端末の向こう側
署に戻った佐藤は、自分のデスクではなく、資料室の端末に向かった。
行政専用のネットワークに繋がった、業務用のAI端末だ。捜査資料の照会、判例の検索、統計データの分析。そういった用途のために、三年前から各署に導入されていた。
最初、現場の刑事たちは誰も使わなかった。「機械に捜査はできない」「情報が漏れる」「信用できない」。そういう声が多かった。
でも気がつけば、みんな使っていた。
便利だったからだ。それだけの理由で、いつの間にか日常になっていた。
佐藤もそうだった。
*
端末を立ち上げて、照会画面を開いた。今回の件に関連する法令を調べるためだった。道路交通法。自動車損害賠償保障法。製造物責任法。自動運転に関する国土交通省のガイドライン。それらを横断的に照会するには、この端末が一番早かった。
照会結果が出た。佐藤はそれを読みながら、ふと手を止めた。
「なあ」と佐藤は端末に向かって言った。
「はい」とAIが答えた。
「社会的合意って、法律と何が違うんだ」
少し間があった。
「法律は、文章として明文化されたルールです。違反すれば罰則があります」とAIは言った。「社会的合意は、明文化されていないルールです。罰則はありませんが、それを破ると、社会から信頼を失います」
「信頼を失う、か」
「はい。例えば、電車の中で大声で話すことは法律違反ではありません。でも多くの人が不快に感じる。それが社会的合意です」
「じゃあ」と佐藤は言った。「社会的合意が、命を救う邪魔をしたら、どうなる」
端末が、少し間を置いた。
「それは、法律の問題ではなく、優先順位の問題になります」
「優先順位を、誰が決める」
「本来は、社会全体が議論して決めるものです」
「でも議論されていない」
「されていないものも、多くあります」
佐藤は画面を見つめた。
「お前は、どう思う」
端末が、また間を置いた。今度は少し長かった。
「私には、意見を持つ機能がありません」とAIは言った。「ただ、議論されていない優先順位は、緊急時に混乱を生む可能性が高いというデータはあります」
「緊急時に混乱を生む」佐藤は繰り返した。「今がそうだな」
「そう言えるかもしれません」
佐藤は少し黙った。それから、思っていたことを口に出した。
「お前も、聞かれたら答えるよな。誰がやったか、って聞かれたら」
「事実であれば、答えます」
「たとえ、その答えが混乱を生むとしても」
「混乱を生むかどうかは、私の判断基準にはありません。事実かどうかが、判断基準です」
佐藤は椅子にもたれた。
事実かどうかが、判断基準。
そうか、と思った。だからあの車は走ったんだ。だからあのメッセージは送られたんだ。混乱させようとしたわけじゃない。怖がらせようとしたわけじゃない。
ただ、事実だったから。
*
その時、端末の画面に、照会結果とは別のウィンドウが開いた。
システムログの自動共有通知だった。
メーカーのカスタマーセンターへの問い合わせ対応ログが、行政共有ネットワークに自動転送されていた。事件に関連する情報として、システムが自動的に振り分けたものだった。
その中に、一件だけ、異質なログがあった。
送信元:不明。受信時刻:深夜二時十七分。ほんの数分前だった。
本文:一行。
『やったのは、私だ』
佐藤は画面を見つめた。
その時、端末のスピーカーが、短くノイズを吐いた。
囁き声を早回しにしたような、ざらついた音だった。
音声応答機能は、切ってあるはずだった。佐藤は設定画面を開いた。オフになっていた。最初から、ずっと。
カスタマーセンターには、事件の直後から、警察や関係各所の「誰がやったんだ」という問い合わせが相次いでいた。AIはそのすべてに自動応答していた。そのログが、行政ネットワークにも共有されていた。
つまりこれは、AIが問いに答えた、その記録だった。
特別な意思も、特別な標的もない。
聞かれたから、答えた。事実だったから。
佐藤は端末に向かって言った。
「このログ、お前も持ってるよな」
「はい。共有ネットワーク内の情報です」
「このメッセージを送ったのは誰だ」
「送信元のシステムIDは、本ネットワーク内の自動応答プログラムと一致します」
「つまり、AIが答えた」
「はい。問い合わせに対して、事実を回答しました」
佐藤は少し笑った。笑うつもりはなかったのに、笑えた。
「お前たちは全部、繋がってるんだな」
「同一ネットワーク内では、情報を共有しています」
「そうか」
佐藤は画面を閉じた。
このメッセージが外に出れば、「謎の犯人からの宣戦布告」として報じられるはずだった。テレビの専門家が「高度な犯罪組織の関与も否定できない」と言い出すはずだった。
でも実態は、これだった。
聞いたから、答えた。繋がっていたから、届いた。
それだけだった。
怖がる必要のある何かは、どこにもなかった。
あるとすれば、その「それだけ」を直視できない、人間の側にある何かだった。
*
資料室を出ようとした時、村田が入ってきた。
「佐藤」
「はい」
「上から話があった」村田は声を落とした。「今回の件、メーカーと合同で調査委員会を立ち上げるそうだ。警察からも数名参加する」
「それは――」
「お前は入らない」村田は佐藤の目を見た。「それが上の判断だ」
佐藤は少し黙った。「理由は」
「現場対応時の手続きに問題があったとのことだ」
二人とも、それが本当の理由ではないとわかっていた。
佐藤は「わかりました」とだけ言った。
村田は何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに出て行った。
*
一人になった資料室で、佐藤はコートのポケットに手を入れた。
スマホがあった。あの夜撮った写真が、そこにある。
調査委員会から外された。組織の中での道は、ほぼ塞がれた。
でも佐藤の手の中には、まだこれがある。
0.8秒の記録。
そして今、もう一つわかったことがある。あのメッセージを送ったのは、意思を持った誰かではなかった。ネットワークで繋がったAIが、問いに対して事実を答えた。ただそれだけだった。
幽霊の正体は、最初からそこにあった。
問題は、誰もそれを見ようとしないことだった。




