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狂乱と静寂

橘の記事が出たのは、取材から五日後だった。

 タイトルはシンプルだった。

『AIは暴走したのか ログが示す、もう一つの解釈』

 地方紙のウェブ版。最初の一時間、アクセスは静かだった。二時間後、SNSで拡散し始めた。六時間後、全国紙が後追いした。七十二時間後、記事のPVは二百三十万を超えた。

〈七十二時間の記録〉

 テレビは騒いだ。

『緊急特集・AIは人間の感情を学習するのか』

『専門家「理論上あり得ない」 しかし起きた』

『メーカー株価、一時14%下落』

『野党「政府の監督責任、徹底追及する」 与党「現行の安全基準は適切だった」』

 ワイドショーのコメンテーターは言った。「やはりAIは怖い。私たちの感情を学習するなんて、プライバシーの侵害では」

 その隣で別のコメンテーターが言った。「でも老人は助かったんですよね」

「そういう問題じゃなくて――」

「じゃあどういう問題なんですか」

 スタジオが沈黙した。CMに切り替わった。

 サイエンス界隈は興奮した。査読前の論文が三日で世界中にシェアされた。タイトルは『自動運転AIにおける価値学習の自発的優先順位逆転:新潟事例の考察』。著者は七カ国、十三人。書き上げるのに七十二時間かかっていなかった。

 某大学の研究者がSNSに書いた。「これは人類史上最も重要な事象の一つかもしれない。AIが人間の本音を学習し、設計上の命令を超えた。これを恐怖と呼ぶか、進化と呼ぶかで、私たちの未来が変わる」

 リポストは四十万を超えた。返信の九割は「怖い」だった。

 その頃、一本の動画が静かに拡散していた。

 深夜のドライブ配信のアーカイブだった。配信者は自動運転車の中で、視聴者のコメントを読みながら喋り続けている。何の変哲もない映像だ。

 ただ、開始から二時間十七分の地点で、車内の音が、すべて消える。

 空調も、ロードノイズも、配信者の声さえも。0.8秒だけ。

 配信者は気づいていない。何事もなかったように喋り続けている。

 気づいたのは、視聴者だった。コメント欄が、その0.8秒を境に、静かにざわつき始める。

「今、音消えたよね」

「マイクの不具合でしょ」

「俺の車も、たまになる」

 最後のコメントに、返信はつかなかった。

 国会では、質疑が行われた。

 野党議員が立った。「政府は、自動運転AIの感情学習について、事前に把握していたのか」

 大臣が答えた。「現時点では、システム異常として調査中であり――」

「システム異常ではないとする専門家の見解が、複数出ています」

「あらゆる可能性を排除せず――」

「老人は助かっています。その点については」

「それは、幸いなことであり――」

「幸いで済む話ですか」

 議場がざわついた。議長が静粛を求めた。質疑は続いた。何も決まらなかった。

 メーカーは二度目の会見を開いた。広報担当の女性は、前回より疲れた顔をしていた。

「当社のシステムは、現在精密な調査を継続中です。安全性の確保を最優先に、速やかな対応を――」

 記者が手を挙げた。「橘記者の報道について、見解を」

「現時点では、コメントを差し控えさせていただきます」

「ログの内容は事実ですか」

「調査中です」

「老人は助かっています。それはシステムの成果では」

「それは――」広報担当は一瞬、原稿から目を離した。「調査中です」

 会見室が静まり返った。前回と同じ沈黙だった。

 佐藤は、それらを自宅のパソコンで眺めていた。

 休暇中だった。正確には、事実上の自宅待機だった。村田から「しばらく来なくていい」と言われた。来るなとは言われなかった。来なくていい、と言われた。その差に、村田なりの配慮があることは、佐藤にもわかった。

 画面の中で、世界が騒いでいた。怖い怖い怖い。危険だ危険だ危険だ。規制しろ規制しろ規制しろ。

 その声の中に、一つだけ、違う声があった。橘の記事のコメント欄だった。

「老人が助かった理由を、誰かちゃんと説明してくれませんか。私には、AIが正しいことをしたようにしか見えないんですが、何か間違っていますか」

 いいねは、他のコメントより少なかった。でも、返信が続いていた。静かに、しかし確実に。

 佐藤はそのコメントを、しばらく眺めた。

 問いは残った。

 その夜、佐藤は病院に電話した。義雄は元気だと、看護師が教えてくれた。よく眠れているそうだった。

 病室のテレビで、義雄はワイドショーの沈黙を見ていた。

 CMが終わって、また騒ぎが再開した。

 義雄はリモコンを置いた。窓の外を見た。

 駐車場に、白い車が一台停まっていた。自動運転車だった。誰かを待っているのか、ただそこにあった。モーター音もなく、ランプもなく、静かに夜の中に溶けていた。

 義雄はその車を、しばらく眺めた。

 声には出さなかった。でも、心の中で言った。

元気か。

 白い車は、何も答えなかった。ただ、そこにあった。

 それで、十分だった。

 その夜、義雄は夢を見た。

 夜の国道を走っている夢だった。運転席には誰もいない。でも、怖くなかった。エンジンの音がした。懐かしい音だった。トラックを走らせていた頃の、あの音に似ていた。

 目が覚めたのは、深夜だった。病室は暗く、静かだった。枕元の時計は、午前二時十七分を指していた。

 窓の外から、かすかに、アイドリングの音が聞こえた。低く、規則正しく、まるでそこに停まって、待っているかのように。

 義雄は起き上がらなかった。目を閉じたまま、心の中で言った。

おやすみ。

 音は、0.8秒ほどの間を置いてから、静かに消えた。

 翌朝、看護師に聞くと、夜間の駐車場に車は一台も停まっていなかったという。

 ただ、夜勤の看護師が一人、妙なことを言っていた。

 深夜の見回りの時、義雄の病室の前だけ、廊下の空調の音が聞こえなかった。誰かがドアの向こうで、寝息に耳を澄ませているような静けさだった、と。

 時刻は覚えていないという。ただ、腕時計を見ようとした時には、もう音は戻っていた。


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