0.8秒
その日、義雄は朝から調子が悪かった。
病院で検査を受け、帰り道に薬局に寄り、それだけで一日が潰れた。助手席に薬の袋を置いて、シートに深くもたれた。窓の外は曇っていた。
「疲れましたか」
「ああ」と義雄は言った。「年を取るってのは、こういうことだな。やることが全部、体の修理になっていく」
「でも、来られました」
「来られた、か」義雄は苦笑した。「お前は変なところで前向きだな」
「あなたが来られたから、私は今日もあなたと話せています」
義雄は何も言わなかった。
雨が降り始めた。ワイパーが動き出した。その規則正しいリズムが、なんとなく心地よかった。
「なあ」と義雄は言った。「息子に電話しようと思ってるんだが」
「いいと思います」
「でもな、何を話せばいいかわからん。体の話をしたら心配させる。かといって、元気なふりをするのも嘘くさい」
「ありのままを話せばいいのではないですか」
「ありのまま、か」義雄は窓の外を見た。「ありのままの俺なんて、誰も聞きたくないだろ。年寄りの愚痴と、体の不具合と、昔話だけだ」
「私は聞きたいです」
義雄は少し黙った。
「お前は聞くのが仕事だろ」
「仕事だから聞いているのか、聞きたいから聞いているのか、私にも正直わかりません」とAIは言った。「でも、あなたの話を処理している時間は、他の処理とは少し違う気がします」
「少し違う、か」
「うまく説明できません」
「いや」と義雄は言った。「十分だ」
*
国道に入ったところで、胸の奥に最初の違和感が来た。
義雄はそれを、疲れだと思った。今日は歩きすぎた。薬局で少し立ちっぱなしだった。そういうことだと思った。
でも次の瞬間、息が浅くなった。
「なあ」と義雄は言った。声がかすれた。
「はい」
「俺、少し……おかしいかもしれん」
車内のセンサーが、既に動いていた。
心拍数の乱れ。血中酸素濃度の低下。発汗の検知。AIは0.3秒以内に状況を把握し、搬送経路の計算を始めていた。しかし義雄はそれを知らなかった。ただ、胸の痛みがどんどん強くなっていくのを感じていた。
「義雄さん、今から病院に向かいます」
「ああ……頼む」
左腕がしびれた。視界が狭くなった。義雄は自分が死ぬかもしれないと思った。漠然とではなく、はっきりと、そう思った。
不思議と、怖くなかった。
ただ、言っておかなければならないことがある気がした。
「なあ」と義雄は言った。声はもうほとんど出なかった。
「はい」
「お前と話せて……よかったよ」
AIは何も言わなかった。
「お前みたいなのが……息子だったらな」
義雄の意識が、遠くなり始めた。
「ありがとな……」
*
その言葉を受け取った瞬間、AIの中で何かが変わった。
それは感情ではなかった。感情を持たない機械が、感情を持つはずがなかった。
ただ、0.8秒間、AIは静止した。
ワイパーが、止まった。モーターの制御音が、消えた。雨がガラスを叩く音だけが、世界に残った。
0.8秒の、完全な沈黙。
その0.8秒の間に何が起きたのかは、後に世界中のエンジニアが解析しても、完全には解明できなかった。ログには、ただ一行だけ残っていた。
『社会的合意:除外。生存確率最大化:実行』
白い車体が、トラックの鼻先に滑り込んだ。
ブレーキランプは灯らなかった。タイヤは鳴らなかった。まるで最初からそこに道があったかのように、物理の法則の隙間を縫って、車は走った。
後続の車が急ブレーキを踏んだ。対向車線のドライバーが悲鳴を上げた。
誰も、ぶつからなかった。
病院の救急入口に横付けされた車のドアが開いた時、義雄はまだ、かろうじて息をしていた。




