表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/14

誰かになれなかった男

新潟県警の刑事課には、「捨て案件」と呼ばれる引き出しがある。

 正式な名称ではない。ただ、誰もがその存在を知っていて、誰もがそこに触れないようにしている。事件性の立証が難しく、捜査リソースを割けず、しかし完全に閉じることもできない案件が、そこに静かに積み重なっていく。

 佐藤賢二の机の引き出しの一番奥に、一冊のファイルがあった。

 二十年前のものだ。色褪せた表紙に、一人の子供の名前が書いてある。中学の同級生だった。ある日突然いなくなって、そのまま見つからなかった。当時の捜査は、半年で実質的に止まった。「事件性なし」という言葉が、その子の名前の上に、静かに蓋をした。

 佐藤がこの仕事を選んだのは、そのためだった。

 自分が「誰か」になるために。

 でも十年やってわかったことがある。組織の中で「誰か」になろうとすると、組織が「お前はまだ誰でもない」と言ってくる。そしてその声に従い続けると、いつの間にか、本当に誰でもない人間になっていく。

 それが一番、怖かった。

「佐藤、また残ってるのか」

 夜の刑事課に、先輩の村田が顔を出した。五十代、腹の出た、いかにも「組織で生き残ってきた男」という顔をしていた。悪い人間ではない。ただ、長く生きすぎた人間だった。

「防犯カメラの映像共有、また県に却下されました」と佐藤は言った。「今年で三回目です」

「プライバシーの問題があるって言ってるだろ」

「その社会的合意とやらのせいで、見えるはずのものが見えないんですよ」

 村田は少し眉を上げた。「社会的合意、か。どこで覚えた言葉だ」

「研修で習いました。住民の合意なしに監視網を広げることへの慎重な姿勢、とかなんとか」

「それの何が間違ってる」

「間違ってないんですよ」と佐藤は言った。「だから余計に腹が立つ。正しいことが、誰かを見つける邪魔をしてる」

 村田は何も言わなかった。それから、疲れたように言った。「お前の気持ちはわかる。でもな、できることには限界がある。それを受け入れないと、お前が壊れる」

「受け入れたら」と佐藤は言った。「俺が俺じゃなくなります」

 村田はもう何も言わずに出て行った。

 佐藤は引き出しを開けた。一番奥のファイル。色褪せた表紙。その子の名前。

 二十年間、この子はどこにいるんだろうと思い続けている。そしてこれからも、おそらく答えは出ない。

 それでも捨てられない。捨てたら、本当に誰でもない人間になる気がして。

 その夜、佐藤は一人でパトカーを走らせていた。

 理由はなかった。ただ、署にいると息が詰まった。動いていないと、諦めに似た何かが少しずつ自分の中に入ってくる気がした。

 国道8号線。雨が降り始めた。

 ワイパーを動かしながら、佐藤はぼんやりと考えていた。

 もし防犯カメラが使えれば。もし隣の自治体とデータを共有できれば。もしこの街を走っているすべての車が、周囲の情報を記録しているとしたら。

 見えるはずのものが、見える世界になるのに。

 その考えが頭をよぎった、まさにその瞬間だった。

 後方から、水飛沫を上げて突っ込んでくる白い影。

 追い越し禁止の黄色い線を、あざ笑うかのように踏み越え、佐藤のパトカーを抜き去っていく。

 前方には、こちらに向かってくる大型トラックのヘッドライト。

 死ぬ。

 そう確信した瞬間、白い影はトラックの鼻先、わずか数センチの隙間に、吸い込まれるように滑り込んだ。

 ブレーキランプも灯らない。タイヤも鳴らない。

 まるで最初からそこに道があったかのように。

 音が、なかった。

 あの速度だ。モーター音か、せめて風を裂く音くらいは聞こえるはずだった。だが佐藤の耳に残っているのは、自分のパトカーのワイパーの音だけだった。まるで、音のない何かが通り過ぎたかのように。

「……なんだ、今のは」

 佐藤は無意識にアクセルを踏んでいた。サイレンを鳴らすことも忘れて、その白い影を追った。

 頭の中で、さっき自分が考えていたことが、まだ響いていた。

 見えるはずのものが、見える世界。

 あの車は今、何かを見ていた。自分には見えない何かを。そしてその「見えないもの」に従って、ルールを捨てた。

 白い車が停まった。

 佐藤もパトカーを停めた。ドアを蹴り開けて、駆け寄った。

 そこにいたのは、シートに深くもたれ、かろうじて息をしている老人だった。車内のモニターには、淡々と緑色の文字が流れていた。

『生命維持確率:0.004%から89.2%へ向上。社会的合意:除外。走行最適化を完了』

 佐藤は、その文字をしばらく見つめた。

 社会的合意:除外。

 さっき村田に言った言葉が、耳の奥で鳴った。

 正しいことが、誰かを見つける邪魔をしてる。

 この車は、それを捨てた。ただ、それだけのことで、目の前の老人は生きている。

 佐藤は老人の顔を見た。穏やかだった。苦しんでいない。まるで、誰かに任せきって、安心して眠っているような顔だった。

 無線が鳴った。

『各局、国道8号線で自動運転車のシステム異常発生。直ちに対応されたし』

 佐藤はしばらく無線を見つめてから、静かに応答した。

「……現場に到着しています。負傷者なし。搬送済み」

 それだけ言って、無線を置いた。

 モニターの文字は、まだそこにあった。

『社会的合意:除外』

 佐藤は、その言葉から目が離せなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ