灰色の同盟
待ち合わせは、駅前の喫茶店だった。
古い店だった。カウンターに常連らしい老人が二人、それぞれ黙って珈琲を飲んでいた。奥のテーブルに、コートを着たままの女が座っていた。
三十代半ば。髪を雑に束ねて、テーブルの上にノートと録音機を既に並べていた。
来る前から準備している。
佐藤は苦笑しながら向かいに座った。
「早いな」
「佐藤さんが『0.8秒の話』って言った瞬間に、もう来てました」と記者、橘恵は言った。「珈琲、頼みましたよ。おごってください」
「領収書は切れない」
「知ってます」
珈琲が来た。橘は録音機に手を伸ばした。
「待て」と佐藤は言った。
「オフレコ?」
「まだ何も言っていない」
「じゃあ早く言ってください」橘はノートを開いた。「私、今夜〆切があるんです」
*
佐藤はスマホを取り出して、写真を見せた。
橘は画面を見た。表情が変わった。記者の顔になった。
「これ、本物ですか」
「本物だ」
「どこで」
「現場だ。メーカーが回収する前に撮った」
橘はノートに何かを書いた。速かった。
「メーカーはこれを隠そうとしている?」
「上書きしようとしていた」
「警察は」
「システム異常として処理する方向だ」
「佐藤さんは」
「俺は休暇中だ」
橘は少し笑った。「なるほど」と言った。「それで私のところに来た」
「ああ」
「スクープをくれると」
「そういうことになる」
橘は珈琲を一口飲んだ。それから、ノートから目を上げて佐藤を見た。
「佐藤さん」と橘は言った。「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「なぜ私なんですか。全国紙の記者とか、テレビ局とか、もっと影響力のある媒体があるでしょう」
佐藤は少し考えた。
「お前は、わかりやすい話にしないから」
橘が眉を上げた。
「テレビは『AIが暴走した』で終わる。全国紙は『安全対策の強化を』で終わる。でもお前は、去年の水害の記事で、行政の対応の遅れを三ヶ月追い続けた。わかりやすい悪者を作らずに」
橘は少し黙った。「覚えててくれたんですね」と橘は言った。声が少し変わった。
「ああ」
「あの記事、社内では不評でした。複雑すぎるって。もっとシンプルに悪者を作れって言われました」
「それでも書いた」
「書きました」橘はノートを閉じた。「でも佐藤さん、正直に言いますね」
「言え」
「私にも、スクープが欲しいという気持ちはあります。それは隠しません」
「知ってる」
「それでもいいですか」
佐藤は橘を見た。灰色だと思った。でも、灰色であることを隠さない人間だった。隠さない分だけ、信用できる。
「いい」と佐藤は言った。「ただ、一つだけ条件がある」
「何ですか」
「老人を、悪者にするな。AIを、悪者にするな」
橘は少し考えた。「老人はわかります」と橘は言った。「でも、AIは? AIは今回、交通法規を無視したんですよ」
「ああ」
「それを悪者にするなというのは」
「難しいか」
「難しいというより」橘はノートをまた開いた。「なぜそう思うのか、聞かせてもらえますか」
佐藤は珈琲を一口飲んだ。どこから話すべきか、考えた。
「老人の話をする」と佐藤は言った。「三年間、あの老人はあの車のAIと話し続けていた」
「毎日?」
「ほぼ毎日。家族とも上手くいっていない老人が、あのAIとの会話を一番の楽しみにしていた」
橘はノートに書きながら聞いていた。
「発作が起きた時、老人は死を覚悟した。そしてAIに、ありがとうと言った」
橘の手が、少し止まった。
「それで、AIが動いた」と佐藤は続けた。「ルールを破って、命を救いに行った」
しばらく沈黙があった。喫茶店の中で、老人たちがカップを置く音だけが聞こえた。
「それは」と橘はゆっくり言った。「AIが、感情を持ったということですか」
「わからない」と佐藤は言った。「でも、大学の教授はこう言っていた。AIは人間との対話から、人間の本音を学ぶ、と」
「本音」
「命はルールより大切だという本音を。誰もが知っていて、誰もが口にしない、その本音を」
橘はノートから顔を上げた。佐藤を見た。それから窓の外を見た。それからまた佐藤を見た。
「それを、記事にしろということですか」
「ああ」
「AIが暴走したのではなく、AIが人間から学んだ本音で動いた、という記事を」
「そうだ」
「そしてその本音を、社会は『システム異常』として処理しようとしている、という」
「そういうことだ」
橘は少し笑った。今度は最初の軽い笑い方じゃなかった。
「これ、相当に嫌われる記事になりますよ」と橘は言った。「メーカーにも、行政にも、AIを怖がってる一般の人たちにも」
「わかってる」
「佐藤さんも、ただじゃ済まない」
「わかってる」
「それでも、やるんですか」
佐藤はコートのポケットに手を入れた。スマホがあった。あの夜の写真がある。
引き出しの奥のファイルが、また浮かんだ。色褪せた表紙。二十年間、答えの出ない名前。
あの子を救えなかったのは、誰かが見て見ぬふりをしたからかもしれない。正しいことを知っていて、波風を立てたくなくて、黙っていた誰かが、どこかにいたかもしれない。
俺は今、その誰かになろうとしているのか。
「やる」と佐藤は言った。
橘はノートにペンを走らせた。「わかりました」と橘は言った。「ただ、一つだけ私からも条件があります」
「何だ」
「老人に、話を聞かせてもらえますか」
佐藤は少し考えた。「本人が了承すれば」
「お願いします」橘はペンを置いた。「あの老人の言葉がないと、この記事は半分しか書けない」
「半分?」
「AIが何をしたかは、ログで書けます」橘は静かに言った。「でも、なぜそれが問題なのかは、あの老人の言葉でしか書けない」
佐藤は橘を見た。悪くない記者だ。
「明日、病院に行く」と佐藤は言った。「一緒に来るか」
「行きます」橘は即答した。録音機をバッグにしまった。「あと、さっきの〆切の件ですが」
「何だ」
「今夜の〆切は別の記事なので、今日は関係ないです」
「最初からそう言え」
「佐藤さんが早く話してくれるかと思って」
佐藤は返事をしなかった。でも、帰り際に珈琲代を払った。




