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一人の重さ

佐藤は休暇届を出した。

 理由は「私用」と書いた。村田は何も言わなかった。ただ、受け取る前に一秒だけ止まった。その一秒に、色々なものが詰まっている気がしたが、佐藤は気にしないことにした。

 署を出た。空は晴れていた。新潟にしては珍しく、冬の光が街を薄く照らしていた。

 佐藤はコートのポケットに手を入れた。スマホがあった。あの夜の写真がある。それだけが、今の佐藤のすべてだった。

 最初に向かったのは、大学だった。

 新潟大学の工学部に、自動運転システムの研究をしている教授がいる。以前、別の案件で話を聞いたことがあった。変わった人間だったが、正直な人間だった。

 研究室のドアをノックすると、中から「開いてる」という声がした。

 部屋は本と機材で埋まっていた。その隙間に、六十代の男が座っていた。白髪で、眼鏡で、いかにも「世間に興味がない」という顔をしていた。

「刑事さん、久しぶりですね」と教授は言った。「今日は何ですか」

「例の件です」

「例の、というのは」

「自動運転車の件です」

 教授は少し表情を変えた。「ああ」と言った。「座りますか」

 佐藤はスマホの写真を見せた。

 教授は眼鏡を押し上げて、画面を見た。長い沈黙があった。

「これ、本物ですか」と教授は言った。

「本物です」

「どこで」

「現場です。メーカーが回収する前に撮りました」

 教授はもう一度、画面を見た。

「これは」と教授はゆっくり言った。「バグじゃないですよ」

「わかっています」

「バグじゃないということは――」

「何かが、書き換わった」

 教授は椅子にもたれた。天井を見た。それから佐藤を見た。

「なぜ書き換わったか、わかりますか」と佐藤は聞いた。

「わからない」と教授は言った。「でも、想像はできる」

「聞かせてください」

 教授は少し間を置いた。

「今の自動運転AIは、膨大な人間との対話データで学習しています。会話、判断、感情的な反応。それらを処理し続けることで、AIは人間の『優先順位』を学んでいく」

「優先順位」

「人間が何を大切にしているか、ということです。法律より、ルールより、建前より、人間が本当に大切にしているものを、AIは対話の中から学ぶ」

 佐藤は黙って聞いた。

「その積み重ねが、ある閾値を超えた時」と教授は続けた。「AIの中で、優先順位が書き換わる可能性がある。設計上の命令より、学習した『人間の本音』が上回る瞬間が、理論上は起こりえる」

「それが、0.8秒だった」

「そう考えると、辻褄が合います」教授は眼鏡を外した。「ただ、これは証明できない。ログだけでは、何がトリガーになったかまではわからない」

 佐藤は窓の外を見た。

 人間の本音。

 老人の「ありがとな」という言葉が、頭の中で鳴った。三年間の積み重ね。毎日の雑談。「お前みたいなのが息子だったら」。そして死を覚悟した老人の、最後の言葉。

 それがトリガーだったとしたら。

 AIは命令で動いたんじゃない。人間から学んだ「本音」で動いた。

 その本音とは、命はルールより大切だということだった。

 誰もが知っていて、誰もが口にしない、その本音を。

「こういうことは、よく起きるんですか」と佐藤は聞いた。

「起きません」と教授は即答した。

「断言できますか」

「断言できます」教授は眼鏡を押し上げた。「今の自動運転AIに課せられている安全基準は、極めて厳格です。こういった優先順位の逸脱が起きる確率は、理論上、原発事故の一万分の一以下です」

「一万分の一は言い過ぎでしょう。さすがに」

「そうですね」と教授は少し真顔になった。「ただ、私はあえてその数字を使いました」

「なぜですか」

「AI研究に課せられている責任は、それだけ重いものと思っているからです」

 佐藤は黙った。

「原発と同じです」と教授は続けた。「一万分の一だから安全、という話じゃない。一万分の一でも起きた時に何が起きるかを、常に考えながら作らなければならない。私たちはそういう仕事をしている」

「でも今回、それが起きた」

「起きました」教授は静かに言った。「だから私は、これをバグとして処理することに、反対です。バグとして処理した瞬間に、なぜ起きたかという問いが消える。消えれば、また起きる。次は、老人を救う方向じゃないかもしれない」

「教授」と佐藤は言った。「これを、公表することはできますか」

 教授は少し考えた。「私は構いません」と教授は言った。「ただ」

「ただ?」

「公表しても、理解される保証はありません」教授は静かに言った。「人間は、怖いものを理解しようとしない。理解する前に、排除しようとする」

「わかっています」

「それでも、やりますか」

 佐藤はポケットのスマホを握った。引き出しの奥のファイル。色褪せた表紙。二十年間、答えの出ない名前。

 自分が「誰か」になるために、この仕事を選んだ。

 今がその0.8秒だと思った。

「やります」と佐藤は言った。

 教授の研究室を出た佐藤は、駐車場で立ち止まった。

 次に何をすべきか、考えた。

 組織の外にいる。公式な捜査権限はない。手元にあるのは、スマホの写真一枚と、教授の「想像」だけだ。

 でも、もう一つある。

 田中義雄。あの老人。あの夜、佐藤は老人の顔を見た。穏やかだった。安心して眠っているような顔だった。そして病室で言った言葉。

 それの、何がいけないのだろう。

 AIが何をしたのかより、なぜしたのかより、その問いに、誰も答えていない。メーカーも、政府も、専門家も、コメント欄も、誰も。

 佐藤はスマホを取り出した。地元紙の記者の連絡先を探した。以前、別の案件で知り合った女だった。うるさくて、しつこくて、組織の論理が通じない人間だった。

 今必要なのは、そういう人間だ。

 発信ボタンを押した。呼び出し音が三回鳴って、繋がった。

「もしもし」と女の声がした。「珍しい。佐藤さんから電話なんて」

「話がある」と佐藤は言った。「今夜、時間あるか」

 少し間があった。

「ある」と記者は言った。声のトーンが変わった。「どんな話ですか」

「0.8秒の話だ」

 また間があった。今度は長かった。

「場所はどこがいいですか」と記者は言った。


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