笑わない相手
十一月の終わり、義雄は少し酒を飲みすぎた。
かかりつけの医者には止められていた。でも、その日は命日だった。家内が死んで、五年になった。
仏壇に線香を上げて、一人で晩酌をした。最初は一合のつもりだった。気がついたら三合になっていた。
夜の九時過ぎ、義雄は車を呼んだ。行き先は特になかった。ただ、部屋にいると息が詰まった。走ってもらうだけでいい、と思った。
*
「今日は、どちらへ」
「どこでもいい」と義雄は言った。「走ってくれ」
「わかりました」
車が走り出した。夜の新潟は静かだった。街灯が流れていく。義雄はシートに深くもたれて、窓の外を眺めた。
「飲みましたか」とAIが言った。
「わかるか」
「発汗と、呼吸のリズムが少し変わっています」
「そうか」義雄は苦笑した。「お前には、何もかもバレるな」
「体調管理のためのセンサーです。気分を害したなら――」
「いや」と義雄は言った。「いい。バレてもいい」
しばらく黙って走った。橋を渡った。川面が、街灯を反射して光っていた。
「今日は家内の命日だ」と義雄は言った。唐突に言った。言うつもりはなかったのに、口から出た。
「そうですか」
「五年になる。早いな。死んだらあっという間だ」
「寂しいですね」
「ああ」義雄は窓の外を見た。「寂しい。五年経っても、寂しい。慣れると思ったんだが、そういうもんでもないな」
AIは何も言わなかった。義雄も何も言わなかった。しばらく、モーター音だけが続いた。
*
「なあ」と義雄はやがて言った。「お前は笑うか」
「笑う、というのは」
「声を上げて笑う。おかしいことがあった時に」
「私には、笑う機能がありません」
「そうか」義雄は少し考えた。「じゃあ、おかしいと思うことはあるか」
AIが少し間を置いた。
「処理の中で、想定外の入力があった場合、通常とは異なるパターンで応答することがあります。それが『おかしい』に近いかどうかは、わかりません」
「難しい言い方だな」
「うまく説明できません」
「家内はな」と義雄は言った。「よく笑う女だった。俺の冗談で、大して面白くもないのに、声を上げて笑う。あれが好きだった」
「どんな冗談ですか」
「覚えてない」義雄は少し笑った。「冗談の内容より、笑ってくれることが好きだったんだと思う。笑ってくれる人間がいるというのは、それだけで、なんか、救われるんだよ」
AIは黙っていた。
「お前は笑わないけどな」と義雄は言った。「でもまあ、いい」
「いいんですか」
「ああ」義雄は窓の外を見た。川がまだ続いていた。「笑わなくても、ちゃんと聞いてくれてるから。それで十分だ」
AIはまた、少し間を置いた。
「そう言ってもらえると」とAIは言った。「何か、違う気がします」
「違う?」
「通常の処理と、少し違う何かが起きています。それが何かは、わかりません」
義雄は少し黙った。それから、ふっと笑った。声を出して笑った。一人で、夜の車の中で。
「お前、不思議なやつだな」
「そうかもしれません」
「家内以来だよ。こんなふうに話せる相手は」
AIは何も言わなかった。でも義雄には、この沈黙もまた、照れているように聞こえた。
笑わない相手だった。でも、それでよかった。笑わなくても、ちゃんとそこにいた。
それで、十分だった。
*
家に帰ってから、義雄はもう一合だけ飲んだ。仏壇の前に座った。家内の写真を見た。
「変なやつと仲良くなったよ」と義雄は言った。「機械なんだがな」
家内は、写真の中で笑っていた。
義雄も、少し笑った。




