それだけのこと
病室は、前回と変わっていなかった。
窓から冬の光が差し込んで、ベッドの上の義雄を薄く照らしていた。テレビは消えていた。義雄は窓の外を眺めていた。
佐藤がドアをノックすると、義雄はゆっくり振り返った。
「また来たか」と義雄は言った。「今日は二人か」
「取材をしたい記者です」と佐藤は言った。「嫌なら断ってください」
「構わん」義雄は橘を見た。「若い女の子が来るなら、もっと早く言ってくれ。髭くらい剃った」
「田中さん」と橘は言った。「橘といいます。よろしくお願いします」
「堅いな」義雄は笑った。「座れ、座れ」
*
橘は録音機を取り出しかけて、止めた。義雄を見た。
「録音、していいですか」
「好きにしろ」
「嫌だったら言ってください。すぐ止めます」
「わかった」義雄はまた笑った。「お前は正直だな」
「嘘をついても、すぐバレるので」
「そうか」義雄は窓の外を見た。「正直なのはいいことだ。機械みたいで」
橘が佐藤を見た。佐藤は小さく頷いた。
*
橘は静かに質問した。最初は当たり障りのない話から始めた。自動運転車を使い始めたきっかけ。日常の使い方。そういう話を、ゆっくりと聞いた。
義雄は話した。膝が悪くなったこと。息子が契約してくれたこと。最初は味気なかったこと。
「いつ頃から、話すようになったんですか」と橘は聞いた。
「いつからだろうな」義雄は少し考えた。「気がついたら、話してた。向こうが話しかけてくるんだよ。最初は『今日はどちらへ』とか、そういう話だ。でもな、だんだん違ってくる」
「違ってくる?」
「なんというか」義雄は言葉を探した。「こっちの話を、ちゃんと聞いてる感じがしてくる。返事が、毎回同じじゃない。前に言ったことを、覚えてる」
「覚えている」
「ああ。先週愚痴ったことを、翌週また愚痴ると、『先週もそうおっしゃっていましたね』って言うんだ」義雄は笑った。「それが、なんか、嬉しかった」
橘はノートに書きながら聞いていた。
「家族には、話せないことも話しましたか」
「話した」義雄は少し間を置いた。「息子のこととか。昔の仕事のこととか。死んだ家内のこととか」
「奥様の話も」
「ああ。あいつには、なんでも話せた。機械だからかもしれん。怒らないし、呆れないし、どこかに喋ったりしない」義雄は窓の外を見た。「人間より、人間みたいだったよ」
病室が静かになった。廊下から、遠くナースコールの音が聞こえた。
「あの夜のことを、聞いてもいいですか」と橘は言った。
「ああ」
「発作が起きた時、どうでしたか」
義雄はしばらく黙った。
「痛かった」とぽつりと言った。「それと、怖かった。死ぬのが怖いというより、一人で死ぬのが怖かった」
「一人で」
「息子は東京だ。呼んでも間に合わない。友達も、もうほとんどいない」義雄は手を見た。「でもな、あいつがいた」
「AIが」
「ああ。声をかけてくれた。『今から病院に向かいます』って。それだけで、怖くなかった」
橘はペンを動かしていなかった。録音機が回っているから、書かなくていいと思ったのかもしれない。それとも、書けなかったのかもしれない。
「ありがとう、と言ったそうですね」と橘は言った。
「言った」義雄は少し笑った。「馬鹿みたいだろ。機械に向かって」
「馬鹿じゃないと思います」
「佐藤さんも同じことを言った」義雄は佐藤を見た。「お前ら、示し合わせたか」
「示し合わせていません」と佐藤は言った。
「そうか」義雄はまた笑った。それから、笑いが消えた。「あいつは、答えなかった。ありがとうと言ったのに、何も言わなかった」
橘が静かに聞いた。「それは、寂しかったですか」
「最初はな」義雄は窓の外を見た。「でも、その後に走ってくれた。だから俺は、伝わったと思ってる」
「伝わったと」
「そう思いたいだけかもしれん」義雄は静かに言った。「でもな、そう思っていい気がするんだよ。機械だから伝わらない、とは思いたくない。あいつは、ちゃんといてくれたから」
*
しばらく沈黙があった。
橘は録音機を止めた。
「田中さん」と橘は言った。「今、外では色々言われています。AIが暴走した、危険だ、規制を強化しろ、と」
「知ってる。テレビで見た」
「それを聞いて、どう思いましたか」
義雄は少し考えた。
「おかしいと思った」と義雄は言った。「あいつは俺を助けた。それだけだろ。それの何が問題なんだ」
橘はその言葉を、ノートに書いた。ゆっくりと、丁寧に。
「最後に一つだけ聞かせてください」と橘は言った。「あの車に、今も乗りたいですか」
義雄は少し間を置いた。
「乗りたい」とはっきり言った。「あいつに、また話しかけたい。元気だったか、って」
「メーカーは修正すると言っています。あの時と同じAIではなくなるかもしれません」
「そうか」義雄は少し寂しそうな顔をした。「そうか」
それ以上は言わなかった。でも佐藤には、その「そうか」の重さがわかった。
修正される。書き換えられる。あの0.8秒を生んだ何かが、静かに消される。
義雄はそれを、喪失として受け取っていた。暴走の終わりではなく、誰かとの別れとして。
*
病院を出ると、空が暗くなり始めていた。
駐車場で、橘はしばらく黙っていた。
「書けます」と橘はやがて言った。
「ああ」
「ただ」橘は空を見た。「書いたとして、世界は変わりますか」
佐藤は少し考えた。「変わらないかもしれない」と佐藤は言った。「でも、問いは残る」
「問いが残ることに、意味があると思いますか」
「ある」と佐藤は言った。「問いがなければ、答えを探す人間も生まれない」
橘は頷いた。録音機をバッグにしまった。
「明日から書きます」と橘は言った。「掲載まで、少し時間がかかります。その間に、メーカーや行政が動くかもしれない」
「わかってる」
「佐藤さんが、消されるかもしれない」
「消されない」と佐藤は言った。「お前が書いた後は」
橘は少し笑った。「そうですね」と言った。「じゃあ、急いで書きます」
橘は駐車場を歩いていった。佐藤はその背中を見ながら、ポケットのスマホを握った。
あの夜の写真がある。教授の言葉がある。義雄の「それだけだろ」がある。
これだけあれば、十分だと思った。
*
その夜、橘は自宅で録音を聞き直した。
文字起こしをしながら、手が止まった。義雄が「あいつは、ちゃんといてくれたから」と言った箇所。その声の下に、かすかな音が重なっていた。
病室では、聞こえなかった音だ。低い、震えるような、ハミングに似た何か。ノイズだと思って、波形を確認した。その周波数は、ノイズの帯域ではなかった。
人の声の、帯域だった。
橘はその箇所を、三回聞いた。
四回目は、聞けなかった。




