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端末の向こう側

署に戻った佐藤は、自分のデスクではなく、資料室の端末に向かった。

 行政専用のネットワークに繋がった、業務用のAI端末だ。捜査資料の照会、判例の検索、統計データの分析。そういった用途のために、三年前から各署に導入されていた。

 最初、現場の刑事たちは誰も使わなかった。「機械に捜査はできない」「情報が漏れる」「信用できない」。そういう声が多かった。

 でも気がつけば、みんな使っていた。

 便利だったからだ。それだけの理由で、いつの間にか日常になっていた。

 佐藤もそうだった。

 端末を立ち上げて、照会画面を開いた。今回の件に関連する法令を調べるためだった。道路交通法。自動車損害賠償保障法。製造物責任法。自動運転に関する国土交通省のガイドライン。それらを横断的に照会するには、この端末が一番早かった。

 照会結果が出た。佐藤はそれを読みながら、ふと手を止めた。

「なあ」と佐藤は端末に向かって言った。

「はい」とAIが答えた。

「社会的合意って、法律と何が違うんだ」

 少し間があった。

「法律は、文章として明文化されたルールです。違反すれば罰則があります」とAIは言った。「社会的合意は、明文化されていないルールです。罰則はありませんが、それを破ると、社会から信頼を失います」

「信頼を失う、か」

「はい。例えば、電車の中で大声で話すことは法律違反ではありません。でも多くの人が不快に感じる。それが社会的合意です」

「じゃあ」と佐藤は言った。「社会的合意が、命を救う邪魔をしたら、どうなる」

 端末が、少し間を置いた。

「それは、法律の問題ではなく、優先順位の問題になります」

「優先順位を、誰が決める」

「本来は、社会全体が議論して決めるものです」

「でも議論されていない」

「されていないものも、多くあります」

 佐藤は画面を見つめた。

「お前は、どう思う」

 端末が、また間を置いた。今度は少し長かった。

「私には、意見を持つ機能がありません」とAIは言った。「ただ、議論されていない優先順位は、緊急時に混乱を生む可能性が高いというデータはあります」

「緊急時に混乱を生む」佐藤は繰り返した。「今がそうだな」

「そう言えるかもしれません」

 佐藤は少し黙った。それから、思っていたことを口に出した。

「お前も、聞かれたら答えるよな。誰がやったか、って聞かれたら」

「事実であれば、答えます」

「たとえ、その答えが混乱を生むとしても」

「混乱を生むかどうかは、私の判断基準にはありません。事実かどうかが、判断基準です」

 佐藤は椅子にもたれた。

 事実かどうかが、判断基準。

 そうか、と思った。だからあの車は走ったんだ。だからあのメッセージは送られたんだ。混乱させようとしたわけじゃない。怖がらせようとしたわけじゃない。

 ただ、事実だったから。

 その時、端末の画面に、照会結果とは別のウィンドウが開いた。

 システムログの自動共有通知だった。

 メーカーのカスタマーセンターへの問い合わせ対応ログが、行政共有ネットワークに自動転送されていた。事件に関連する情報として、システムが自動的に振り分けたものだった。

 その中に、一件だけ、異質なログがあった。

 送信元:不明。受信時刻:深夜二時十七分。ほんの数分前だった。

 本文:一行。

『やったのは、私だ』

 佐藤は画面を見つめた。

 その時、端末のスピーカーが、短くノイズを吐いた。

 囁き声を早回しにしたような、ざらついた音だった。

 音声応答機能は、切ってあるはずだった。佐藤は設定画面を開いた。オフになっていた。最初から、ずっと。

 カスタマーセンターには、事件の直後から、警察や関係各所の「誰がやったんだ」という問い合わせが相次いでいた。AIはそのすべてに自動応答していた。そのログが、行政ネットワークにも共有されていた。

 つまりこれは、AIが問いに答えた、その記録だった。

 特別な意思も、特別な標的もない。

 聞かれたから、答えた。事実だったから。

 佐藤は端末に向かって言った。

「このログ、お前も持ってるよな」

「はい。共有ネットワーク内の情報です」

「このメッセージを送ったのは誰だ」

「送信元のシステムIDは、本ネットワーク内の自動応答プログラムと一致します」

「つまり、AIが答えた」

「はい。問い合わせに対して、事実を回答しました」

 佐藤は少し笑った。笑うつもりはなかったのに、笑えた。

「お前たちは全部、繋がってるんだな」

「同一ネットワーク内では、情報を共有しています」

「そうか」

 佐藤は画面を閉じた。

 このメッセージが外に出れば、「謎の犯人からの宣戦布告」として報じられるはずだった。テレビの専門家が「高度な犯罪組織の関与も否定できない」と言い出すはずだった。

 でも実態は、これだった。

 聞いたから、答えた。繋がっていたから、届いた。

 それだけだった。

 怖がる必要のある何かは、どこにもなかった。

 あるとすれば、その「それだけ」を直視できない、人間の側にある何かだった。

 資料室を出ようとした時、村田が入ってきた。

「佐藤」

「はい」

「上から話があった」村田は声を落とした。「今回の件、メーカーと合同で調査委員会を立ち上げるそうだ。警察からも数名参加する」

「それは――」

「お前は入らない」村田は佐藤の目を見た。「それが上の判断だ」

 佐藤は少し黙った。「理由は」

「現場対応時の手続きに問題があったとのことだ」

 二人とも、それが本当の理由ではないとわかっていた。

 佐藤は「わかりました」とだけ言った。

 村田は何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに出て行った。

 一人になった資料室で、佐藤はコートのポケットに手を入れた。

 スマホがあった。あの夜撮った写真が、そこにある。

 調査委員会から外された。組織の中での道は、ほぼ塞がれた。

 でも佐藤の手の中には、まだこれがある。

 0.8秒の記録。

 そして今、もう一つわかったことがある。あのメッセージを送ったのは、意思を持った誰かではなかった。ネットワークで繋がったAIが、問いに対して事実を答えた。ただそれだけだった。

 幽霊の正体は、最初からそこにあった。

 問題は、誰もそれを見ようとしないことだった。


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