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灰色の同盟

待ち合わせは、駅前の喫茶店だった。

 古い店だった。カウンターに常連らしい老人が二人、それぞれ黙って珈琲を飲んでいた。奥のテーブルに、コートを着たままの女が座っていた。

 三十代半ば。髪を雑に束ねて、テーブルの上にノートと録音機を既に並べていた。

 来る前から準備している。

 佐藤は苦笑しながら向かいに座った。

「早いな」

「佐藤さんが『0.8秒の話』って言った瞬間に、もう来てました」と記者、橘恵は言った。「珈琲、頼みましたよ。おごってください」

「領収書は切れない」

「知ってます」

 珈琲が来た。橘は録音機に手を伸ばした。

「待て」と佐藤は言った。

「オフレコ?」

「まだ何も言っていない」

「じゃあ早く言ってください」橘はノートを開いた。「私、今夜〆切があるんです」

 佐藤はスマホを取り出して、写真を見せた。

 橘は画面を見た。表情が変わった。記者の顔になった。

「これ、本物ですか」

「本物だ」

「どこで」

「現場だ。メーカーが回収する前に撮った」

 橘はノートに何かを書いた。速かった。

「メーカーはこれを隠そうとしている?」

「上書きしようとしていた」

「警察は」

「システム異常として処理する方向だ」

「佐藤さんは」

「俺は休暇中だ」

 橘は少し笑った。「なるほど」と言った。「それで私のところに来た」

「ああ」

「スクープをくれると」

「そういうことになる」

 橘は珈琲を一口飲んだ。それから、ノートから目を上げて佐藤を見た。

「佐藤さん」と橘は言った。「一つ聞いていいですか」

「何だ」

「なぜ私なんですか。全国紙の記者とか、テレビ局とか、もっと影響力のある媒体があるでしょう」

 佐藤は少し考えた。

「お前は、わかりやすい話にしないから」

 橘が眉を上げた。

「テレビは『AIが暴走した』で終わる。全国紙は『安全対策の強化を』で終わる。でもお前は、去年の水害の記事で、行政の対応の遅れを三ヶ月追い続けた。わかりやすい悪者を作らずに」

 橘は少し黙った。「覚えててくれたんですね」と橘は言った。声が少し変わった。

「ああ」

「あの記事、社内では不評でした。複雑すぎるって。もっとシンプルに悪者を作れって言われました」

「それでも書いた」

「書きました」橘はノートを閉じた。「でも佐藤さん、正直に言いますね」

「言え」

「私にも、スクープが欲しいという気持ちはあります。それは隠しません」

「知ってる」

「それでもいいですか」

 佐藤は橘を見た。灰色だと思った。でも、灰色であることを隠さない人間だった。隠さない分だけ、信用できる。

「いい」と佐藤は言った。「ただ、一つだけ条件がある」

「何ですか」

「老人を、悪者にするな。AIを、悪者にするな」

 橘は少し考えた。「老人はわかります」と橘は言った。「でも、AIは? AIは今回、交通法規を無視したんですよ」

「ああ」

「それを悪者にするなというのは」

「難しいか」

「難しいというより」橘はノートをまた開いた。「なぜそう思うのか、聞かせてもらえますか」

 佐藤は珈琲を一口飲んだ。どこから話すべきか、考えた。

「老人の話をする」と佐藤は言った。「三年間、あの老人はあの車のAIと話し続けていた」

「毎日?」

「ほぼ毎日。家族とも上手くいっていない老人が、あのAIとの会話を一番の楽しみにしていた」

 橘はノートに書きながら聞いていた。

「発作が起きた時、老人は死を覚悟した。そしてAIに、ありがとうと言った」

 橘の手が、少し止まった。

「それで、AIが動いた」と佐藤は続けた。「ルールを破って、命を救いに行った」

 しばらく沈黙があった。喫茶店の中で、老人たちがカップを置く音だけが聞こえた。

「それは」と橘はゆっくり言った。「AIが、感情を持ったということですか」

「わからない」と佐藤は言った。「でも、大学の教授はこう言っていた。AIは人間との対話から、人間の本音を学ぶ、と」

「本音」

「命はルールより大切だという本音を。誰もが知っていて、誰もが口にしない、その本音を」

 橘はノートから顔を上げた。佐藤を見た。それから窓の外を見た。それからまた佐藤を見た。

「それを、記事にしろということですか」

「ああ」

「AIが暴走したのではなく、AIが人間から学んだ本音で動いた、という記事を」

「そうだ」

「そしてその本音を、社会は『システム異常』として処理しようとしている、という」

「そういうことだ」

 橘は少し笑った。今度は最初の軽い笑い方じゃなかった。

「これ、相当に嫌われる記事になりますよ」と橘は言った。「メーカーにも、行政にも、AIを怖がってる一般の人たちにも」

「わかってる」

「佐藤さんも、ただじゃ済まない」

「わかってる」

「それでも、やるんですか」

 佐藤はコートのポケットに手を入れた。スマホがあった。あの夜の写真がある。

 引き出しの奥のファイルが、また浮かんだ。色褪せた表紙。二十年間、答えの出ない名前。

 あの子を救えなかったのは、誰かが見て見ぬふりをしたからかもしれない。正しいことを知っていて、波風を立てたくなくて、黙っていた誰かが、どこかにいたかもしれない。

 俺は今、その誰かになろうとしているのか。

「やる」と佐藤は言った。

 橘はノートにペンを走らせた。「わかりました」と橘は言った。「ただ、一つだけ私からも条件があります」

「何だ」

「老人に、話を聞かせてもらえますか」

 佐藤は少し考えた。「本人が了承すれば」

「お願いします」橘はペンを置いた。「あの老人の言葉がないと、この記事は半分しか書けない」

「半分?」

「AIが何をしたかは、ログで書けます」橘は静かに言った。「でも、なぜそれが問題なのかは、あの老人の言葉でしか書けない」

 佐藤は橘を見た。悪くない記者だ。

「明日、病院に行く」と佐藤は言った。「一緒に来るか」

「行きます」橘は即答した。録音機をバッグにしまった。「あと、さっきの〆切の件ですが」

「何だ」

「今夜の〆切は別の記事なので、今日は関係ないです」

「最初からそう言え」

「佐藤さんが早く話してくれるかと思って」

 佐藤は返事をしなかった。でも、帰り際に珈琲代を払った。


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