦げ付かないように大きな櫂で一気に混ぜてください! 白くトロトロに濁ってきたら、塩を投入して『塩析』を行います!」
「へ、へいっ! まかせときなせえ!」
職人たちが大鍋を力強くかき混ぜていくと、透明だった油とアルカリ水が化学反応を起こし、見る見るうちに滑らかな純白のクリーム状へと変化していった。
塩を加えると、不純物が下に沈み、上層に純度の高い石鹸分がぷかぷかと浮き上がってくる。
それを木枠に流し込み、冷え固まったところで包丁を入れると――手に吸い付くような、きめ細かく美しい【純白の固形石鹸】が何千個も切り出された。
「まあ……! 南蛮渡りの高級な『しゃぼん』は、油臭くて使い心地も悪かったのに……これは雪のように白くて、全く嫌な匂いがいたしませんわ!」
小夜が目を輝かせて石鹸を手のひらに乗せた。
さらに宗介は、万代屋の酒蔵にあった陶器製の蒸留器(蘭引)に、お抱えの銅細工職人に頼んで螺旋状の冷却銅管を取り付けさせ、冷却水で急速冷却する【高効率改良蒸留装置】を組み上げていた。
「そして、もう一つ。酒粕から搾り出した濁り酒を、この改良蒸留器で二度蒸留しました。アルコール度数七十五パーセント以上の【高純度消毒液】です」
宗介がガラス瓶の栓を抜くと、ツンと鼻を抜ける清涼なエタノールの香りが広がった。
「石鹸の泡は、病原菌を包み込んで水で洗い流します。そしてこの消毒液は、触れた瞬間に菌の膜を破壊して即死させる。……この二つを組み合わせれば、手や食器からの感染をほぼ百パーセント遮断できます」
「素晴らしいですわ……! これなら、長屋の民から大名屋敷まで、誰もが病魔から身を守れます!」
その日の午後、老中筆頭・西園寺正信の署名が入った『公儀大防疫令』が、江都中の辻番所や高札場に一斉に掲示された。
【一、生水の飲用を堅く禁ず。必ず煮沸した湯冷ましを飲むべし】
【一、食事の前および便所の後は、公儀より配給する『石鹸』にて念入りに手を洗うべし】
【一、下痢・嘔吐の兆しある者は、直ちに万代屋特製の補水薬湯を飲むべし】
万代屋の販売網と幕府の号令により、石鹸と消毒液は瞬く間に江都の町中へと行き渡った。
町人たちは最初こそ半信半疑だったが、井戸端で石鹸を泡立てて手を洗うと、泥汚れや魚の生臭さが跡形もなく消え去り、水切れの良さに熱狂した。
「おい、見ろよ! この『せっけん』ってやつ、すげえ泡立ちだぞ!」
「油汚れも一発で落ちて、手がツルッツルになるじゃねえか!」
「宗介様の言う通りに湯冷ましを飲んで手を洗ってたら、うちの長屋からは一人も病人が出ねえぞ!」
科学的な衛生習慣の定着により、江都を恐怖に陥れていた疫病の拡大は、わずか数日で劇的に抑え込まれ始めた。
――その日の夕刻。
西園寺家の上屋敷の奥にある湯殿から、心地よい檜の香りと、少女たちの楽しげな笑い声が漏れ聞こえていた。
「……きゃっ、沙羅様、背中をお流しいたしますわ」
「ふふっ、くすぐったいぞ、小夜。……それにしても、宗介が特別に作ってくれたこの『薬用美肌石鹸』、まことに凄まじい使い心地じゃな」
宗介が一般向けの石鹸とは別に、上質な椿油とハッカ(薄荷)、そして白檀の精油を配合して二人にプレゼントした特製石鹸だった。
湯気立ち込める湯殿で、二人は贅沢な泡に包まれていた。
沙羅の陶器のように滑らかな白磁の肌に、きめ細かな濃密泡が吸い付くように広がる。小夜の豊満で艶やかな柔肌も、ふんわりとした泡に包まれて真珠のように煌めいていた。
「ええ……! 洗い流した瞬間、肌がもっちりと吸い付くように潤って、全身から白檀と撫子の清らかな香りが立ち上りますわ。……沙羅様の透き通るようなお背中、まるで抜けるように綺麗です」
「も、もうよい、恥ずかしい……! 小夜こそ、なんという豊満で見事な身体つきをしておるのじゃ……」
「あら、沙羅様こそ、無駄な肉が一つもない見事な引き締まり具合……宗介様が見たら、きっと息を呑んで倒れてしまいますわよ?」
「なっ……!? ななな、何を不埒なことを申すかッ!!」
湯殿からカッと顔を赤くした沙羅の叫び声と、小夜の妖艶な笑い声が響いてくる。
――しばらくして。
中庭に面した涼み縁側に腰掛けていた宗介の元へ、湯上がりの二人がやって来た。
「――宗介」
振り返った宗介は、思わず息を呑んで固まった。
そこに立っていた沙羅は、薄手の紅梅色の浴衣をふわりとまとい、濡れそぼった艶やかな黒髪を肩から流していた。湯上がりの上気した白肌はほんのりと桜色に染まり、襟元から立ち上るのは、あの愛おしい白檀と撫子、そして石鹸の清らかな香り。
その隣の小夜も、紫の艶やかな湯上がり着物に身を包み、色香あふれる笑顔を浮かべている。
「……宗介。そなたのくれた石鹸、まことに見事であったぞ。肌がすべすべになり、体の芯まで疲れが吹き飛んだのじゃ」
沙羅は恥ずかしそうに頬を染めながら、そっと自らの白く滑らかな手の甲を宗介に見せた。触れずとも伝わってくる、絹のような滑らかさと甘美な温もり。
「喜んでもらえてよかったです。沙羅さんも小夜さんも、すごく似合ってますよ」
「ほ、ほんとうか……? そなたにそう言ってもらえると……嬉しいのじゃ」
沙羅は嬉しそうに目を細め、ぽっと耳まで赤くして袖で顔を隠した。
小夜も妖艶に微笑み、宗介の隣へ腰を下ろす。
「宗介様。この美肌石鹸、万代屋で売り出せば、江都中の女子や吉原の遊女たちが競い合って千両箱を積みますわ。……ですが、病魔を完全に根絶するには、もう一段の改革が必要でございますね?」
小夜の鋭い問いかけに、宗介は力強く頷いた。
「はい。手洗いと消毒で水際を防いでも、千鳥川の水そのものが汚れていては根本的な解決になりません。……いよいよ、江都の命の動脈である『神楽・千鳥上水の大規模濾過浄水改革』に着手します!」
石鹸による衛生革命の成功を足がかりに、宗介はいよいよ大都市・江都の心臓部である水道インフラの全面刷新へと挑むのだった。
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