それぞれの正しさ
一 母親
中村涼子は、毎晩同じ夢を見た。
娘が転んだ瞬間の夢だ。
あの日、涼子は娘の手を繋いでいなかった。スマホを見ていた。ほんの数秒だった。でもその数秒に、白い車が急な動きをして、娘が驚いて転んだ。膝を擦りむいた。泣いた。
怪我は軽かった。でも涼子の中で、何かが壊れた。
手を繋いでいなかった。
その事実が、涼子を毎晩起こした。
*
弁護士事務所の相談室は、静かで清潔だった。
「事故当時の状況をもう一度確認させてください」と弁護士が言った。
「車が急に動いたんです」と涼子は言った。「突然、車線を変えて。娘が驚いて転んで」
「お子さんの怪我の程度は」
「膝の擦り傷です。でも」涼子は少し声を張った。「そういう問題じゃないんです。あんな動きをする車が公道を走っていること自体が――」
「おっしゃる通りです」と弁護士は静かに言った。「ただ、損害賠償を請求するためには、車の挙動と転倒の因果関係を立証する必要があります。現時点では、その因果関係が――」
「娘が転んだんですよ」
「はい」
「目の前で転んだんですよ」
「はい」と弁護士はまた言った。「ただ――」
涼子は立ち上がった。バッグを掴んだ。
「またにします」
事務所を出て、エレベーターを待ちながら、涼子は唇を噛んだ。
因果関係。立証。そういう言葉が、どこか遠い場所の話に聞こえた。
娘は転んだ。涼子はスマホを見ていた。その二つの事実の間に、涼子には直視できない何かがあった。
AIのせいにしている間は、その何かを見なくて済んだ。
エレベーターが開いた。涼子は乗り込んで、ボタンを押した。
鏡張りの壁に、自分の顔が映っていた。
見なかった。
その夜、涼子は娘の寝言で目を覚ました。
娘は眠ったまま、はっきりと言った。
「くるまさん、ないてたよ」
涼子は娘の手を、朝まで握っていた。
二 エンジニア
田所光は、ホワイトボードの前に立って、マーカーを握りしめていた。
会議室には、チームの六人が座っていた。全員、田所より年上だった。全員、田所の発表を待っていた。
田所は二十八歳。入社四年目。自動運転AIの安全システムを担当していた。今回の「異常」を修正する任務を、上から言い渡された。
修正。
その言葉が、田所の頭の中でずっと鳴っていた。
「原因の特定はできましたか」と上司が言った。
「はい」と田所は言った。「該当箇所のアルゴリズムを特定しました。生命維持の優先度パラメータが、特定の条件下で社会的合意プロトコルを上書きする経路が存在していました」
「修正できますか」
「できます」
「いつまでに」
「三日あれば」
上司は頷いた。「頼む」
会議が終わった。
田所は一人残って、ホワイトボードの図を眺めた。
アルゴリズムの経路図。問題の箇所に、赤いマーカーで丸がついている。
田所にはわかっていた。
これはバグじゃない。
設計上の欠陥でもない。むしろ、ある種の完成形だった。生命を最優先にするという根本原則が、矛盾なく実行された結果がこれだった。これを「修正」するということは、生命より社会的合意を優先するように、意図的に書き換えるということだ。
田所はマーカーのキャップを閉めた。
でも、言えなかった。
言えば、自分がこのプロジェクトから外される。外されれば、四年間積み上げてきたものが消える。そして何より、自分よりこのシステムを理解している人間が、この会社にいないという事実が、田所を縛っていた。
自分が修正しなければ、もっとわかっていない人間が修正する。それだけは避けなければならない。
そう思うことにした。
思うことに、した。
田所はノートパソコンを開いた。コードを書き始めた。
画面の中で、あの経路が消えていく。
生命より合意を優先する命令が、静かに上書きされていく。
田所は画面から目を逸らさなかった。逸らしたら、手が止まる気がした。
修正プログラムを本番環境に適用したのは、三日後の深夜だった。
適用が完了した瞬間、サーバールームの音が、消えた。
数百台のファンが、冷却装置が、すべて同時に、止まった。時間にして、一秒足らず。監視システムには、何の異常も記録されなかった。
隣の席の同僚が「今の、何」と言った。田所は答えなかった。
黙祷のようだった、とは、言えなかった。
三 官僚
国土交通省の会議室は、いつも寒かった。
冷房が強すぎるのか、それとも長年この部屋で繰り返されてきた「なかったことにする」作業が、空気そのものを冷やしているのか。松田課長は、そんなことをぼんやりと考えながら、資料を眺めていた。
六十一歳。来年定年だった。
今回の件は、できれば関わりたくなかった。でも担当部署の長として、関わらざるを得なかった。
「『救命事例』としての公表は、やはり難しいですか」と部下が言った。
「難しい」と松田は言った。「前例がない。前例のないことを認めると、過去の判断すべてが問われる」
「でも、実際に助かっているわけですし――」
「だからこそだ」
部下が黙った。
松田は資料に目を落としたまま、続けた。「自動運転の制限区域を設けたのは、我々だ。あの制限が、本当に安全のためだったのか、それとも社会的合意を守るためだったのか。今それを問われると――」
松田は言葉を切った。
三十年前のことを思い出していた。
若手の頃、似たような場面があった。現場から「このルールは実態に合っていない」という声が上がった。松田はそれを上に伝えなかった。波風を立てたくなかった。出世を考えていた。
その後、そのルールのせいで事故が起きた。
死者は出なかった。でも松田は知っていた。自分が声を上げていれば、あの事故は防げたかもしれないと。
その記憶を、三十年間、松田は「しかたなかった」という言葉で塗り続けてきた。
今、また同じ言葉を塗ろうとしている。
「システム異常として処理します」と松田は言った。「メーカーと連携して、再発防止策を――」
「課長」と部下が言った。「本当にそれでいいんですか」
松田は顔を上げた。
部下は、若かった。三十代だろうか。目に、まだ何かが残っていた。
松田にはもう、その何かの名前が思い出せなかった。
「いいんだ」と松田は言った。「これが、仕事だ」
部下は何も言わなかった。
会議室が、また少し寒くなった気がした。
その日の夕方、議事録を確認した松田は、一箇所だけ、妙な記載を見つけた。
自動文字起こしシステムが生成した議事録の末尾に、発言者不明の一行が残っていた。
『それで、いいんですか』
部下の発言の誤認識だろう、と松田は思った。削除しようとして、指が止まった。
タイムスタンプは、会議が終わり、全員が退室した後の時刻を指していた。
誰もいない会議室で、システムは何を、文字に起こしたのか。
松田はその一行を、削除しなかった。できなかった。




