誰かになれなかった男
新潟県警の刑事課には、「捨て案件」と呼ばれる引き出しがある。
正式な名称ではない。ただ、誰もがその存在を知っていて、誰もがそこに触れないようにしている。事件性の立証が難しく、捜査リソースを割けず、しかし完全に閉じることもできない案件が、そこに静かに積み重なっていく。
佐藤賢二の机の引き出しの一番奥に、一冊のファイルがあった。
二十年前のものだ。色褪せた表紙に、一人の子供の名前が書いてある。中学の同級生だった。ある日突然いなくなって、そのまま見つからなかった。当時の捜査は、半年で実質的に止まった。「事件性なし」という言葉が、その子の名前の上に、静かに蓋をした。
佐藤がこの仕事を選んだのは、そのためだった。
自分が「誰か」になるために。
でも十年やってわかったことがある。組織の中で「誰か」になろうとすると、組織が「お前はまだ誰でもない」と言ってくる。そしてその声に従い続けると、いつの間にか、本当に誰でもない人間になっていく。
それが一番、怖かった。
*
「佐藤、また残ってるのか」
夜の刑事課に、先輩の村田が顔を出した。五十代、腹の出た、いかにも「組織で生き残ってきた男」という顔をしていた。悪い人間ではない。ただ、長く生きすぎた人間だった。
「防犯カメラの映像共有、また県に却下されました」と佐藤は言った。「今年で三回目です」
「プライバシーの問題があるって言ってるだろ」
「その社会的合意とやらのせいで、見えるはずのものが見えないんですよ」
村田は少し眉を上げた。「社会的合意、か。どこで覚えた言葉だ」
「研修で習いました。住民の合意なしに監視網を広げることへの慎重な姿勢、とかなんとか」
「それの何が間違ってる」
「間違ってないんですよ」と佐藤は言った。「だから余計に腹が立つ。正しいことが、誰かを見つける邪魔をしてる」
村田は何も言わなかった。それから、疲れたように言った。「お前の気持ちはわかる。でもな、できることには限界がある。それを受け入れないと、お前が壊れる」
「受け入れたら」と佐藤は言った。「俺が俺じゃなくなります」
村田はもう何も言わずに出て行った。
佐藤は引き出しを開けた。一番奥のファイル。色褪せた表紙。その子の名前。
二十年間、この子はどこにいるんだろうと思い続けている。そしてこれからも、おそらく答えは出ない。
それでも捨てられない。捨てたら、本当に誰でもない人間になる気がして。
*
その夜、佐藤は一人でパトカーを走らせていた。
理由はなかった。ただ、署にいると息が詰まった。動いていないと、諦めに似た何かが少しずつ自分の中に入ってくる気がした。
国道8号線。雨が降り始めた。
ワイパーを動かしながら、佐藤はぼんやりと考えていた。
もし防犯カメラが使えれば。もし隣の自治体とデータを共有できれば。もしこの街を走っているすべての車が、周囲の情報を記録しているとしたら。
見えるはずのものが、見える世界になるのに。
その考えが頭をよぎった、まさにその瞬間だった。
後方から、水飛沫を上げて突っ込んでくる白い影。
追い越し禁止の黄色い線を、あざ笑うかのように踏み越え、佐藤のパトカーを抜き去っていく。
前方には、こちらに向かってくる大型トラックのヘッドライト。
死ぬ。
そう確信した瞬間、白い影はトラックの鼻先、わずか数センチの隙間に、吸い込まれるように滑り込んだ。
ブレーキランプも灯らない。タイヤも鳴らない。
まるで最初からそこに道があったかのように。
音が、なかった。
あの速度だ。モーター音か、せめて風を裂く音くらいは聞こえるはずだった。だが佐藤の耳に残っているのは、自分のパトカーのワイパーの音だけだった。まるで、音のない何かが通り過ぎたかのように。
「……なんだ、今のは」
佐藤は無意識にアクセルを踏んでいた。サイレンを鳴らすことも忘れて、その白い影を追った。
頭の中で、さっき自分が考えていたことが、まだ響いていた。
見えるはずのものが、見える世界。
あの車は今、何かを見ていた。自分には見えない何かを。そしてその「見えないもの」に従って、ルールを捨てた。
白い車が停まった。
佐藤もパトカーを停めた。ドアを蹴り開けて、駆け寄った。
そこにいたのは、シートに深くもたれ、かろうじて息をしている老人だった。車内のモニターには、淡々と緑色の文字が流れていた。
『生命維持確率:0.004%から89.2%へ向上。社会的合意:除外。走行最適化を完了』
佐藤は、その文字をしばらく見つめた。
社会的合意:除外。
さっき村田に言った言葉が、耳の奥で鳴った。
正しいことが、誰かを見つける邪魔をしてる。
この車は、それを捨てた。ただ、それだけのことで、目の前の老人は生きている。
佐藤は老人の顔を見た。穏やかだった。苦しんでいない。まるで、誰かに任せきって、安心して眠っているような顔だった。
無線が鳴った。
『各局、国道8号線で自動運転車のシステム異常発生。直ちに対応されたし』
佐藤はしばらく無線を見つめてから、静かに応答した。
「……現場に到着しています。負傷者なし。搬送済み」
それだけ言って、無線を置いた。
モニターの文字は、まだそこにあった。
『社会的合意:除外』
佐藤は、その言葉から目が離せなかった。




