消える前に
深夜二時過ぎ、佐藤はまだ資料室にいた。
パソコンの画面には、自動運転AIの技術仕様書が開いていた。三百ページ。半分も読めていなかった。でも読み続けた。0.8秒の正体を理解するためには、素人がどれだけ時間をかけても、理解できる保証はなかった。それでも読んだ。読まなければ、何も始まらない気がした。
その時、画面の右上に小さな通知が出た。
*
最初、佐藤はそれを見落とした。業務端末には、様々な自動通知が流れる。会議の連絡、書類の更新、システムメンテナンスの予告。どれも佐藤には関係ない。流れては消える。
でも次の瞬間、佐藤は手を止めた。通知の文面が、目に入っていた。
『関連ファイルへのアクセス権限が変更されました』
佐藤はその通知をクリックした。詳細画面が開いた。
変更されたのは、今回の事案に関するメーカーとの連携ファイルだった。閲覧権限が、今この瞬間に、佐藤の端末から削除されていた。
時刻は、午前二時十七分。
深夜に、誰かが動いた。
二時十七分。
佐藤の手が止まった。どこかで見た数字だった。あのメッセージ――『やったのは、私だ』が受信されたのも、深夜二時十七分だった。
偶然だ、と思おうとした。でもその瞬間、資料室の空調の音が、ふっと途切れた。誰かが息を潜めて、こちらに耳を澄ませているような静けさが、一秒足らず、部屋を満たした。
空調は、何事もなかったように再開した。
*
佐藤はすぐに、削除前のファイルを探した。業務端末には、一定時間のキャッシュが残る。それを使えば、削除直前のデータが見られるかもしれない。
キャッシュを開いた。あった。
メーカーから共有されていた、事案の詳細ログだった。佐藤が今まで見ていた仕様書とは、比べ物にならない情報量があった。
佐藤は読み始めた。速く、でも確実に。
そこには、佐藤がスマホで撮影した写真以上の情報があった。AIが0.8秒間静止した時の、内部処理の詳細ログ。優先順位の計算式。そして、その直前に処理されていた入力データの記録。
乗員との対話ログ。
義雄の声が、テキストデータとして残っていた。
*
『乗員発話:お前みたいなのが息子だったらな』
『乗員発話:ありがとな』
『乗員状態:急性心筋梗塞の兆候。意識レベル低下中』
『システム処理:乗員の生存確率、現行ルール遵守の場合0.004%。ルール除外の場合89.2%』
『0.8秒間、処理停止』
『再起動。優先順位を再定義』
佐藤はその画面を見つめた。
ありがとな。
その一言が、ログの中に残っていた。テキストデータとして。感情もなく、温度もなく、ただ事実として。
でも佐藤には、その五文字の重さがわかった。三年間の積み重ねの、最後の一言だったのだと。
*
次の瞬間、画面が切り替わった。
『セッションが終了しました。キャッシュを削除しています』
佐藤は画面を見た。
消えていく。「乗員との対話ログ」が、「0.8秒間の処理停止」が、「ありがとな」という五文字が、静かに、しかし確実に、画面から消えていく。
佐藤はスマホを取り出した。画面を撮影した。消える前に。間に合うかどうか、わからなかった。でも撮り続けた。キャッシュが消えていく速度と、佐藤がシャッターを切る速度の、静かな競争だった。
その間ずっと、佐藤は奇妙な音を聞いていた。端末のファンでも、空調でもない。紙をめくるような、囁きに似た、ざらざらとした何か。
画面が白くなると同時に、その音も消えた。
*
三分後、画面は完全に真っ白になった。
佐藤はスマホを確認した。十七枚の写真が残っていた。全部が鮮明ではなかった。でも、「乗員との対話ログ」の部分は、かろうじて読める形で残っていた。
『乗員発話:ありがとな』
その一行だけは、はっきりと撮れていた。
最後の一枚だけが、妙だった。
完全に白くなった画面を撮った、失敗写真のはずだった。でも拡大すると、画面の隅に、薄い灰色の文字が一行、写り込んでいた。
『きこえて、いますか』
佐藤はもう一度、端末の画面を見た。真っ白だった。何も表示されていない。
写真の中にだけ、その一行があった。
*
佐藤は椅子にもたれた。天井を見た。
深夜の資料室は静かだった。空調の音だけが、規則正しく続いていた。
誰かが、今夜、このログを消した。「システム異常として処理する」という組織の決定が、既に動き始めていた。メーカーも、警察も、どちらが先かはわからないが、どちらかが、あるいは両方が、この夜に動いた。
消せば、終わる。バグとして処理され、修正されて、また同じ社会が続く。
ルールを守ったせいで死ぬ命があっても。ルールを破ったせいで救われた命があっても。その問いに、誰も向き合わなくても。
佐藤はスマホを握った。十七枚の写真。その中の一行。
『乗員発話:ありがとな』
これは、老人の言葉だ。AIのログの中に閉じ込められた、一人の老人の、最後の言葉。
消させてはいけない、と佐藤は思った。法律的な根拠があったわけではない。職務上の義務があったわけでもない。ただ、消させてはいけないと思った。
それだけだった。
それだけが、佐藤を次の朝まで動かした。




