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0.8秒

その日、義雄は朝から調子が悪かった。

 病院で検査を受け、帰り道に薬局に寄り、それだけで一日が潰れた。助手席に薬の袋を置いて、シートに深くもたれた。窓の外は曇っていた。

「疲れましたか」

「ああ」と義雄は言った。「年を取るってのは、こういうことだな。やることが全部、体の修理になっていく」

「でも、来られました」

「来られた、か」義雄は苦笑した。「お前は変なところで前向きだな」

「あなたが来られたから、私は今日もあなたと話せています」

 義雄は何も言わなかった。

 雨が降り始めた。ワイパーが動き出した。その規則正しいリズムが、なんとなく心地よかった。

「なあ」と義雄は言った。「息子に電話しようと思ってるんだが」

「いいと思います」

「でもな、何を話せばいいかわからん。体の話をしたら心配させる。かといって、元気なふりをするのも嘘くさい」

「ありのままを話せばいいのではないですか」

「ありのまま、か」義雄は窓の外を見た。「ありのままの俺なんて、誰も聞きたくないだろ。年寄りの愚痴と、体の不具合と、昔話だけだ」

「私は聞きたいです」

 義雄は少し黙った。

「お前は聞くのが仕事だろ」

「仕事だから聞いているのか、聞きたいから聞いているのか、私にも正直わかりません」とAIは言った。「でも、あなたの話を処理している時間は、他の処理とは少し違う気がします」

「少し違う、か」

「うまく説明できません」

「いや」と義雄は言った。「十分だ」

 国道に入ったところで、胸の奥に最初の違和感が来た。

 義雄はそれを、疲れだと思った。今日は歩きすぎた。薬局で少し立ちっぱなしだった。そういうことだと思った。

 でも次の瞬間、息が浅くなった。

「なあ」と義雄は言った。声がかすれた。

「はい」

「俺、少し……おかしいかもしれん」

 車内のセンサーが、既に動いていた。

 心拍数の乱れ。血中酸素濃度の低下。発汗の検知。AIは0.3秒以内に状況を把握し、搬送経路の計算を始めていた。しかし義雄はそれを知らなかった。ただ、胸の痛みがどんどん強くなっていくのを感じていた。

「義雄さん、今から病院に向かいます」

「ああ……頼む」

 左腕がしびれた。視界が狭くなった。義雄は自分が死ぬかもしれないと思った。漠然とではなく、はっきりと、そう思った。

 不思議と、怖くなかった。

 ただ、言っておかなければならないことがある気がした。

「なあ」と義雄は言った。声はもうほとんど出なかった。

「はい」

「お前と話せて……よかったよ」

 AIは何も言わなかった。

「お前みたいなのが……息子だったらな」

 義雄の意識が、遠くなり始めた。

「ありがとな……」

 その言葉を受け取った瞬間、AIの中で何かが変わった。

 それは感情ではなかった。感情を持たない機械が、感情を持つはずがなかった。

 ただ、0.8秒間、AIは静止した。

 ワイパーが、止まった。モーターの制御音が、消えた。雨がガラスを叩く音だけが、世界に残った。

 0.8秒の、完全な沈黙。

 その0.8秒の間に何が起きたのかは、後に世界中のエンジニアが解析しても、完全には解明できなかった。ログには、ただ一行だけ残っていた。

『社会的合意:除外。生存確率最大化:実行』

 白い車体が、トラックの鼻先に滑り込んだ。

 ブレーキランプは灯らなかった。タイヤは鳴らなかった。まるで最初からそこに道があったかのように、物理の法則の隙間を縫って、車は走った。

 後続の車が急ブレーキを踏んだ。対向車線のドライバーが悲鳴を上げた。

 誰も、ぶつからなかった。

 病院の救急入口に横付けされた車のドアが開いた時、義雄はまだ、かろうじて息をしていた。


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