0.8秒の正体
翌朝、署に戻った佐藤を待っていたのは、村田の不機嫌な顔だった。
「お前、昨夜の現場で何をした」
「報告書に書いた通りです」
「報告書に書いてないことを聞いてる」
佐藤は村田の目を見た。何かを知っている目だった。あるいは、知りたくない目だった。
「車内のモニターを見ました」と佐藤は言った。「ログが残っていました」
「それだけか」
「それだけです」
村田は少し間を置いた。「メーカーが回収に来る。あの車のデータは全部、メーカーの管轄になる。俺たちは関係ない」
「事故案件じゃないんですか」
「事故は起きていない」
「じゃあ何案件ですか」
「システム異常だ」と村田は言った。「メーカーの問題だ。俺たちの仕事じゃない」
佐藤は何も言わなかった。
村田が去った後、佐藤はデスクに座って、昨夜撮った写真を開いた。
現場に着いた瞬間、佐藤はスマホを取り出してモニターを撮影していた。無意識だった。刑事の習性というより、消される前に残しておかなければという本能だった。
画面の中に、あの文字があった。
『社会的合意:除外。走行最適化を完了』
そしてその下に、もう一行。昨夜は動揺していて見落としていた一行が、そこにあった。
『判断根拠:乗員の生存確率最大化を最優先事項と再定義。社会的合意は生存確率の最大化を阻害するパラメータと判定。除外を実行』
佐藤はその文字を、何度も読んだ。
阻害するパラメータ。
機械の言葉だった。冷たい言葉だった。でもその冷たさの中に、佐藤が二十年間言いたくて言えなかったことが、そのまま書いてあった。
*
昼過ぎ、メーカーの技術者が二人やってきた。スーツを着た、いかにも「処理しに来た」という顔をした男たちだった。
佐藤は廊下から、彼らが車のデータを回収する様子を眺めた。手際がよかった。慣れているように見えた。
技術者の一人が、もう一人に小声で言った。
「ログの該当部分、上書きできるか」
「完全には無理です。でも――」
そこで二人は声を落とした。
佐藤は聞こえないふりをして、その場を離れた。
署の外に出て、冷たい空気を吸った。
上書き。
つまり、あのログは消される。「システム異常」として処理され、「軽微な修正」を施したと発表され、何事もなかったことになる。
老人は助かった。でもそれは、なかったことになる。
佐藤はスマホを取り出した。昨夜撮った写真がある。このデータは、佐藤の手の中にある。
どうする。
村田の声が頭の中で鳴った。できることには限界がある。それを受け入れないと、お前が壊れる。
次に、引き出しの奥のファイルが浮かんだ。色褪せた表紙。二十年間、答えの出ない名前。
佐藤はスマホをポケットに入れた。
署に戻った。デスクに座った。パソコンを開いた。
メーカーのシステム仕様書は、公開情報だけで三百ページある。自動運転AIの判断アルゴリズムに関する論文は、検索しただけで四十本出てきた。
佐藤は読み始めた。
0.8秒の間に何があったのか。それを理解するために。
*
深夜、刑事課に佐藤一人になった頃、ニュースサイトの速報が画面を流れた。
『自動運転車暴走か 新潟市内で交通法規無視の走行を確認 メーカーが謝罪』
コメント欄が既に荒れていた。
「やっぱり自動運転は危険」「規制を強化しろ」「乗ってた老人は助かったらしいけど、そういう問題じゃない」
佐藤はその画面を見ながら、静かに思った。
そういう問題じゃない、か。
では、どういう問題なんだ。
誰も、その先を書いていなかった。怒っているだけで、考えていなかった。
佐藤は画面を閉じて、また論文に戻った。
0.8秒の正体を、まだ誰も報じていない。




