第10話 江都を襲う謎の熱病 〜見えない敵との戦い〜
飛鳥創です。いつもお読みいただきありがとうございます!
万代屋を出た宗介、沙羅、小夜の三人は、千鳥川の下流沿いに広がる深川風の職人長屋街――『川端長屋』へと急行した。
普段なら威勢のいい魚売りや職人たちの掛け声で賑わうはずの路地は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
漂ってくるのは、重苦しい線香の煙と、鼻を突く汚物の臭気。
粗末な板戸の隙間からは、苦悶に満ちた呻き声と、赤ん坊の弱々しい泣き声が漏れ聞こえていた。
「……ひどい……。ここまで酷くなっておったとは……」
沙羅が痛ましげに唇を噛み締め、刀の柄をぎゅっと握りしめた。
長屋の路地裏には、白い死装束をまとった祈祷師が、苦しむ町人の頭上でお札を振り回し、大声で呪文を唱えている。
「南無阿弥陀仏、悪霊退散! 川の主の祟り(たたり)じゃ、祟りを鎮めねばこの長屋は全滅するぞ!」
「た、頼みます、お師匠様……! うちの坊主を、助けてやってくだせえ……!」
母親が涙を流してすがりつき、布団の上では五歳ほどの幼い男の子が、激しい嘔吐と下痢で顔を青ざめさせ、ぐったりと意識を失いかけていた。
「おい、そこを退け!」
宗介が駆け寄り、祈祷師の手を遮った。
「な、何だ貴様は!? 祈祷の邪魔をするな、祟りが移るぞ!」
「悪霊でも祟りでもありません! これは目に見えない小さな毒虫――『病原菌』による病気です! 怪しげな札を振っている暇があったら、すぐに清潔な水を沸かしてください!」
「宗介様……!」
小夜が手ぬぐいで口元を押さえながら、心配そうに駆け寄ってきた。
「町医者たちは、川の悪い空気――『瘴気』を吸い込んだせいで内臓が腐る奇病だと申しておりますが……」
「空気感染じゃありません。シズク、周辺環境と患者の症状をスキャンしてくれ」
『了解しました。カメラ画像解析および簡易スペクトル測定を開始します』
宗介がスマホを掲げると、イヤホンからシズクの冷静な分析結果が即座に返ってきた。
『患者の主症状:米のとぎ汁状の激しい水様便、連続する嘔吐、急激な血圧低下と重度の脱水症状。……病因特定完了。コレラ菌類似の水系病原細菌による、急性感染性腸炎と断定します』
「やっぱり……『コロリ』だ!」
宗介は路地の中央にある共同井戸へと駆け寄った。
井戸のすぐ隣には、長屋の汲み取り式便所と、生活排水が流れ込むドブ川が隣接していた。長年の雨水によって、地下の汚水が浅い井戸の中へじわじわと染み出しているのだ。
「シズク、井戸水の水質は!?」
『高濃度の有機汚染および大腸菌群・病原性細菌コロニーを検知。この共同井戸の生水を飲んだ住民が、次々と体内で菌を増殖させ、排泄物を通じてさらに井戸を汚染する――致命的な二次感染ループが形成されています』
「原因が分かりました。悪霊でも空気でもなく、この『井戸水』です!」
宗介は振り返り、沙羅と小夜、そして長屋の差配(管理人)に向かって力強く叫んだ。
「この井戸の水をそのまま飲むのを、今すぐ絶対に禁止してください! 水を使うときは、必ずぐつぐつと沸騰させて、冷ました『湯冷まし』だけを飲むこと! そして、患者の吐いたものや便を触った手は、熱湯と灰汁で徹底的に洗ってください!」
「み、水を煮沸するだけで、悪熱が防げるのか……!?」
長屋の差配が目を丸くして驚愕した。
「はい! 病原菌は熱に弱いんです。火を通せば完全に死滅します!」
続けて宗介は、布団で衰弱している子供の元へ膝をついた。
子供の皮膚は乾燥し、唇は紫色に変色して脈が弱くなっている。
「下痢と嘔吐で、体の中の水分と塩分が猛烈な勢いで失われています。このままじゃ脱水症状で心臓が止まってしまう……! 小夜さん、万代屋の力で、清潔な『白湯』と『粗塩』、そして『水飴(砂糖)』を至急用意できますか!?」
「ええ、すぐに手配いたしますわ! 手代たち、店から一番上等な塩と砂糖樽をここへ運ばせなさいッ!」
小夜の素早い号令で、万代屋の奉公人たちが荷車を引いて駆け込んできた。
『経口補水液(ORS)調合比率を展開。沸騰させた清潔な湯一升(約一・八リットル)に対し、食塩三匁(約十一グラム)、砂糖十匁(約三十七グラム)を溶解。浸透圧を人体の血液濃度と等張に維持します』
シズクの指示に従い、宗介は木椀の中で黄金比の塩と砂糖を湯に溶かし、人肌まで冷ました。
「お母さん、この温かい水を、一口ずつでいいからこの子に飲ませてあげてください」
「は、はい……!」
震える母親の手で、木匙から甘塩っぱい水が子供の乾いた唇へと注ぎ込まれた。
一さじ、二さじ……。
脱水で枯渇していた子供の身体が、命の水を細胞の隅々まで吸収していく。
――半刻(約一時間)後。
「……う、ううん……」
ぐったりとしていた男の子が、ふっと小さく目を開けた。
紫だった唇にほんのりと赤みが戻り、弱々しかった呼吸が、規則正しい寝息へと変わっていく。
「ぼ、坊や……! 坊やが息を吹き返した……! ああ、神様、宗介様……!!」
母親が子供を抱きしめ、畳に額をこすりつけて号泣した。
その光景を見ていた長屋の住人たちから、地鳴りのような歓声が上がった。
「生き返ったぞ……! あの子が息を吹き返した!」
「お札や祈祷じゃちっとも治らなかったのに、宗介先生の作った甘い水で……!」
沙羅が感極まったように宗介の隣に駆け寄り、その袖をぎゅっと握りしめた。
「宗介……! まこと、見えない病魔の正体を突き止め、命を救ったのじゃな……!」
「ええ。でも、これはまだ長屋の一角を救っただけです」
宗介は立ち上がり、千鳥川の対岸に広がる広大な江都の町を見据えた。
「江都中には、同じような浅い共同井戸が無数にあります。このままじゃ、百万人の大都市全体に疫病が燃え広がってしまう。……小夜さん、沙羅さん」
「何でも仰ってくださいまし、宗介様。万代屋の資財と人脈、すべてお使いください」
「うむ! 公儀の力が必要ならば、父上を動かして城下全域に触れを出させよう!」
二人の心強い美女が、宗介の左右で力強く頷いた。
「江都中の井戸を消毒し、油と灰から強力な殺菌用『せっけん』を大量生産します。そして――病気にかからない安全な水を届ける『神楽・千鳥上水の近代濾過システム』を敷きましょう!」
見えない細菌の脅威に対し、近代科学と公衆衛生の知恵を結集した、空前絶後の都市防疫作戦が幕を開けた。
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