第9話 大店『万代屋』の若女将 〜伽羅の香る美女・小夜との出会い〜
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幕府の『技術御用掛』に任命されてから二日後。
西園寺正信から宗介に下された最初の命は、意外にも政治や軍事ではなく――「民間の商人と手を組むこと」だった。
『いくら優れた知恵や技術があろうと、お上の金だけでばら撒いていては国が持たん。民が己の銭で買い、作り手が潤い、勝手に広がっていく仕組みを作らねば、真の富国強兵とは言えんからの。……江都一の豪商に会うてまいれ』
正信の言葉を受け、宗介は沙羅の案内で、江都随一の大通り・本町通りへとやって来ていた。
立ち並ぶ大店の前には、華やかな暖簾が揺れ、千両箱を積んだ大八車や行き交う町人たちでごった返している。
「ここじゃ、宗介。瑞穂国で最も手広く海運と両替を商う大店――『万代屋』じゃ」
沙羅が指差した先には、三階建ての壮麗な白壁土蔵造りの本館が堂々とそびえ立っていた。
黒地に金の筆文字で『万代屋』と染め抜かれた巨大な藍染め暖簾をくぐると、奥の豪奢な座敷へと通された。
「――お待たせいたしましたわ、沙羅様。そして……そちらが噂の、異世界からいらした若き知恵者様ですの?」
ふすまが滑らかに開いた瞬間、部屋の空気が一変した。
鼻腔をくすぐったのは、格式高い寺社の白檀とは異なる、甘く濃厚で妖艶な【伽羅】の高級薫香だった。
そこに現れたのは、息を呑むほどに艶やかな一人の若き美女だった。
年は十九か二十歳ほど。
身にまとっているのは、朱色と金糸で見事な鳳凰が織り込まれた極上の友禅染の着物。ゆったりと結ばれた帯が、布越しにも分かる豊満でしなやかな肢体を妖艶に引き立てている。
濡れ羽色の黒髪は島田髷に美しく結い上げられ、揺れるべっ甲の簪がカチリと澄んだ音を立てた。
白粉に映える紅を差した唇が、艶っぽく弧を描いている。
「万代屋の当主を務めております、小夜と申します。宗介様……お目にかかれて光栄ですわ」
小夜は流し目を送りながら、宗介の正面に優雅に腰を下ろした。
座る拍子に、ふわりと濃厚な伽羅の香りが漂い、宗介の視線が思わず釘付けになる。
「司馬宗介です。よろしくお願いします、小夜さん」
「うむ。小夜、父上からの内意は聞いておろう。宗介の技術を、万代屋の商いの力で江都中へ広げてほしいのじゃ」
沙羅が少し警戒するように、宗介の半歩前に身を乗り出して口を挟んだ。
「ええ、老中様からのお手紙は拝読いたしましたわ。……ですが沙羅様、私ども商人は、いくらお上のお声がかりとて、利の出ない絵空事に銭は出せませんの。宗介様……私を唸らせるような『お宝』を、見せていただけますかしら?」
小夜が試すように、妖艶な瞳を細めて宗介を見つめてくる。
「もちろんです。今日は二つ、万代屋さんに提案があります」
宗介は懐から、昨日西園寺邸の庭先でシズクの指導のもと試作した、小さな桐箱を取り出した。
蓋を開けて畳の上に置く。
「……まあ!?」
小夜が思わず目を見開き、身を乗り出した。
箱の中に収まっていたのは――瑞穂国に流通している濁った緑色のガラス(びいどろ)とは次元が違う、一点の曇りもない、水晶のように透き通った【高品質ソーダ石灰ガラス】の小瓶だった。
「珪砂と石灰、草木灰のアルカリ成分を最適な比率で溶融させた、無色透明の硬質ガラスです。これを使えば、歪みのない『窓ガラス』や『精密レンズ・眼鏡』、そして薬品を入れる『清潔な医療用ガラス瓶』を、従来の十分の一の費用で量産できます」
「な……なんて澄んだ輝き……! 南蛮渡りの最高級ギヤマンですら、これほど透明なものはございませんわ……!」
小夜は手袋越しに小瓶を手に取ると、光にかざしてうっとりと見つめた。
「さらに、もう一つ。緑川村を救った『特製バイオ有機ボカシ肥料』の配合技術です。魚のアラや米ぬかから作るこの肥料を、万代屋の舟運ネットワークで全国の農村へ流通させれば、収穫量は三割から五割跳ね上がります。米の流通を握る万代屋にとって、どれほどの利益になるか……計算できますよね?」
『補足データ提示。年間予想流通規模――金三万両相当の経済効果と試算されます』
宗介のスマホから、シズクの涼やかな音声が静かに響いた。
「き、金三万両……!? 板が喋ったことにも驚きですが……この数字、決して法螺ではございませんわね……!」
小夜の商人の瞳に、猛烈な熱気が宿った。
彼女はためらうことなく宗介の前に膝でにじり寄ると、宗介の両手をぎゅっと自らの柔らかな手で包み込んだ。
「宗介様……! なんて恐ろしいお方……! これほどの富を生み出す知恵を、いともあっさりと……! 決めましたわ。万代屋は、宗介様の技術の独占販売権を買い取らせていただきます! 宗介様のためなら、万代屋の全財産を投じても構いませんわ……!」
至近距離から漂う、濃厚な伽羅の香りと、着物の胸元から伝わる柔らかな温もり。
上目遣いで甘く囁く小夜の迫力に、宗介は思わず息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと待つがよい、小夜ッ!!」
たまらず割って入ったのは、顔を真っ赤にした沙羅だった。
沙羅は宗介と小夜の間に割って入ると、小夜の手を宗介から引き離し、仁王立ちで睨みつけた。
「な、何を宗介に馴れ馴れしく密着しておるのじゃ! 宗介は公儀の技術御用掛! そなたのような不埒な商人に籠絡されてよい男ではないぞ!」
「あらあら、沙羅様。私は商談をしているだけでございますのに……もしかして、やきもちを焼いていらっしゃいますの?」
「なっ……!? や、やきもちなどと滅相もない! 妾はただ、公儀の品位を……っ!」
沙羅は耳の先まで真っ赤に染め上げ、長い袖で顔を隠してバタバタと取り乱している。
その可愛らしい姿に、宗介も小夜も思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、冗談ですわ、沙羅様。……ですが宗介様、商談は本気でございます。すぐにでも工房の手配と職人の手配を進めましょう」
小夜は居住まいを正すと、ふと、その整った眉を痛ましげに曇らせた。
「……実を申しますと、宗介様の清潔なガラスや衛生の知恵、一刻も早くお借りしたい理由がございますの」
「理由……ですか?」
宗介が問い返すと、小夜は声を潜め、深刻な面持ちで語り始めた。
「ここ数日……千鳥川沿いの貧しい職人長屋で、激しい下痢と高熱で倒れる町人が相次いでおりますの。町医者たちも『原因不明の悪熱』とお手上げで、すでに何人もが命を落としております。……このままでは、江都中に恐ろしい疫病が広がるかもしれませぬ」
小夜の言葉に、宗介の表情が一変した。
(激しい下痢と脱水症状……水系感染症の集団発生か!?)
大都会・江都を揺るがす見えない脅威――『疫病』の影が、静かに忍び寄っていた。
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